坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年4月4日 イースター礼拝説教「キリストとお目にかかる場所」

聖書 マルコによる福音書16章1〜8節
説教者 山岡創牧師

復活する
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからであ


          「キリストとお目にかかる場所」
主イエス・キリストの復活を記念し、喜び祝うイースターを迎えました。この朝、主イエスの墓を訪れた婦人たちに、天使は告げました。
「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)
しかし、婦人たちは、天使が告げた言葉の意味を、すぐには受け止めることができませんでした。彼女たちは震え上がり、だれにも何も言わなかった、といいます。無理もありません。想像すらしていないことだったからです。婦人たちは、主の復活を、すぐには信じられなかったのです。


 主イエス・キリストの復活を信じるとは、どういうことでしょうか。
 復活と言うと、キリストが墓の中から“生き返った”というふうに受け取られがちです。そして、一度死んだ人間が生き返るなんてあり得ない。信じられない。だから、キリスト教はナンセンスなんだ。そのように考える人が少なからずおられます。
 けれども、復活を“生き返る”ことと考えるのは、その人の誤解なのです。もちろん、私たちは神を、天地を創造された全能のお方である、「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)と信じますから、神さまは、死んだ人間を生き返らせることだってできると信じることもできます。
 けれども、キリストの復活について聖書が語っているのは、文字通り“生き返る”ということではありません。
 使徒言行録1章によれば、復活した主イエス・キリストは、40日にわたって弟子たちに現れ、彼らを教え、なすべきことを告げられた後、彼らの見ている前で天に上げられたと記されています。もし主の復活が文字通り、生き返ったということであったならば、主はその後も弟子たちと活動し、死ぬまで生きたことでしょう。けれども、そうではなかったのです。主は、天に上げられたのです。
 主の復活を信じるとは、主が生き返ったと信じることではありません。にもかかわらず、主の復活を、生き返ったかどうかという視点で考えようとするならば、聖書が私たちに告げようとしている豊かなメッセージを見失うことになります。それこそ、天使が「ここにはおられない」と告げた場所を探して、“いない、いない”“復活なんてない”という結論で終わることになってしまうでしょう。復活した主を探す場所を変えなければなりません。主の復活を考える視点を変えなければなりません。


 主イエス・キリストの復活を信じるとは、どういうことでしょうか。
 天使が婦人たちに告げた言葉に、そのヒントがあります。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(7節)。
 婦人たち、弟子たちは、復活した主と「お目にかかれる」と告げられています。主イエス・キリストの復活とは、主がどんな復活の仕方をしたかが問題なのではなく、主とお目にかかれるかどうかが大切な点なのです。
 主とお目にかかる。ただ単に顔を合わせる、という意味ではありません。
“出会い”という言葉があります。だれかと出会って、何かと出会って、自分の人生が変えられるほどの影響を受けることを“出会い”と言います。弟子たちが復活した主イエス・キリストとお目にかかるということは、まさにこの“出会い”の出来事でした。主が十字架に架けられ、殺されたことに失望した2人の弟子が、エマオへ帰る途中、復活した主とお目にかかり、その語られる教えに心が燃えたと言います。主が十字架に架けられる時、主を知らない、無関係だと3度も、主イエスを否定したペトロは、復活した主とお目にかかって、3度、主を愛すると答えました。主の復活を信じなかったトマスは、その孤独な心を復活の主の愛に包まれ、暖められて、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)と信仰を告白しました。主の十字架刑の際に皆、逃げ出した弟子たちは、復活した主とお目にかかり、迫害をも恐れず、主の十字架の恵みと復活の希望を伝える使徒へと変えられました。
 主イエス・キリストとお目にかかった弟子たちは皆、恐れや不安、悲しみと挫折のただ中で、愛と勇気と希望を与えられ、人生を変えられる“出会い”の出来事を体験しました。
 現代の弟子である私たち、また現代において救いを求めている私たちは、もはや主イエス・キリストと直接お目にかかることはできません。主の姿かたちを見ることはできません。けれども、私たちも主とお目にかかることができる。キリストとの出会いを体験することができる。聖書によって示されている主イエス・キリストの御言葉と愛を知り、感動し、人生を変えられることができる。
 主イエス・キリストの復活を信じるとは、自分も主とお目にかかれると信じることです。主によって人生を変えられる出会いを信じることです。そして、自分の人生が主の御言葉と愛によって変えられる出来事を味わうことなのです。


 ならば、私たちは、復活した主イエス・キリストと、どこでお目にかかることができるのでしょうか。天使はこのように告げました。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(7節)。
 弟子たちは「ガリラヤ」で、復活した主とお目にかかることができると言われています。ガリラヤとは、イスラエルの北方、ガリラヤ湖を中心とするその周辺の地方のことです。そこで、弟子たちは初めて主イエスと会いました。「わたしについて来なさい」(マルコ1章17節)と、弟子として召されました。そこで、主イエスと共に、神の恵みを伝え、病の人を癒し、見捨てられた人を愛し、打ちひしがれた人を立ち上がらせました。そのように、主イエスと共に、生き生きと活動したガリラヤ、そこで復活した主にお目にかかれる、もう1度出会うことができる、と言うのです。


 私たちにも、主とお目にかかることができる「ガリラヤ」があります。そこは、一人一人、それぞれ違う場所、違う状況だと思います。
 今日、礼拝において山岡海波くんが洗礼を受けました。神さまの子供とされ、キリストの体なる教会の一員として、主イエスに従って生きていく約束を神さまと交わし、信仰生活のスタートを切りました。主イエスに召されて弟子となったのです。しかし、大切なのは、これからです。これからの長い生涯で、主イエスと深くお目にかかる出会いの恵みを味わって行ってほしいと思います。
 私も、自分が洗礼を受けた時のことを思い出します。私は16歳、高校1年のイースターに洗礼を受けました。牧師の息子で、教会育ちでありましたが、信仰の“し”の字も知らないような、まさに“これから”というスタートでした。けれども、今振り返ってみると、私はその時、復活した主イエス・キリストとお目にかかってはいなかった、出会ってはいなかったと感じます。主イエスに「ついて来なさい」と召されて弟子となった。けれども、復活した主とまだ出会っていない、主を信じて生きることの何たるかが、まだ分かっていなかったと思います。
 そんな私が、高校を卒業して大学受験に失敗するという挫折を味わいました。1度ならず2度失敗しました。しかも、単に大学受験、進学という問題ではなく、自分がどこに進んで良いのか分からない、生きる目標が見つからない、という悩みに苦しみました。それまで人生が順調に行っていた私にとって、挫折や迷いは初めての経験でしたので、余計に落ち込みが大きかったと思います。精一杯生きられない、無気力な自分を、生きている値打ちのない、だめ人間だと感じていました。生きているのが、嫌でした。
 そのような挫折と悩みの中で、私は復活した主イエス・キリストとお目にかかったのです。主の愛に包まれて、だめ人間の自分でも無価値ではない、神さまは、こんな私のことも大切にしてくださっているということを知りました。味わいました。生きることが喜びに変わりました。人生が変えられたのです。それは、私自身の“復活”と言っても良い出来事でした。
 その時の挫折と悩みの状況、それが私にとって、主とお目にかかる「ガリラヤ」でした。それ以来、私は、主と出会う様々なガリラヤを味わってきました。自分の罪を知りました。神の赦しを知りました。愛の深さを知りました。
 私たちには一人一人、自分の「ガリラヤ」があります。そこで復活した主イエス・キリストにお目にかかることができます。御言葉に聞き、主との出会いを求め続けて歩んでいきましょう。


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