坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年4月11日 主日礼拝「明日のことは分からないからこそ」

聖書 ヤコブの手紙4章13〜17節
説教者 山岡創牧師

◆誇り高ぶるな
4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。
4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。


          「明日のことは分からないからこそ」
「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち‥‥」(13節)。
 イギリスの作家シェークスピアの描いた『ベニスの商人』という作品を読んだことのある人が、皆さんの中にもいらっしゃると思います。この話の中にシャイロックという名のユダヤ人の金貸しが出てきます。彼は意地の悪い、残忍な人物として描かれていて、アントニオという人物が彼から金を借りる際に、“もし返すことができなかったら、アントニオの体から1ポンドの肉を切り取る”という証文を冗談半分で彼に書かせるのです。そして、アントニオが金を返せなかった時、シャイロックは本当にアントニオの肉を切り取ろうとします。しかし、法廷でアントニオの親友の妻が機転の利いた証言をしたことにより、逆にシャイロックは有罪となり、財産を没収されるという結末で終わります。
 この作品の背景には、16世紀、17世紀の当時、キリスト教社会においてユダヤ人は迫害され偏見の目で見られていたという面があります。だから、悪人として描かれているのです。もう一つは、ユダヤ人には商売の才能があり、ヨーロッパの経済界で大きな力を持っていたということがあります。金持ちのユダヤ人に対するねたみもあったのではないでしょうか。
 先ほど読みました13節に記されている「『商売をして金もうけをしよう」という人たち』」というのは、ユダヤ人もしくはユダヤ人キリスト者を指していると言われます。1世紀の当時から、ユダヤ人は商売の才能があり、大貿易商として活動している人々が少なからずいたようです。当時のローマ帝国は、新しい町を次々に開発する都市建設ラッシュの時期であり、ユダヤ人商人は、ビジネス・チャンスのありそうな新しい都市に移住し、そこで大きな利益を上げていたようです。
 ふと高坂にできたピオニイ・ウォークを思い起こしました。今まで開発されていなかった高坂駅東口側にニュータウンが建設されようとしています。まだ住宅はほとんど建っていませんが、そこにいち早く、多くのテナントが集まった巨大なモールが建設され、3月にオープンしました。私も先日、試しに行ってみましたが、ワカバ・ウォークの3倍以上はありそうな規模で、“これは人が集まるわ”と感心しました。ピオニイ・ウォークも言うなれば、新しく開発されるニュータウンで「商売をして金もうけをしよう」と建設されたわけです。
「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち」。彼らは自分の人生を設計し、計画を立てて進もうとしているのです。
けれども、そういう彼らのもくろみを、ヤコブは、「悪いこと」(16節)だと非難しています。一体どうしてでしょうか。


 私たちも、自分の人生に計画を立て、将来設計をします。進学先、卒業後の進路と就職、結婚、子どもの教育、マイホーム計画、老後の生活等、私たちは、目標を持ち、また見通しを立てながら、必要な活動をし、日程を定め、お金を蓄えたりします。そんなに大きなことでなくて、目先のことであっても、私たちは計画を立てます。
 私も、とても計画とは言えませんが、将来の夢のようなものはあります。それは、もう少し年をとって牧師を隠退したら、田舎に小さな家を買って、あわよくば自分で自分の家を建てて、自給自足とまでは無理でしょうが、それに近い生活ができるように広く家庭菜園をする。そして、私は日曜大工が好きなので、教会の人や近所の人たちの必要を聞いて、材料実費のみのボランティアで、ご家庭の棚やちょっとした家具を作る工房を開く。また、近所の子どもたちを集めて、今はやっているカード・ゲームやベイ・ブレードを復活させ、一緒に楽しむ。そんな夢を抱きながら、今は、これからの教会の将来設計をどうしていくかということと、我が家の子どもの教育をどうしていくかということで、頭はいっぱい、手いっぱいです。
 人生に計画を立て、将来設計をすることは、決して「悪いこと」とは思われません。、イソップ童話に〈アリとキリギリス〉というお話がありますが、キリギリスのように行き当たりばったりの生活をするよりも、できればアリのように計画を立て、蓄えておくことが大切だと私たちも考えるでしょう。
 それなのに、なぜヤコブは「悪いこと」だと言うのでしょうか?


 人生に計画を立て、将来を設計すること自体は「悪いこと」ではないのです。そうではなくて、ヤコブは、私たちが計画を立て、将来を設計する人生の根本の問題、人生の根底にある“命”の問題を取り上げているのです。その“命”に対する意識、態度が、根本的におかしい、ズレていると言っているのです。命に対して「誇り高ぶって」(16節)いるのです。
 ヤコブは言います。
「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(14節)。
私たちの命は、明日どうなるか分からないのです。今日、元気そうに生きていて、こうして顔を合わせていても、明日、自分の命は失われているかも知れません。私たちの命は、私たちの手の中にはないのです。自分の力で自分の命をコントロールし、自分の意思でその寿命を定めることはできません。それは、私たち人間以外のものが、すなわち“神さま”がなさることです。
それなのに、私たちは、まるで「明日」があることを当然のように考え、命が自分の手の中にあるように錯覚し、自分の力で生きていると、知らず知らず「誇り高ぶっている」(16節)ようなところがないでしょうか。
 ルカによる福音書12章13節以下に、主イエスがなさった〈愚かな金持ちのたとえ〉が描かれています。ある金持ちの畑が豊作でした。しかし、その収穫をしまっておく場所がありません。金持ちは考えて、今まであった倉を取り壊し、もっと大きな倉を作ることにします。そして、豊かな収穫をその倉に納めて、ほくそ笑みながら、心の中で言うのです。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(12章19節)。ところが、その夜、金持ちの夢の中に神さまが現れ、こう告げるのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(同20節)。
 金持ちは、自分の計画にばかり夢中になって、それが計画通りに行ったことを喜ぶあまり、神さまのご計画を忘れていたのです。私たちの人生には、自分の計画を立てると共に、私たちの命をその手に治めておられる神さまのご計画を、神さまの「御心」(15節)に思いを寄せることが必要なのだと思います。
 もちろん、明日のことは分からないから、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」分からないから、無駄に終わる、徒労に終わるかもしれないから、人生に計画など立てない方が良い。将来設計などしない方が良いと言っているのではありません。
 ヤコブは、このように教えます。
「むしろ、あなたがたは『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(15節)。
「あのことやこのことをしよう」と言うのですから、自分の人生に目標を持ち、計画を立て、将来を設計しながら、生きて良いのです。いや、そのように生きなさいと聖書は私たちに命じていると受け取っても良いでしょう。「主の御心」、神さまのご計画を思い、ゆだねて従うということは、神さまに自分の人生を丸投げして、自分は何もしないということではありません。私たちは自分の人生に対して、自分の意思と努力の及ぶ限り、責任を負わなければなりません。
 けれども、そのような人生の根本に、「主の御心であれば、生き永らえて」という信仰、自分の力の及ばないところがあることをわきまえて、究極的には自分の人生を神さまのご計画に、「主の御心」におゆだねする姿勢が、私たちには必要ではないか。ヤコブはそのように語っていると思うのです。“神さま、お任せします。よろしくお願いします”とおゆだねするところに、心の平安が生まれて来るのです。
 明日のことは分からない。そう考えると、恐れと不安が生まれるかも知れません。もし私たちが、“あなたの命はあと100日です”と言われたら、どうするでしょう? 恐れと不安に絶望してしまうかも知れません。けれども、それが私たちの命なのです。だからこそ、私たちは、私たちの命をその手に治めておられる神さまを信じ、必ず最善にしてくださると「主の御心」を信頼して、おゆだねする心の平安が必要なのです。
 あと100日の命だったら‥‥‥。私たちは、あれもしたい、これもしたいと日常、通常ではできなかったことをしようと考えるかもしれません。けれども、ある程度はできても、たぶん思っているほどはできず、やはりほとんど日常と変わらない生活を淡々と送ることになるのではないかと思います。けれども、日常と変わらない、同じことをしていても、仕事をすることも、家族と過ごすことも、食事をすることも、庭の花に水をやることも、散歩をすることも、ちょっと昼寝をすることも、一つ一つがとても貴重な、愛(いと)おしい時間に感じられるに違いありません。
けれども、命とは本来、一日一日がそのように貴重なものなのです。けれども、私たちは、その貴重さを忘れて過ごしているところがあります。だから、「主の御心であれば、生き永らえて」という信仰は、この貴重さを思い出して、一日一日に感謝して、神の恵みによって“生かされてある”ことを感謝して生きる心にほかなりません。自分の力で“生きている”という誇り高ぶりから、神の恵みによって“生かされてある”という感謝の心を取り戻すのです。


 今日、皆さんのお手元に、〈わたしの葬儀の希望〉という遺言のような、アンケートのようなものをお配りしました。これもまた、自分の命が明日どうなるか分からないということを踏まえて、自分の人生を神さまにゆだねた上で立てる計画のようなものです。ご自分の死と葬儀を意識している年配の方だけでなく、若い方々にもよく考えて提出していただきたいと思います。遺言を考えるとは、自分の命の本来を考え、自分をそこに置き直すことになるからです。
 今日、生かされて生きている。その恵みを感謝し、神さまにおゆだねして、誇り高ぶらず謙虚に歩ませていただきましょう。


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