坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年8月1日 (日本基督教団信仰告白3)「わたしの神よ」

聖書 ヨハネによる福音書20章24〜29節
説教者 山岡創牧師

◆イエスとトマス
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


             「わたしの神よ」
 私たち日本人の宗教風土は、俗に“八百万(やおよろず)の神”と言われます。八百万と言われるほどに、たくさんの神々がいるのです。例えば、受験の時期になると“希望の学校に受かりますように”と願を掛けられる菅原道真公や、日露戦争の英雄であり、明治天皇が逝去(せいきょ)されたとき、殉死した乃木まれすけ等は、人間が神さまとして祭られたものです。また、樹齢何百年、何千年という木が“御神木”と呼ばれ、神さまとして祭られることがありますし、大きな山が神さまになったり、立派な石が神さまになったりします。
 子どもが小さい頃、読んであげた絵本の中に、『ごろはち大明神』というのがありました。ごろはち、というたぬきがいて、村人をだましたり、からかったりします。でも、後で家の前に木の実を置いて行くような憎めないところもあって、村人に受け入れられていました。ある日、村で鉄道工事が始まって、初めて汽車が走ることになりました。生まれて初めて汽車を見る村人たちは、それが現実のものとは信じられず、こりゃ、ごろはちの奴が自分たちをだまそうとしているんだ、と思い込んでしまいます。そして、ワアワアと近づいてくる汽車の前に出て行くのです。その様子をやぶの陰から見ていたごろはちが、汽車の前に飛び出して行って立ちはだかり、自分が犠牲になって村人を救います。そして、死んだごろはちは神さまとして祭られ、ごろはち大明神さまと呼ばれるようになった、というお話です。
 そのように、日本人は、普通の人間以上に何か偉大さを感じるものや、ごろはち大明神のように偉大な行為をしたものを、神さまとして祭る傾向があります。素朴な信仰だと言っても良いでしょう。そのリスペクト(尊敬)の感覚は尊いとさえ言えます。


 しかし、そのような“八百万の神”という宗教の心は、私たちが信じるキリスト教信仰、聖書の信仰とは、大きく違う、180度違うと言わざるを得ません。
 私たちは日本基督教団信仰告白において、次のように信仰を言い表します。“主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたまふ”。唯一の神、神は唯一である、お一人であると信じるのです。
 今日の礼拝、最初の招きの詞(ことば)で、次の御言葉を読みました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6章4〜5節)。エジプト脱出のリーダーであったモーセが、人々を率いて荒れ野を旅し、神の約束の地カナンの目前まで来た時に、改めて神さまとの契約と掟を人々に言い渡したのが申命記であり、これはその1節です。我々がこれから入って行くカナンの土地には、多くの異民族が住んでいる。そして、彼らは様々な神々を信じている。バアル、アシェラ、モレク、ケモシュ、アシュタロテ‥‥‥それらの神々が、あなたがたにとって魅力的に見えることもあるかもしれない。けれども、あなたがたは、それら異教の神々を信じてはならない。我らの神、主はただお一人である。天地を造られた本当の神はお一人である。あなたがたは、この唯一の主、唯一の神を固く信じなければならない、神の言葉を聞き、神の掟を守らなければならない。そのようにモーセはイスラエルの人々を改めて戒めました。
 「我らの神、主は唯一の主である」との信仰が確立したのは、実はモーセよりも、もう少し後の時代です。けれども、それを偉大なるモーセの口を借りて言わせています。イスラエルの人々が、たくさんの神々に触れ、その神々を礼拝し、道徳的に堕落していくという失敗を経る中で、自分たちの信仰とは一体何なのかと反省を迫られ、その中から生まれてきたのが、神は唯一である、という信仰です。
 そして、この信仰はイエス・キリストへと、イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰へと受け継がれていきます。
 例えば、マルコによる福音書12章19節では、主イエスが、最も重要な神の掟として、先の申命記6章4〜5節を取り上げ、神は唯一であることを認めておられます。また、ヨハネによる福音書17章3節においても、主イエスが神さまのことを、「唯一のまことの神であられるあなた」と呼んでいます。
 また、イエスを救い主と信じたクリスチャンたちの手紙においても、例えば、ローマの信徒への手紙3章30節に、「実に、神は唯一だからです」とあり、神がユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあることが語られていますし、コリントの信徒への手紙(一)8章4節には、偶像崇拝との関連で、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」と記されています。他にも10数箇所、神は唯一であると記されている御言葉が新約聖書の中にあります。まさに、“主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神”です。
 このように、聖書と主イエス・キリストは、神さまが唯一の神であることを示しています。
 私はここで、神はお一人であると信じるキリスト教信仰が正しくて、神は八百万と考える日本の宗教感覚が間違っていると言うつもりはありません。是非、善悪の問題として考え、日本の宗教心を排他的に否定することは無意味だと思います。
 ただ、私たちは、八百万の神と言われる日本の宗教風土の中で、唯一の神を信じるキリスト教を信じているのだ、ということは自覚しておく必要があるでしょう。しかも、クリスチャンである私たち自身のうちにも、日本人として宗教心はある、流れていると思うのです。だから、聖書の内容に違和感を感じる、キリスト教の教えに矛盾を感じるということもあるのではないでしょうか。そのような心の葛藤を感じながら、しかし自分がクリスチャンとして生きていくとはどういうことか、日本人の宗教感覚とどう折り合いをつけ、けじめをつけていくのか、とても大切な問題であると言うことができるでしょう。その問題を、自分自身の大切な課題として真剣に問うことなくして、私たちは、唯一の神と、神はただお一人であると信仰を告白することはできないでしょう。


 ところで、日本基督教団信仰告白の中で今日取り上げた告白の1節で、もう一つ重要なことは、私たちの信じる神さまは、三位一体の神である、ということです。“父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたまふ”と私たちは告白します。私たちが信じる神さまは、父なる神と、子であるイエス・キリスト、そして聖霊という3つのお方であって、その3つが一つである、唯一の神として一つであるという信仰です。父なる神は、天地を造り、私たちに命を与え、この世界を導き支えておられる方である。その父なる神を、“父なる神はこのようなお方なのだ”と神さまの心を、御言葉によって、行いによって、十字架と復活によって教えてくださったのがイエス・キリスト。そして、イエス・キリストが天に昇られた後、その代りとなって私たちを助けてくださるのが聖霊。この三者は皆、神であり、しかも三つの神ではなく、一つの神、唯一の神であるという信仰です。唯一の神さま、ただお一人の神さまが、3つの顔を持っていると考えたら良いのかも知れません。前から見ると、父なる神さま。でも、右から見ると子なるイエスさま。左から見ると聖霊さま。そんな感じかも知れません。
 新約聖書の中には、神さまが三位一体であるとは直接は記されていません。ただ例えば、マタイ28章19節に、「彼らに父と子と聖霊との名によって洗礼を授け」とあるように、父と子と聖霊が並んで書かれている箇所が3つあり、それが三位一体の神という信仰の間接的な根拠になっています。
 でも、神さまが三つで一つ、一つで三つ、ということを理屈で考えると、納得がいかなくなります。このことを理論的に考えて理解できるという人は、おそらく一握りでしょう。ほとんどの人が理解できず、納得が行かないのではないかと思います。私も、未だに完全に分ったとは言えません。正直、神さまは3人いらっしゃると言ってくれた方が、理屈の上ではしっくり来るところがあります。
 もちろん、だからと言って、三位一体の神という私たちの信仰を否定するつもりはありません。教会の歴史の中で受け継がれて来た大切な信仰です。今、完全に分らなくても、いつか分かる時が来る。生きているうちに分からなくても、天国に行ったら、本当のことが分かる。だから、納得の行かないところは保留。そう思っています。
 ただし、大切なのは、理屈よりも信仰の実感。イエスは神である、聖霊は神であると告白することのできる実感こそ、大切だと私は思っています。三位一体の信仰は、決して理屈から生まれたわけではない。イエスは神である、聖霊は神であるとの実感から生まれた信仰に違いありません。そして、この信仰告白の代表者こそ、トマスであると私は思うのです。


 復活した主イエスが弟子たちのもとに現われてくださった時、トマスは彼らと一緒にいませんでした。どんな理由でかは分かりません。偶然と言うか、運悪くと言うか、とにかくトマスはその時、その場に居合わせなかったのです。しかし、それによってトマスは非常に大きな疎外感、孤独感を味わうことになったでありましょう。ほかの弟子たちは皆、「わたしたちは主を見た」(25節)、私も、私も!と嬉しそうに語っているのに、彼一人だけ、同じ弟子の一人でありながら、その喜びの輪の中に入ることができなかったからです。その寂しさからトマスは素直に信じられなくなってしまった。そして意地になって、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と、啖呵(たんか)を切ってしまったのではないでしょうか。
 しかし、8日後に、復活した主イエスは再び弟子たちのもとに、否、トマスのもとに来てくださいました。そして、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)とトマスに言われました。
 トマスの言った言葉は、本心ではなかったとしてもひどい言葉です。主イエスがお怒りになり、“お前のような不信仰な奴は、もう私の弟子ではない”と呪われ、見捨てられたとしても、おかしくはありません。
 ところが、主イエスは、トマスを一言も責めようとはせず、トマスの言葉を受け止めて、否、トマスの気持を受け止めて、わたしの釘跡に指を入れてごらん、わき腹に手を差し入れてごらん、それでもいいから、信じないなんて言うな、信じる者になってくれよ、と懇(ねんご)ろに語りかけられたのです。主はトマス一人のために、もう一度現われてくださったと言って良いでしょう。
 その語りかけに、トマスは、自分が丸ごと包まれている優しさ、暖かさを感じたに違いありません。この主イエスの愛に、トマスは“人間以上”のものを感じて心が震えたのでしょう。すなわち、トマスは、その愛に“神”を感じたのです。「わたしの主よ、わたしの神よ」(28節)というトマスの告白は、主イエスの愛の中に、人間を越えるものを、“神”を実感したからこその告白だと私は思います。
 理屈ではありません。そこに神を感じたのです。ここに神がおられると実感したのです。私たちも、聖書の御言葉によって、主イエス・キリストに“神”を感じることが、聖霊の働きに“神”を感じることがあるでしょう。その信仰の実感が、神が三位一体であることを信じる信仰の土台です。


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