坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年8月8日 平和聖日礼拝 「わたしたちの平和」

聖書 エフェソの信徒への手紙2章14〜18節
説教者 山岡創牧師

2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。



             「わたしたちの平和」
 本日は〈平和聖日礼拝〉を迎えました。Kさんに太平洋戦争の時の体験を聞かせていただき、戦争の恐ろしさ、平和の尊さを改めて教えていただき、感謝です。どんな理由であれ、戦争はしてはならないと強く感じます。
 しかし、ただ単に戦争という“現実”がなければ良い、ということではないと思います。戦争は、私たち人間の“心の中”で始まるからです。
 ユネスコ憲章は、その冒頭で次のように謳(うた)っています。
  戦争は人間の心の中で始まるのであるから、人間の心の中に平和の砦(とりで)を築くこと、これこそが世界平和実現の第一歩である。
 まさに、そのとおりだと思います。そして、私たちキリスト者にとって、心の中に平和の砦を築くとは、キリストの御言葉に聴き従い、キリストの心を造り上げることではないでしょうか。


「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」
 争いとは、相手に対して「敵意」を感じるところに起こります。そして、「敵意」は、お互いの“違い”を赦せないと感じるほど意識するところに芽生えるのです。
 ユダヤ人と異邦人、この「二つのもの」は、「敵意」を抱き合っていました。なぜなら、両者の間には「律法」という大きな違いがあったからです。
 律法とは、かつてユダヤ人の先祖たちが、モーセを通して神さまと救いの契約(わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる)を結んだ時、守るべき条項として与えられた神の掟です。だから、ユダヤ人は律法をとても大切に守って生きて来ました。異邦人も律法を受け入れ、守るなら、ユダヤ人も彼らを認めたのです。けれども、そうでなければ異邦人は律法を持たない人間、従って救いの契約と関係なく、神さまから見捨てられた人間として軽蔑しました。そして、中でもそのような意識を非常に強く持ったファリサイ派のユダヤ人は、異邦人だけでなく、同じユダヤ人でも律法を守れない者は軽蔑し、差別したのです。
 けれども、ユダヤ人としてお生まれになったイエス・キリストは、敵意の元となり、平和の妨げとなっている律法を「廃棄」した、と記されています。否、廃棄しつつ、律法に込められた“神の心”を汲み取り、完成したと言った方が正確でしょう。
 キリストは、規則と戒律ずくめの律法の中で、最も重要なのは、心を尽くして神を愛することと、隣人を自分のように愛することの二つに絞り込みました。しかも、例えば隣人を愛することについて、マタイ福音書5章43節以下で、次のように教えています。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。
 「隣人を愛し、敵を憎め」という律法(後半は言い伝え)を、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」とすることで廃棄し、しかし完成させているのです。それは、天におられる父なる神が、だれに対しても「敵意」という「隔ての壁」を持っていないからだと教えています。
 例えばそのように教えて、キリストは、「わたしが来たのは律法や(預言者)を廃止すためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と宣言しておられるのです。


 キリストは、敵意の元であった律法を廃棄されました。そして、それだけではなく、より強い“平和の素”を造り出してくださいました。それは、対立する両者を、十字架によって「一人の新しい人」に造り上げてくださったということです。
「こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(16節)。
 平和な関係は、相手を自分と“同じ”だと認めたところに、最も強く造り上げられて行きます。キリストの「十字架」は、この“同じ”という意識を生み出します。
 キリストは十字架に架けられ、処刑されました。それは、ご自分に敵意を抱き、陥(おとしい)れたユダヤ人の祭司長たち、ファリサイ派の律法学者たち等の仕業でした。しかし、キリストは十字架の上で、ご自分の教えの通りに、敵を赦し、迫害する者のために祈られたのです。ですから、キリストの十字架は、すぐに相手に敵意を抱き、対立し、争い合う者に、その罪に気づかせ、悔い改めに導き、神の赦しを与えるしるしとなりました。
 キリストの十字架を自分の目の前に意識し、自分の罪とエゴに気づき、赦しを祈り求める者は、皆同じ、神の前における“罪人”です。そして、十字架の恵みによって、キリストの愛によって赦された罪人、皆同じ“赦された罪人”となります。それが、「一人の新しい人」ということです。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、日本人であろうと、内面的には「一人の新しい人」なのです。神と「和解」した人ということです。
 赦された罪人なのですから、偉そうにはできません。自分の罪は赦されたけれど、あいつの罪は赦さん!などと自分勝手に言うことはできないのです。それでは、1万タラントンの借金を王様に赦されながら、友だちに貸した百デナリオンの借金を赦せなかった、あの家来と同じになってしまいます。
 赦された罪人として、自分も父なる神のように、キリストのように、「敵意という隔ての壁」を取り壊し、愛と赦しに生きる。それが、「一つの体」、キリストの体である教会に属する者の使命です。


 愛と赦しによって平和な関係を築き上げる。現実の生活、実際の人間関係においてはなかなかに難しいことです。しかし、キリストの心を失わずに、キリストが指し示す平和の道を志していきましょう。平和は、私たちの心の中で始まるからです。


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