坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年10月10日 日本基督教団信仰告白8「キリストの体と呼ばれる教会」

聖書 コリントの信徒への手紙(一)12章12〜27節
説教者 山岡創牧師
◆一つの体、多くの部分
12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


        「キリストの体と呼ばれる教会」
  新訳聖書の原典は、コイネーと呼ばれるギリシア語で書かれました。その中で、日本語で“教会”と訳されたのは“エクレシア”という言葉です。この言葉は本来、“召集された者の集会”という意味を持っていました。
 新訳聖書の中には、このエクレシアという言葉が100回近く出て来ます。私たちが日本基督教団信仰告白の中で言い表している、教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり、という告白の後半部分は、この言葉から生み出されたと考えて間違いないでしょう。
 では、だれが私たちを召集したのでしょうか? もちろん主イエス・キリストです。しかも、以前にも、神は恵みをもて我らを選び、という信仰告白を説き明かした時にもお話ししましたが、キリストは恵みによって私たちを召し集めた、ひっくり返せば、私たちは恵みによって召されたのです。そのような者の集まりが教会なのです。
 私たちの側に、選ばれ召されるに足る、ふさわしい資格や優れた能力や功績があったから召されたのではありません。教会は、そのような意味でのエリート集団ではありません。同じコリントの信徒への手紙(一)1章26節以下に記されているように、人間的に、この世的に見たら、無学だったり、無力だったり、家柄や地位の低い身分の卑しい者だったりするかも知れない。キリストから弟子として召されたペトロたちも、ガリラヤの漁師でした。無学な、貧しいひとびとでした。
けれども、そのような者がキリストによって選ばれ、召されたのです。キリストが私たちのために十字架におかかりになった。その命の犠牲により、私たちは罪を赦され、神さまとの関係を回復することができた。この神の愛によって、キリストの恵みによって私たちは召された。そのような者の集まりが教会なのです。
 だから、私たちは自分を誇ることができません。ただ恵みを感謝するのみです。また、教会に召されている一人一人を、自分勝手な目で評価し、勝手な判断で、この人は教会に必要がない、来ないでほしいなどと考えてはならないのです。一人一人、キリストが命がけで愛し、ご自分に必要とされ、召された人間なのです。神さまが大切にされている一人一人なのです。神さまは、99匹を野原に残しても迷い出た1匹の羊をお探しになる。一人一人が、その1匹の羊なのです。


 けれども、そのようなキリストの思いを差し置いて、自分たちの判断で教会を考えている人々がいました。それは、コリント教会の信徒たちでした。信徒が信徒に向かって、「お前は要らない」、「お前たちは要らない」(21節)と切り捨てるような言葉が言われていたのです。
 なぜ、そのようなことになってしまったのでしょう? それは、自分たちが恵みによって召されたことを忘れてしまったからです。そして、“できる人が必要だ”という一種の能力主義に陥っていたからです。
 12章の初めの小見出しのタイトルに〈霊的な賜物〉とあるように、コリント教会の信徒たちは、聖霊の賜物を豊かにいただいた信徒の多い教会でした。教会のために必要なことのできる様々な力を持っていました。
 ところが、信徒たちはその力を、感謝してキリストのために、教会のために用いるのではなく、だれの力、だれの賜物が優れているかと比べ合い、ナンバー・ワン争いを始めたようです。そのために、妬みやそねみが起こり、争い合うグループが生れ、その一方で、力がない、賜物がないと見られた人々が、「お前たちは要らない」と言われるような状況が起こっていました。
 他人事ではありません。私たちの内にも同じような、比べ合う見方と能力主義の考え方がないとは言えません。そして、ともすれば私たちの教会も、醜く、つまらない争いの場に陥ることがあり得るのです。


 そのようなコリント教会の信徒たちに、パウロは熱い思いで語りかけました。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。
 キリストは信じる私たちの“頭”であり“心”である。そして、キリストの体に属する者は、その心に従い、それぞれが部分として集まりを造り上げるのです。
 キリストの体であるということはまず、あなたがたは“一体”になった、“一体”である、ということです。一体であるということは、“同じ血”が流れている、ということでしょう。
コリント教会には、「ユダヤ人」がおり、「ギリシア人」もおり、また「自由な身分の者」がおり、「奴隷」もいました(13節)。色々な人種や身分、色々な考え方の人々がいました。けれども、色々な人々が、神の聖霊をいただいて、一つにされたのです。共に御言葉を聴き、共に祈り、共に礼拝を守ることによって、一人一人の内に聖霊が働き、キリストを信じる信仰が与えられ、キリストによる罪の赦しに浴する「洗礼」を受けて、皆、「一つの霊」を心にいただいたのです。だから、一人一人の内に聖霊という“同じ血”が通っている。同じ血が通っているのだから、一体なのです。
 この一体感、一つのキリストの体という信仰が、とても大事です。別の言い方をすれば、一人一人が「体の一部」として体に属している、ということです。
 体は健やかに保ちたいものです。だれだって、痛かったり、苦しかったりするのは嫌でしょう。だれしも自分の体の健康には気を使います。
 キリストの体である教会を健やかにするということは、私たち一人一人が、キリストの御心に従って、この集まりを形造(かたちづく)って行くということです。自分勝手なことばかりして、比べ合い、争い合っていたら、体は痛くて、苦しくて仕様がない。しかも、その痛み、苦しみは自分にもはね返って来ます。自分も一部として体に属しているからです。だれかのことを「要らない」という目で見ていたら、いつか自分も同じ目で見られ、同じ痛みを味わうことになります。自分も一部として、キリストの体を健やかにするように、キリストの御心に従い、自分なりの働きをしてこそ、体全体が健やかになります。体全体が健やかになれば、自分も健やかで気持がよいのです。


 そのために何が大切か。従うべきキリストの御心とは何でしょうか? それは、「愛」です。コリント教会の信徒たちに、この後、13〜14章で、最も大切なこととして語りかけられているように、「愛を追い求める」(14章1節)ことです。愛すること、愛し合うこととは、どういうことでしょうか?
 今日の聖書箇所に、ちょっと引っかかる御言葉がありました。それは、22節にある「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」という御言葉でした。どうして弱い部分が必要なのか? 不思議に思いました。
 ここ1年、畑ばかりやっていて走らなかったせいか、またもやだんだん太って来ました。でも、40歳を超えたら顔に出ないんですね。30歳ぐらいの頃は、太ると顔がアンパンマンのように丸くなりました。でも、40歳になると、よほど太らないと顔は丸くならない。代わりに腹が丸くなるのです。典型的なメタボリックですね。体の中で、「弱く見える部分」です。
 この腹は必要か? 正直、要りません。こどもチャペルの子どもの中には、気持ち良いと喜んで、私の腹をなでに来る子がいますけれども、できるなら、このお腹(なか)はなくしたいと思います。健康的にも、見た目から言っても、そうです。普通はそう考えます。
 けれども、パウロは、教会というキリストの体には、「弱く見える部分が、かえって必要」だと言います。その意味は一体、どういうことでしょうか。
 パウロは、私たちは、恰好悪い部分を恰好良くしよう、見苦しい部分を見栄え良くしようとする、と言います。確かにそうです。お腹が出て来たら、あまりぴったりの服を着ようとは思いません。ちょっとゆったりした、お腹の目立たない服を、なるべく着ようとします。
 そのように、弱い部分を引き立たせようとする。配慮する。教会というキリストの体においても、弱い部分を引き立たせようとし、配慮する。それは“愛”なのです。もしも強い部分、恰好良い部分ばかりだったら、愛は必要ありません。そして、愛のない交わりは、きっとギスギスした、居心地の悪い、心の疲れる集まりになるでしょう。
 教会というキリストの体に、「ほかよりも弱く見える部分が必要」なのは、教会が、労わり、引き立たせ、配慮するという“愛”によって形造られて行くためです。それによって、キリストの御心が通う教会になるからです。そして、愛とは決して一方的になることはあり得ません。一部の人が、愛されっ放しということはありません。強く見える人も、皆どこかに弱さを持っていて、お互いに愛を必要としているからです。


 そして、教会において、この“愛”が一番はっきりと現われるのは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)時だと思われます。
 ここに示されているような交わりは、御言葉と祈りを中心とした交わりにおいて、御言葉と祈りを通して聖霊が豊かに働く交わりにおいて形造られていくでしょう。
 先日、ディボーション講座で、〈恵みの分かち合い〉についてテキストから学びました。聖書の御言葉によって、一人一人、自分が示された神の恵みを話し、互いに分かち合うことですが、そのテキストの中に、次のように記されていました。
  ベツサイダの荒野で五つのパンと二匹の魚を通して、主がそれを分け与えられたとき、これは五千倍に増えました。そして残りは十二かごでした。分かち合えば分かち合うほど恵みは増え続けます。悲しみは分かち合えば分かち合うほど少なくなります。これがキリスト者の交わりの秘訣です。(『聖霊とともに生きる』130頁)
 聖書の御言葉をよく読み、神さまが自分に何と語りかけておられるかをよく聴き、自分の生活と照らし合わせてみれば、心の中に、慰めや励まし、平安や勇気、悔い改め等の思いが湧き上がって来ます。その思いを分かち合うとき、共に喜び、共に泣く交わりが生まれます。喜びが増え、悲しみが少なくなる交わりが生まれます。
 共に喜び、共に泣く交わりは、単に仲が良くて、気が合う関係というだけでは生まれません。世間話をしていても、この交わりは生まれません。御言葉によって語りかけられ、聖霊によって心を開かれる必要があります。そこに、互いの喜びを分かち合い、互いの重荷を負い合う交わりが生まれます。
 もちろん、簡単に、一朝一夕にこの交わりはできません。相手の心に働く聖霊を信頼し、相手のために祈り、お互いに分かち合う交わりを重ねていく中で信頼は強まり、互いの喜びと悲しみを分かち合う関係へと深められ、交わりが造り上げられていきます。そのためには、ディボーション講座だけでなく、御言葉を中心にして交わりを持つ機会が多く必要であり、できるだけ、そのような機会を私たちの教会の中に増やしていきたいと考えています。
 互いに愛し合い、共に喜び、共に泣くことのできる交わり、キリストの体である教会を目指し、御言葉と祈りに導かれて、一歩一歩、一緒に造り上げてきましょう。

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