坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年10月17日 信徒証し礼拝「すべての民を弟子にしなさい」

聖書 マタイによる福音書28章16〜20節
説教者 山岡創牧師

◆弟子たちを派遣する
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


          「すべての民を弟子にしなさい」
 教会(日本基督教団)の暦で、今週は〈信徒伝道週間〉となっています。信徒が、主イエス・キリストの救いの恵みを伝道する1週間です。
 もちろん、1年で今週だけ信徒は伝道すればよい、ということではありません。1年52週、私たちは伝道の使命を託されています。その中で、今週は特に、信徒が伝道するということを意識しよう、ということでしょう。
 坂戸いずみ教会では、毎年この信徒伝道週間の日曜日に、〈信徒証し礼拝〉を行います。教会員の中から1人を選び、その方に、洗礼を受けた動機や気持、またその後の信仰生活で感じた恵みを、礼拝の中でお話しし、証ししていただきます。今日は、Hさんに信仰生活の恵みを証ししていただきました。人生、山あり谷あり。しかし、その中で主なる神さまによって、キリストによって導き、支えられた恵みを伺い、共に分かち合うことができ、感謝です。


 信徒が自分の信仰生活の恵みを証しする。これも、信徒が伝道するということの一つの形だと思います。
 大切なことは、伝道というのは牧師がすることだ、牧師にしかできないことだ、とは考えない、ということです。けれども、そのように誤解している信徒が少なからずいる、と聞きます。皆さんの意識はどうでしょうか?
 復活したキリストは、弟子たちを集めて、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(18〜19節)とお命じになりました。この伝道の使命を託された「弟子たち」とは、現代で言えば、だれのことでしょうか?牧師のことでしょうか? いや、信徒もそうだと私は思います。
 信徒も伝道するのです。いや、今年5月の研修会で疋田國磨呂牧師がお話ししてくださった“羊を産むのは羊飼いではなく、羊自身である”ということからすれば、むしろ信徒が伝道するのです。
 もちろん牧師のように伝道せよ、と言うのではありません。例えば、礼拝で御言葉の説教をしなさい、と言うのではありません。牧師の伝道の務めと信徒の伝道の務めは少し違うと思います。伝道の使命感は一緒です。しかし、伝道の形は違っていい。


 では、信徒が伝道する、とはどうすることでしょう。キリストの伝道のご委託の中に、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とありました。そんな、人(だれか)を弟子にするなんて、とてもできない、と思われるかも知れません。けれども、私は、他人のことより、まず“自分”だと思います。すべての民を弟子にする、とは、まず自分が弟子になることが第一歩です。弟子として生きる。キリストに従って生きることです。
 そこで思い出されるのが、藤木正三牧師が書かれた〈伝道〉についての言葉です。
  伝道というのは、道を伝えて信仰に導くことではありません。道は、伝えるものではなくて生きるものだからです。煩悩にあえぐ私たちがそのままに受け入れられて生かされる、これしか生きる道はないとするのが信仰でしょうが、幸福を求めて生きたり、豊かさを求めて生きたり、楽しさを求めて生きたり、人生を生きる道は数多くあるわけで、その中で、この生かされて生きる道以外は選ばない、断固としてそれ以外に生きる道を選ばない、それが伝道ということなのです。伝道の生命は、この断固さにかかっています。(『灰色の断想』164頁)
 伝道とは、自分がキリストの救いの道を歩くこと。断固として、一筋に、その道を歩くことです。このように私たちが日曜日に他のことを選ばず、教会に集まり、礼拝を守ることも、その道を歩くことでしょう。それが、私たち自身が「弟子」となることであり、すべての民を弟子にすることの始まりではないでしょうか。


 私たちが断固として、一筋に、信仰の道を歩む。弟子の道を歩む。そうしたら次に、私たちが他の人に、救いの恵みを、信仰の良さを伝える順番になります。
 私たちが弟子として、断固として、一筋に信仰の道を歩めるのは、そこに恵みがあると信じているからでしょう。何か良いものを感じているからでしょう。そうでなかったら、信仰の道がつまらないものだとしたら、ただ単に痛みや苦しみでしかなかったら、とても私たちは一筋になど歩めません。むしろ離れたくなります。だから、信仰の道を一筋に生きることは、“これがあるから、この道はやめられない”という良さを、ありがたさを、自分なりにつかむことがミソになると言って良いでしょう。御言葉と祈りによって信仰の良さを体得できれば一番いい。でも、それがまだ分からなくても、教会の交わりが楽しい、雰囲気が好きということだって良いと思います。
 そして、その良さ、ありがたさをつかんでいれば、私たちは自ずと他の人に伝道することができるのです。私たちは、お店に買い物に行って、そこに良いものがあれば、買って手に入れるでしょう。そして、自分が良いものを手に入れたら、周りの人にも“あの店には、とても良いものがあったよ”と伝えることができます。自分が良いものだと感じていればいるほど、だれかに勧めたくなります。例えば、どこかにおいしいラーメン屋さんを見つければ、“あそこのラーメン、おいしかったよ”と人に勧めることができます。そして、“おいしかったよ”の一言が、何より人に伝わる力になります。
 信仰と伝道も同じことでしょう。自分が信仰生活を、教会生活を“とても良いものだ”“おいしい”と証しすることができる。その実感が、伝道のエネルギーになります。
 そのために大切なことは、私たち一人一人が、本気で信仰を求めることです。


 信仰の良さを実感することから伝道が始まります。すべての民を弟子にする働きが始まります。
 けれども、だれかを「弟子」にするなんて自分には無理だと思われるかも知れません。ごもっともです。しかし、だれかを「弟子」にするのは自分一人ですることではありません。教会全体で、みんなで協力して、牧師と信徒が協力して行うことです。もっと言えば、「天と地の一切の権能」を持って、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と約束してくださっているキリストに、任せゆだねて行うことです。
そして、小さな一歩を踏み出す。教会案内を配ることだっていい。バザーやクリスマスの行事に誘うのだっていい。聖書を手渡すことだっていい。
先月、教団の伝道委員会の働きで、広島の呉平安教会に行ってきました。そこで、実にユニークな教会案内を見せていただきました。はがきサイズの3つ折り、最後の1枚が教会行きのはがきになっていて、“ご希望の方には新約聖書をプレゼント(郵送)します”と書かれている。
そんなに差し上げられるほど聖書を買うことができるのかと思って聞きましたら、新共同訳の新約聖書が50冊・7,000円で購入できるというお話でした。それはいい!と思いました。1冊140円、これぐらい手頃だったら、教会においでになった方や子どもたちにあげても良いし、皆さんが、ご家族や知り合いの方に差し上げることだってできる。ぜひ教会で買いたいなあ、と思っています。聖書をお渡しすることは、一番ストレートな伝道になります。聖書を読み、信仰を求めて教会に来る、という方は少なからずいらっしゃいます。
例えば、そういったことが、「すべての民を弟子に」することの、小さな第一歩だと思います。伝道した相手が何を思い、どう動くか。そこは神さまに、祈ってお任せしましょう。私たちは、伝道の小さな一歩を、心を込めて、着実に刻んでいくことに専念しましょう。

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