坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年1月2日 大人と子どもの礼拝 「初めにあるもの」

聖書 ヨハネによる福音書1章1〜5節
説教者 山岡創牧師

◆言が肉となった
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


               「初めにあるもの」
 この前のクリスマスから昨日の元旦にかけて、色んな方からクリスマス・カードや年賀状をいただきました。我が家でも昨日は、子どもたちが午前中、時々ポストを見に行っては、“まだか、まだか”と年賀状を楽しみに待っていました。そして、自分に届いた年賀状を見ては、“○○さん(くん)から来た”と言って歓声を上げていました。
 年末・年始にいただいた手紙の中で、特に私の印象に残ったのは、Yさんと、YUさん・Mさん夫妻からいただいたお手紙でした。Yさんは、この教会が開設された1992年に洗礼を受けた最初の人で、今は前橋市で家族3人、2歳のありすちゃんを育てながら、教会にも通っているとのことでした。YU・Mさんはご存知の方が多いと思いますが、昨夏まで3年ほど、私たちの教会で信仰生活を共にした韓国の方で、その後アメリカに留学しました。アメリカに渡る直前に生まれたSちゃんはもう1歳6カ月だそうです。時々お二人で私たちの教会の思い出を懐かしく語り合っているとのことでした。Mさんが日本語で書かれた手紙はとても上手でびっくりしました。
 カードや手紙が届くというのは嬉しいものです。特に、離れたところに住んでいて、普段会えない人から手紙が届くと、その人の様子や考えを知ることができて、その人とのつながりができます。
 ところで、私たちがカードや手紙で、お互いの様子や考えを伝え合ったりする手段、カードや手紙でなくても連絡を取り合うときに使う手段は何でしょう? それは“言葉”です。私たちは、言葉によって、お互いに自分の気持や考えを伝えたり、自分の様子を知らせたりします。


 今日読んだ聖書の箇所には、神さまも言葉を持っていると書かれていました。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)。
神さまの“言葉”は私たちの言葉とはちょっと違います。普通は“言葉”と書きますが、神さまの“言葉”が「言」と訳されているのは、その違いを表すためだと思います。
 まず神さまは、この「言」で天地をお造りになりました。「万物は言によって成った」(3節)と記されているのが、それです。
 旧約聖書・創世記1章には、神さまの天地創造物語があります。そこで神さまは、言葉によって天地を造り上げます。例えば、最初に神さまが、何もないところで「光あれ」(1章3節)と命じると、光が生まれます。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」(5節)と命じると、そのとおりになって大空が生まれます。だから、神の「言」とは、口先だけの言葉ではなく、天地を生み出すほどの力ある言葉です。
 そのような力のある言葉で、神さまは私たちにも語りかけてくれます。連絡をくれます。手紙をくれます。神さまは、ご自分がどんな様子なのか、また、どんなことを考えているのか、どんな気持なのかを、「言」で私たちに知らせてくれます。預言者や祭司と呼ばれる人たちの口を借りて、神さまは私たちに話してくれます。私たちはその「言」を受け取って、“神さまは本当にいるんだ”ということを信じ、“神さまは私(たち)を愛しているんだ”ということを知ることができます。
 それだけでは飽き足らず、神さまは「言」そのものを私たちのところに送ることにしました。神さまの“心”そのものを送ることにしました。きっと、その方が、ご自分が私(たち)のことをどんなに愛しているか、ということが伝わると思ったからだね。
 神さまの「言」が、神さまの心が、“生きた言”“生きた心”になってやって来た。命を持ってやって来た。私たちと同じ“人間”の姿になってやって来た。それが、イエスさま、主イエス・キリストです。神さまの「言」がイエスさまになってやって来た。だから、「言のうちに命があった」(4節)と言われるのでしょう。


 命のある「言」、生きた「言」、イエスさまが来てくださった。そして、私たちに神さまの言葉で話しかけてくれた。
 言葉にも色々あります。正しいことを言っているけれど、優しさのない、冷たい言葉があって、そういう言葉は人を裁き、傷つけます。でも、イエスさまの言葉は違いました。優しい、温かい言葉だった。愛にあふれた言葉だった。12年も病気で苦しんで、イエスさまの服にそっと触れて病気が治った女の人に、「安心して行きなさい」(マルコ5章34節)と言ってくれた。罪を犯して捕まって、みんなから石を投げつけられそうになっている女の人を救って、「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8章10節)と言ってくれた。町のみんなからバカにされ、嫌われていたザアカイに、「今日、あなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と言ってくれた。その言葉で、どれだけの人が救われたか、どれだけの人の心が温められたことでしょう。
 私はふと一つの歌を思い出しました。宮崎駿さんの映画に〈魔女の宅急便〉というアニメがありますが、そのエンディングの曲、松任谷由美さんという人がつくった〈やさしさに包まれたなら〉という歌の1節です。
    カーテンを開いて 静かな木漏れ日の
    やさしさに包まれたなら きっと
    目に映るすべてのことは メッセージ
 イエスさまと出会い、イエスさまの言葉を聴くって、こんな感じなのではないか。イエスさまのやさしさに包まれたなら、イエスさまという「光」に照らされたなら、傷ついた心、冷えた心が温められて、そこに神さまのメッセージが聞こえてくるのではないかなあ、と思います。
 今、朝日新聞では、〈孤族〉という題の連載が書かれています。“家族”ではなく“孤族”。家族がいないわけではない。家族や親戚がいるのに、その家族や親戚とのつながりを失って孤独に陥ってしまう人のことを孤族と言うのだそうです。とても寂しい、つらいことです。
 けれども、神さまは私たちに、“あなたを愛しているよ”とメッセージを届けてくれた。イエスさまを送って、愛の優しさを伝え、神さまとのつながりを作ってくれた。神さまのやさしさの下で、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と教え、私たちを信仰と愛でつながった“神さまの家族”にしてくださいました。
 今日、新しい年の最初の礼拝で、小さな子どもからお年寄りの方まで、皆が集まって、私たちは“神の家族”なんだということを改めて確認できてうれしく思います。この思いを持って、今年も一緒に歩いて行きましょう。

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