坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年1月9日 日本基督教団信仰告白13「天地を造られた神の思い」

聖書 創世記1章1〜31節
説教者

◆天地の創造
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。


             「天地を造られた神の思い」
 日曜日の礼拝において、途中、アドヴェントやクリスマス等の特別な礼拝を除いて、日本基督教団信仰告白の内容を、聖書に基づき、聖書の御言葉に聴きながら学んできました。今日から、日本基督教団信仰告白の“締(し)め”の部分である〈使徒信条〉について学びます。
 使徒信条は、2千年の教会の歴史の中で、多くの信条、信仰告白が生み出されましたが、その最初のもの、最古のものと言われています。いつ、どのようにして生み出されたのか、はっきり分かりません。ただ、紀元2世紀には、洗礼準備のためにどうしても必要なものとして用いられていた、ということです。だれかが教会で洗礼を受けたいと願い出た時、その人流の、どんな信仰でも良いというわけにはいかない。深く、立派な信仰でなくてもいい、教会の中で、使徒たちから受け継がれてきた信仰を信じて告白することが重要だったのです。
 そのようなキリスト教最古の信条の中で、今まで学んできた日本基督教団信仰告白の内容と重なる部分もあるので、重ならないところを取り上げて、学んでいきたいと考えています。


 今日は、わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます、との内容について学びます。
 もし天地、世界が偶然の産物だと言うのなら、それは、タイプライターの活字箱をひっくり返し、それをごちゃ混ぜにして並べ直したら、大英博物館の百科事典が出来上がった、というよりも、もっとあり得ないことだ。神の天地創造について、そのように記された言葉を読んだことがあります。
 この世界と、そこに生きるものが偶然できたとは到底考えらない。それほどに、世界とそこに生きるものには秩序があり、調和がとれているということです。そこに何の“意思”も働いていないとは考えられない、つまり、創世記に描かれているように、神の意思、神の御心によって天地、世界は造り出されたのだと言いたいのです。
 創世記1章2節に「地は混沌(こんとん)であって」とありますが、混沌として何の秩序も調和もないようなところに、神さまはご自分の御心により、言葉で命じることにより、混沌の中に秩序と調和を生み出し、天地、世界をお造りになったのです。例えば、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)とあるように、神さまはみ言葉で命じることによって世界を創造されたのです。
 このような聖書・創世記の天地創造物語に対して、現代の科学は異なる説を唱(とな)えます。例えば、宇宙はビッグ・バンという途方もないエネルギーを持った大爆発によって生まれたという説があります。人間は他の生物とは独立して生まれたのではなく、生物の進化の過程において登場したのだという進化論が、よく知られています。これらの学説が、天地創造物語に異を唱えます。天地とそこに生きるものは、聖書に書かれているように造り出されたのではない、だから、天地は神が創造されたのではない、と。煎(せん)じ詰めれば、神はいない、という不信仰の主張になります。
 そのように信仰と科学は対立しています。アメリカの信心深い一部の州では、学校の教科書に進化論を載せないというところもあるそうです。
 けれども、私は、聖書と科学が対立している、矛盾しているとは思いません。創世記の天地創造物語は、今から2500年も前に書き記されたものと考えられます。もちろん、作者が天地創造の様子を現場で見ていたわけではありません。当時、古代オリエントの世界に広がっていた異教の天地創造神話を元にしながら書き表したものです。また、今日のように科学が発展していたわけでもありません。それにしては、生き物が造り出される順番なんて、かなり進化論の順番に合っているんじゃないか、しかも21節に「大きな怪物」なんてありますから、恐竜の存在も知っていたのかもしれない、などと思ったりするわけです。
 しかし、そういったことではなく、私が、聖書と科学が対立しない、矛盾しないと考えるのは、両者の主張しているポイントが全く違うからです。“土俵”が違うのです。だから勝負にならない。どういうことかと言うと、科学は、天地、世界とそこに生きるものが“どのようにして”できたかという現象を解明し、語ろうとしています。それに対して、聖書は、どのようにという現象を解明しようとはしていません。古代オリエントの創造神話を借りて現象を語っているように見えますが、決してそれを解明して、正しい科学的論説を主張しようとしているのではないのです。聖書は、現象などどうだって良いのです。どんな現象でもよいのです。聖書の作者が言いたいのは、この世界とそこに生きるものが“なぜ”できたかという理由です。天地は“なぜ”できたのか? 神の意志、神の御心によって造り出されたのだと言いたいのです。その神の意志、御心を表しているのが神の言葉です。
 宇宙はビッグ・バンという現象によって生まれたのかも知れない。では、なぜビッグ・バンは起こったのか? 神の御心で起こったと信じるのです。生物は進化したのかも知れない。では、なぜ進化したのか? 神の御心で進化したと考えるのです。
 このように、科学は“どのように”という現象を語り、聖書は“なぜ”という理由を語っています。だから、主張の土俵が全く違うので、矛盾し、対立すると考える必要はないと私は思っています。
 私たちクリスチャンが聖書から受け止めて信ずべきことは、天地とそこに生きるものは神の御心によって造り出されたという理由、神の創造の意思です。偶然ではない、ということです。この世界に、そして私たち一人一人の存在に、神の御心が働いている、ということです。


 この世界が神の御心によって創造されたと信じる。とすれば、この世界には必ず、神の意図があるでしょう。その意図の最たるものが、人間がこの世界を支配するということです。神さまはご自分がお造りになった人間に、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(28節)と命じています。人間を含め、すべての生き物に「産めよ、増えよ」(22、28節)と祝福されていますが、「支配せよ」と命じているのは、人間に対してだけです。それは、人間が神にかたどり、神に似せて造られたからです。
 神は、こうお考えになりました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(26節)。
 ちょっと余談になりますが、神さまが「我々」と言われているのは、神が複数いるということか? 聖書の信仰では神さまは唯一ではないのか? と疑問に思われた方がいるかも知れません。これは諸説ありますけれども、おそらく古代オリエント世界の宗教信仰で、“天における神々の会議”というものの影響があると思います。そこから、“天における神さまと天使たちの会議”というものが考えられます。旧約聖書・ヨブ記1章に描かれているような天上の会議です。そこから、天使たちも含めて「我々」と考えて良いのではないでしょうか。
 神にかたどり、似せる。これは外面の姿、形ではなく、人間の内面性のことと思われます。私たち人間は、神さまの内面性、神さまの心をある程度与えられて造り出された存在だということです。ならば、地を支配すると言っても、自分勝手に支配して良いわけではありません。神さまは言わば、ご自分の代理として人間に地を支配させようとしたのですから、私たちは、神さまの御心が何なのかをよく考えながら、この世界を治める使命を託されています。そこから、環境保全、エコ等を信仰的に考える土台も生まれて来ます。しかし、私たちはともすれば、自分の欲望に従って、発展ばかりを考える身勝手さを持っています。身近な生活のレベルにおいても、そういう面があるのではないでしょうか。神さまを天地の造り主と信じる信仰は、私たちが神さまの御心に従ってこの世界で生きるということを、自分の日常生活の中で実行するという意志が伴って初めて、生きた信仰になります。


 ところで、神さまは、天地創造の経過の中で、一区切りごとに「良しとされた」と記されています。リビング・バイブルでは、この言葉は“満足した”と訳されています。神さまはお造りになった一つ一つのものに満足なさったのです。そして、すべてを造り終え、天地を完成されて、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(31節)と1章の最後で結ばれています。「極めて良かった」。それは、神さまが最高に満足した、ということです。“最高傑作”をお造りになったということです。
 ここから二つのことが導き出されます。それは、神さまが“全能”のお方であり、また私たちにとって“父”のような存在であるということです。
 神さまは、この天地、世界とそこに生きるすべての生命を、最高傑作としてお造りになったのです。それほどに全能だ、何でもできるということの証明です。クリスマス物語において、天使がマリアに告げたように、「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)のです。この、神の全能を信じて、神さまがなしてくださるお計(はか)らいにゆだねる思いを持つ時、私たちは、目の前の出来事や結果が、どんなに不都合で、苦しく悲しいものであっても、それだけに心を飲み込まれ、支配されずに生きることができます。
 また、神さまはご自分が満足して生み出したものに、言わばご自分の“子”のような存在に、親のような、父のような愛情を抱いておられると、私は思います。
私は子供の頃、“工作少年”の一面がありました。ボール紙とはさみとセロハンテープで、ロボットや戦艦や戦闘機をつくり、油性のカラーペンで色を塗りました。5時間も6時間もかけて、ご飯も食べずにつくる。今、映画館では〈宇宙戦艦・大和〉の実写版を放映していて、見に行きたいなあと思っているのですが、何カ月もかけて1mぐらいある宇宙戦艦ヤマトをつくったこともあります。丹精込めてつくった作品は、大切な宝物なんですね。大事にしました。
(ある時、友達から作った作品をバカにされて、大げんかをしたこともありました)
 でも、壊れやすいんですね。ちょっと動かして遊んでいると、取れたりする。テープがはがれたりする。でも、捨てたりしない。一生懸命修理します。それは、自分が愛情を込めてつくった宝物だからです。何とか直したいと思う。大切だからです。
 神さまもそういう気持なんだと思います。いや、もっともっと、ご自分が愛情を込めて、一生懸命お造りになった世界だから、私たちだから、大切なのです。宝物なのです。愛する子どもなのです。だから、たとえ私たち一人一人が、神さまを無視して背中を向けていても、神さまの心とはかけ離れた生き方をしていても、大切なものとして見守っていてくださる。“大切なんだよ”という気持を伝えて、信頼関係を回復したいと願っておられるに違いありません。その神さまの思いが自分の心にジーンと沁(し)みると、私たちはそれまでとは違う心で生き始めるようになる。言葉が、態度が、行いが変わって来るのです。愛が生まれて来ます。自分を大切に、人も大切にするようになります。天地を造られた神さまを信頼する信仰が、そこにあります。

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