坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年1月23日 日本基督教団信仰告白15 「よみがえりを信じる」

聖書 ルカによる福音書24章13〜35節
説教者 山岡創牧師

◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


              「よみがえりを信じる」
私たちが信じて告白している日本基督教団信仰告白。その内容を考えると、私は一つだけ物申したいことがあります。それは、この信仰告白には、主イエス・キリストのよみがえり、復活について告白している内容がない、ということです。上から下まで、よーく読み返してみてください。やっぱりないのです。
 これで、最後に加えられ、代々の聖徒と共に‥‥告白す、と言われている使徒信条の中に、キリストの復活、よみがえりを信じる、という内容がなかったら、私たちの信仰告白は、主イエス・キリストのよみがえりを言い表わさない告白内容になっていたことになります。
 だから、この点については、日本基督教団信仰告白も改正の余地があるのではないかなあ、と私は考えています。


 主は‥‥三日目に死人のうちからよみがえり、と、私たちは使徒信条において告白します。新約聖書にある4つの福音書は、主イエス・キリストのよみがえり、復活を書き記すことに、相当のページを割いています。また、福音書に続く使徒言行録を読むと、ペトロをはじめとする弟子たちが、主イエスが復活したことを宣べ伝え、自分たちは主の復活の証人であると語っていることからも、主の復活、よみがえりが、キリスト教信仰の最も重要な内容の一つであることが分かります。私たちも、この信仰を避けて通ることはできません。
 けれども、皆さんの中には、復活の信仰はちょっと避けて通りたい、ちょっと脇に置いておきたいと思う方もいるかも知れません。そう思うのも、決して不思議とは言えません。なぜなら、主イエス・キリストが復活したということは、私たちの理解や経験を超えるような出来事だからです。
 もしクリスチャンでない人が、キリストの復活という話を聞いたら、そんなことはあり得ないと一笑に付すでしょう。キリスト教信仰はナンセンスだと思う人もたぶんいるでしょう。それは、キリストの復活を、一度死んだ人が生物学的に、医学的に生き返ることだ、と考えているからです。だから、そんなことはあり得ない、ということになるわけです。
 では、聖書は、主イエス・キリストの復活を、そのような意味で“生き返る”ことだと語っているのでしょうか。どうやらちょっと違うようです。
 例えば、使徒言行録1章には、「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(3節)と記されています。その後、主イエスはどうなったか? 1章9節には、主イエスが「天に上げられた」と、そして「彼らの目から見えなくなった」とあります。もし主イエスが生き返ったのであれば、30歳ぐらいの年齢だったわけですから、もっと長く生きることができたでしょう。でも、40日で(正確に40日ではないにしても)天に上げられたと言うのですから、主の復活は、いわゆる“生き返った”ということではないと考えられます。
 また、今日読んだルカ福音書24書でも、二人の弟子が、目の前にいる人がイエスだと分かった瞬間、「その姿が見えなくなった」(31節)と言うのですから、主イエスの復活は、やはり生き返ることとはちょっと違うのでしょう。
 では、弟子たちが見たものは何だったのでしょうか。弟子たちの願望が生み出した“幻”だったのでしょうか? 聖書は、それも違うと言っています。
 今日読んだ聖書箇所の直後に、よみがえった主イエスが、集まっている弟子たちのもとに現れたことが記されています。弟子たちは、あまりのことに「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)というのです。弟子たちでさえ、自分たちは亡霊を見ているのではないか、幻を見ているのではないかと思ったと言うのです。それを察して、主イエスはこう言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38〜39節)。こう言って主イエスは手足を見せ、また、弟子たちの前で焼いた魚を食べて見せたと言うのです。主イエスの復活は、亡霊ではない、幻ではないと聖書は語っているのです。
 生き返ったと言うことではなく、幻でもない。そういうこととして聖書は、主イエス・キリストの復活、よみがえりを語っています。では、一体何なのか?と聞かれたら、ちょっと困ります。はっきり“こうだ”とは言えない。分からない。私たちの理解や経験常識を超えているからです。だからこそ、信じる以外にないのです。


 ただ、一つ言えることは、復活した主イエスが現れ、それを見た弟子たちの体験が、非常に“リアル”だ、ということです。抽象的ではなく、非常に具体的に、生き生きと、まさに生き返ったかのように、その体験がリアルに描かれている。私は、それが嘘だとは思いません。人生の真実な、決定的な出会いとして、そのように描く以外、描きようがなかった。語る以外、語りようがなかったのでしょう。弟子たちにとって、それほどリアルな体験だったのです。
 今日、聖書で読んだところも、そういうリアルな体験の一つです。主イエスが十字架に架けられ、処刑された後、二人の弟子が失望して、エルサレムからエマオという村へ向かっていました。たぶん彼ら二人の故郷だったのでしょう。
 ところが、そこに一人の人が現れ、一緒に歩き始めました。そして、二人が何を話し合っているのか、問いかけました。
 クレオパともう一人の弟子は、自分たちが望みをかけていた主イエスが処刑されたこと、そして仲間の婦人たちが、墓に主イエスの体がなく、天使が現れて「イエスは生きておられる」(23節)と告げたことなどを話しました。そのことについて話し合いながら、エルサレムを去って行くのですから、二人の間では、あり得ない、信じられない、との話になっていたのでしょう。
 それを聞いた旅人は、「ああ」(25節)とため息をついて、メシア(救い主)とは苦しみを受けて、それから栄光に入るのだと、聖書全体に渡って説き明かしたと言います。その時、「わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と後で回想するように、二人の心は燃えていました。その人の語る聖書の言葉によって、生き生きとしてきました。絶望ではなく希望があふれて来たのです。
 その後、宿をとり、そこで旅人がパンを裂いて渡してくれたとき、二人の目が開けて、その旅人が主イエスだと分かったと言います。しかし、その瞬間、主イエスは見えなくなりました。
 このリアルな体験を、一体どう考えれば良いのか? どう表せば良いのか? 幻だとは到底思えない。けれども、主イエスがずっといてくれたわけではない。その姿は見えなくなったのです。
 その時、弟子たちは、“ああ、これが、かつて主エスが予告しておられた復活という出来事だ”と悟ったのです。幻とは言えない。でも、生き返ったのでもない。では、一体何だろう? その時、弟子たちは、かつて主イエスが、「人の子は‥‥‥殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9章22節、他)と預言されていたことを思い出したのです。“ああ、これが主イエスの言われた復活だ、よみがえりだ”。だから、彼らは、自分たちのリアルな体験を語り伝えるのに、幻だとは言いませんでした。生き返ったとも言いませんでした。“よみがえり”だと、“復活”だと言ったのです。


 主イエス・キリストのよみがえり、復活。それは、今までの自分の経験から理解すべきことではありません。使徒信条でも、‥‥信じます、と告白するように、信ずべきことです。
 では、信じるとはどういうことでしょうか? 弟子たちのように、私たちもリアルな体験を味わうことです。聖書の御言葉に、主の命をいただく聖餐に導かれて、自分の人生の中に、喜び楽しみ、苦しみ悲しみの出来事の中に、“私は、復活した主イエスを見た”と、はっきりと言えるようなリアルな体験をすることです。「わたし(たち)の心は燃えていた」(32節)と言えるような体験をすることです。だれが何と言おうと、幻だ、嘘だと言われようと、自分にとっては確かな、復活して生きている主イエス・キリストを見たと言える体験を味わうことです。そして、それを本気で求めることです。
 そういう信仰のリアルな体験は確かにあるのです。その証拠に、それを味わった時、私たちは全く変わります。変えられます。不思議なほどに変えられます。劇的ではないかもしれません。けれども、変った自分、変えられた自分に、きっと気づきます。
 弟子たちがそうでした。キリストの復活とは何かと考えるとき、間違いのない、はっきりと言えることは、それによって弟子たちが変わった、変えられたということです。
 最後の晩餐の席上で、主イエスの死を予感しながら、ペトロら弟子たちは、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)と言っていました。けれども、主イエスが捕らえられたとき、弟子たちは皆、逃げ去り、ペトロは、自分が弟子だということを否定しました。彼らは、主イエスが十字架の上で処刑される場所にも現れず、見届けませんでした。なぜか? 死ぬのが怖かったからです。
 ところが、そのような弟子たちが、復活した主イエスと出会った後は、死ぬことも恐れずに、主イエスから教わり、受け継いだ救いを伝え出したのです。弟子たちの多くが捕らえられ、殉教しました。けれども、弟子たちは信じることも、伝えることもやめなかったのです。だからこそ、今日の教会がある。確かに、ここにある。
 それは、“死ぬのは怖い”から“死んでも怖くない”へと変えられたからでしょう。それは、“死ぬことは終わりではない。滅びではない。絶望ではない”と信じさせる何かリアルなものに出会ったからでしょう。それが、主イエス・キリストの復活でなくて、一体何だと言うのでしょう。
 復活の信仰、体験は私たちを変えます。私にもリアルな体験があります。だからこそ、私は信じ続けます。教会に、キリストの体につながり続けます。皆さんの中にも、“私は復活した主と出会いました”と言い得る信仰に体験をお持ちの方もいるでしょう。まだ、これからという人もいるでしょう。復活を求め、復活を信じて、これからも共に信仰の道を歩き続けましょう。

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