坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年1月16日 日本基督教団信仰告白14 「陰府の者をも救いたい」

聖書 ペトロの手紙(一)3章18〜20節
説教者 山岡創牧師

3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。



             「陰府の者をも救いたい」
 陰府(よみ)の世界。“黄泉”という漢字を書く場合(仏教の用語でしょうか)もあるようですが、聖書では“陰府”と書きます。
 先週の礼拝で、神の天地創造について創世記1章からお話ししましたが、当時のユダヤ人は、世界は天と地と地下から成ると考えていました。そして、地下に陰府があり、そこは死者が眠る暗い領域でした。しかも、陰府では、死者は神さまとの交わりを絶たれ、そこから逃れることのできないところとして非常に恐れられていたようです。
 新訳聖書・ルカによる福音書16章19節以下に「陰府」(23節)の話が出て来ます。ある金持ちがいました。彼は、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの門の前にラザロという貧乏人がおりました。彼の体はできものだらけで、金持ちの家から出る残飯でその日その日をしのいでいました。
 やがてラザロは死んで、天使たちによって天の宴席(宴会場)のアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。(アブラハムとは、ユダヤ人が“信仰の父”として崇(あが)める人物です)他方、金持ちも死にましたが、彼は「陰府」に行くことになりました。ユダヤ人の死生観も少しずつ変化してきて、このたとえ話の中では、死者の行く場所として「陰府」だけでなく、天の「宴席」(22節)が想定されています。
さて、金持ちは陰府で炎にさいなまれ、もだえ苦しんでいるとき、ふと目を上げると、宴席にアブラハムとラザロがいるのが、はるかかなたに見えました。そこで、彼はアブラハムに向って大声で叫びます。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(24節)。すると、アブラハムが答えます。「‥わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」(26節)。
 このように、陰府は神さまとの交わり、天とのつながりを失った領域として、逃れることのできない領域として、主イエスのなさったたとえ話の中でも描かれています。

 けれども、私たちは使徒信条において、主は‥‥よみにくだり、と信仰を告白します。そのような陰府に、神さまとの交わり、つながりを断たれ、2度と逃れることのできない陰府の世界に、主イエス・キリストがおくだりになったと、私たちは信じているのです。
 主イエスはそのご生涯の最後を、十字架の上で閉じられました。主が十字架にお架かりになったのは、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を贖い、私たちが神さまとのつながりを断たれたような世界に行かずに済むようにしてくださるためです。
 その主イエスは復活なさり、40日間に渡って弟子たちに現れ、彼らを教え諭(さと)され、その後、天に昇られたと新約聖書・使徒言行録1章に記されています。それで、私たちはともすれば、主イエスは陰府になどくだっていない、十字架での死後、復活して天に昇られたのだ。天の宴席に昇られ、アブラハムのそばはおろか、神さまの右の座にお就きになったのだ。イエスさまは神さまの御心に従って生きられたのだから、陰府になど行くはずがない、と考えてしまうかもしれません。
 けれども、そうではありません。主イエスも陰府にお降(くだり)りになったのです。私はふと、主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉を思い起こします。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)。あの叫びは、主イエスが父なる神さまとの交わり、つながりを断たれて、陰府に行くことになることを暗示する象徴だったのかも知れません。
 主イエスは陰府におくだりになりました。聖書も語り、私たちも使徒信条で告白しますが、主は‥‥三日目に死人のうちからよみがえり、とあるように、主イエスは十字架で死んだ後、三日目に復活なさったと私たちは信じています。この間の、言わば“空白の二日間”を私たちは見落としがちですが、この間に、主イエスは陰府にお降りになったのでしょう。


 では、主イエス・キリストはなぜ、何のために陰府におくだりになったのでしょう?。今日読んだ聖書の御言葉にも、キリストは「正しい方」だと記されていました。「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」(18節)とありました。だから、主イエスは、先ほどお話しした金持ちと同じような理由で、すなわちご自身の罪のために陰府にくだられたたわけではないでしょう。
 では、なぜ主イエス・キリストは陰府にくだられたのでしょう? その答えがズバリ、19節に示されています。
「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)。
 キリストは、陰府に行った人々に福音を、神の救いを宣(の)べ伝えるために、ご自分も陰府にくだられたと言うのです。
 もう1箇所、同じくペトロの手紙(一)4章5〜6節にも注目してみましょう。
「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」。
 キリストは陰府にくだり、死んだ者にも福音を、神の救いを告げ知らせてくださいました。それは、死んで陰府に行った者が、地上の生命、地上の体を失って、霊となって陰府にくだった人々が、霊において生きるようになるために、陰府にある人々が、キリストの恵みによって大きな淵を渡り、天の宴席に迎えられる者になるためなのです。生きている時に神の御心に聴き従わなかった人々に、死んだ後でなお、御言葉を語り聞かせよう、救いを告げ知らせようとなさったのです。そうまでしてキリストは、神さまは、私たち度(ど)し難い人間をお救いになりたいのです。ご自分と交わり、つながる者になさりたいのです。
 私は、先ほどの〈金持ちとラザロ〉のたとえ話を再び思い起こします。ラザロに自分を舌を冷やさせることをアブラハムから断られた金持ちは、では、地上で生きている自分の家族、兄弟のところにラザロを遣わして、「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)と頼みます。ところが、アブラハムは、あなたの家族、兄弟には「モーセと預言者」(29節)がある、つまり“聖書”がある。ラザロが行かなくても、聖書の御言葉に耳を傾ければ良いと答えます。しかし、金持ちはなおも食い下がります。「死んだ者の中からだれかが兄弟たちのところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(30節)。けれども、アブラハムは語ります。聖書の御言葉に耳を傾けないのなら、「たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聴き入れはしないだろう」(31節)と。そのように、私たち人間は、救うのに度し難い存在だと聖書は語っています。死者の中から生き返るという奇跡が起こっても、その者の言葉を受け入れ、信じはしないだろうと言うのです。そうです。私たちは、なかなか神さまに“自分”を明け渡そうとはしない。私たちは、神の言葉に、神の業に、自分の経験や理解から難癖をつけ、批判し、素直に信じて聞き従おうとはしないのです。
 そのような私たちのために、キリストは、私たちが生きている間に聴き従わなかったから、もうダメだと諦めない。生きている時だめなら死んだ後だ、死んだ後なら物事の真理が、命の道理が、生きている時よりも、よーく見えるだろう、分るだろうとお考えになったのです。
 陰府と天の宴席の間には、大きな淵があって渡れないとアブラハムは語りました。けれども、主イエス・キリストは、越えることのできない大きな淵をお渡りになりました。死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして、渡ることのできない大きな淵に、一本の橋をかけ渡してくださいました。陰府にある者が、陰府で告げ知らされたキリストの御言葉を、神の救いを信じて、その橋を通るためです。大きな淵を渡って、陰府から天の宴席に、父なる神さまのおそばに来ることができるようになるためです。そうまでして、陰府にある人々を、キリストは救いたいと願われたのです。それは、キリストの愛だ、ご自分がお造りになった人間に対する神の愛だと言うほかありません。


 キリストは陰府にくだり、陰府にいる人々にも宣教してくださった。そのことに私たちの希望があります。
 皆さんの中には、自分は主イエス・キリストを信じているけれども、自分の家族親族や友人で信じていない人も少なからずいる。中には既に死んでしまった者もある。そういう人々はどうなるのだろう。天国には行けないのだろうか。同じところには入れないのだろうかと心配する方もいらっしゃるかも知れません。
 けれども、その心配を既に、キリストは取り除いてくださっているのです。陰府と天国とは、大きな淵で断絶された世界ではありません。キリストが救いの橋でつないでくださったのです。陰府で福音を宣教してくださったのです。そのキリストの言葉は、生きているときよりも、陰府で聞く方がはるかに分かるのです。もしかしたら、私たちの家族や友人は、私たちよりも先に、既に天の宴席についているかも知れません。
 もちろん、他宗教を信じている方は、すべての人が聖書が語る天国に入ると言われるのは了解し得ないでしょうし、私も他宗教の語る死後の世界を否定しようとは思いません。ただ私たちは、死後の心配をしないで良い、自分のことも人のことも神さまが最善にしてくださると信じることができるのです。
 けれども、ここでいちばん考えるべきは、やはり“自分”のことでしょう。今日の御言葉は、「あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)と記されていました。「あなたがた」と言われているのはだれか、私たちのことです。“わたし”のこと、“自分”のことです。自分は天の宴席に迎えられるといい気になっていてはいけません。主イエスも一方では、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7章21節)と言われています。
 けれども、主イエス・キリストの救いは“2段構え”です。仮に地上の生活から天の国に入ることができなかったとしても、陰府からもう1度、天の国に入ることが許されている。これは、私たちの力や行い、正しさの賜物ではなく、ただただ神さまの恵みの賜物です。私たちの命が、そして私たちの霊が、絶えずキリストによって、父なる神さまによって配慮され、救われている。このことを信じて、感謝を忘れずに歩むことこそ、私たちキリスト者の務めであり、生きた信仰告白です。

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