坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年2月13日 日本基督教団信仰告白16 「教会を信じます」

聖書 ペトロの手紙(一)2章3〜10節
説教者 山岡創牧師

2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、
2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。


         「教会を信じます」
  私たちが、“これが私たちの信仰です”という思いを込めて告白する使徒信条。その中に、きよい公同の教会‥‥を信じます、という告白の言葉があります。簡単に言えば、“教会を信じます”という信仰の告白です。
 教会を信じる、って何か変だな。そう思われた方もいると思います。父なる神を信じます。主イエス・キリストを信じます。聖霊を信じます、と告白するのは分かる。それらは皆、目には見えないもの。目には見えないけれども信じるべきもの、信ずべき神です。けれども、教会というのは、私たちの目の前にある。こうして集まり、共に礼拝が守られる。その教会を信じるとはどういうことだろうか。そういう疑問が湧いたとしてもおかしくはありません。
 “教会を信じます”というのは不思議な信仰告白です。けれども、考えてみれば的を得ているのかも知れません。と言うのは、私たちは教会を信じられなくなることがあるからです。


 教会が信じられなくなる。それは、教会に集まる人間が信頼できなくなる、という意味です。
 今日読んだ聖書の御言葉の中に、「つまずく」(8節)という言葉が出て来ました。何につまずくのか。石につまずくのです。その「石」とは主イエス・キリストのことだと今日の御言葉は語っています。それは、イエス・キリストが救い主だとは信じられない。神のもとから遣わされた、神と等しいお方だとは信じられない、という意味です。
 私たちも主イエス・キリストを信じられないと感じることがあるでしょう。キリストの十字架の意味が信じられず、キリストの復活が信じられない。そのように主イエス・キリストにつまずく。信仰につまずくことがあるのです。
 けれども、私たちはそれ以上に、教会の人間関係につまずくことが多いかも知れません。教会で、心ない言葉によって傷つけられた。冷たい態度をとられた。自分の気持、自分の考えを否定された。そんなふうに感じたことが、だれしも1度や2度は少なくともあるのではないでしょうか。教会は神さまを信じている人の集まりなのだから、もっとあたたかくて、愛にあふれていて、正しい人たちだと思っていたのに‥‥そう感じて、教会に失望し、教会から離れ去った人もいるでしょう。
 もちろん、2章1節にあるように、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」努力をしなければなりません。それが当たり前になり、それによって人を傷つけるようになったら、教会が教会ではなくなります。
 それでも、私たちは相手を理解し切ることはできませんし、相手の気持を汲(く)み切ることもできません。また、その時の精神状態によっても左右されます。すれ違いが起こり、傷つけることもあります。
 きよい公同の教会を信じます。教会とは果たして“きよい”ところなのだろうか? 更に続けて、聖徒の交わり‥‥を信じます、と告白します。聖なる信徒の交わりを信じます、ということです。教会の信徒とは、果たして“聖なる”者だと言えるのだろうか?
私たちは、そういう疑いを心のどこかに抱えているのではないでしょうか。
 けれども、他人事ではありません。では、自分はどうなのか。冷たいところはないか?人を傷つけたことはないか? 不正をしたことはないか? 腹黒いところはないか? 自分のことばかり考えてはいないか?
 教会が、そういうところの一点もない人々の集まりだったら、自分などはとてもそういう交わりの中には入って行けないと思ったことがないでしょうか。私たち自身もまた、好ましくない態度をとり、心ない言葉で人を傷つけ、だれかをつまずかせているのかも知れないのです。


 ならば、きよい教会とは何でしょうか? 聖なる信徒の交わりとは何でしょうか? “きよい”とは、“聖なる”とは、どういうことでしょうか?
 今日読んだ聖書の御言葉の4節に、「この主のもとに来なさい」とありました。私たち信徒とは、そう言われて主イエス・キリストに招かれた者です。別の言葉で言えば、9節にあるように「選ばれた民」です。
 では、どのような者が招かれ、選ばれたのでしょうか。
 今日の礼拝の初めの招きの詞で、マルコによる福音書2章17節を読みました。主イエス・キリストの言葉です。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 嫌われ者の徴税人や罪人(どんな罪を犯したのか分からない)と一緒に食事をしていた主イエスに、神の掟(律法)を守って正しく生きていたファリサイ派の人々と律法学者たちが非難の目を向けたとき、主はこう言われました。
 主イエスという“魂の医者”“霊の医者”を必要とするのは、魂に痛みや病を抱えて、その癒しを求めている人々である。その意味で、私は、自分の魂に罪を感じている人々を招き、癒すために来たのだと、主イエスは言われます。そして、この言葉は、自分は神の掟を守って正しく生きていると自負していたファリサイ派や律法学者たちへの“謎かけ”でもありました。あなたたちは、自分は正しい、自分の魂は健やかだと思い込んで、誇り高ぶり、他人を非難しながら生きている。そういうあなたがたもまた、魂に罪を負う者だということに気づきなさい、と主は言っておられるのです。
 既に天に召されたキリスト教作家・三浦綾子氏が、その著書『光あるうちに』の中で、教会のことを次のように書き記しています。
  ‥実は教会というところは、それほど勇をふるって行かなくても、普通の人が集まっているところに過ぎないのだ。別段、特別立派で、善人で、清らかな心の人ばかりが集まっているわけではない。それぞれに、姑との仲が悪くて悩んだり、子供が不良で悩んだり、夫の不貞に泣いたり、自分の醜さに気づいて苦しんだり、体が弱くて失望したり、というように、何らかの悩みや痛みを人知れず抱いて、思い切って教会の敷居をまたいだ人が大半なのである。たまには、讃美歌の美しさにひかれたり、友だちに誘われてなにげなく通っていたり、あるいは英語を学ぶためにバイブルクラスに通ううちに教会に馴(な)じんだという人はあったりしても、聖書を読んでいる間に、それぞれ人間の弱さを知った人たちなのだ。つまり、何らかの意味で、神なしには生き得ぬことを知った人たちなのである。(『光あるうちに』170頁)
 主イエスに招かれている病人、罪人とは、三浦綾子氏の言葉を借りて言えば、何らかの意味で、神なしには生き得ぬことを知った人たち、だと言うことができるでしょう。
 そのような人々が、痛みを知っているが故に、みな親切でやさしく導いてくれるとは限らないと三浦綾子氏は言います。
  教会には、何十年も信仰生活を続けている人もあれば、先週初めて来たばかりという人もいる。‥‥‥自分の悩みだけで一杯の人もいないわけではない。その一人の誰かに何かを尋ねても、浮かぬ顔で、返事もしてくれないことだってあるかも知れない。‥‥‥このように、教会に来ている人全部が信者とは限らないし、信者もまたいろんなタイプがある。(同書170〜171頁)
 だから、教会に集まる人々は皆、親切でやさしい“聖人君子”のような人ばかりだと期待してはならない、と三浦綾子氏は言います。神以外、キリスト以外には期待をしないで教会生活をしなさい、とズバリと言います。


 では、“きよい教会”“聖なる信徒”とは一体何でしょうか? 今日読んだ聖書の御言葉の中に、「聖なる祭司」(5節)、「聖なる国民」(9節)とありました。この「聖なる」という言葉の元々の意味は、“神のものである”という意味なのだそうです。きよい教会、聖徒というのは、“神のものである教会”“神のものとなった信徒”ということなのです。
 そこでピンッと思い出す御言葉があります。コリントの信徒への手紙(一)6章19〜20節の御言葉です。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身ものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。
 私たち、主イエス・キリストを信じる者は、代価を払って買い取られ、神のものとなったと言うのです。
では、「代価」とは何でしょうか? 主イエス・キリストの命です。主が、十字架の上で、私たちの罪を背負って、その身を犠牲にしてくださった命です。それによって父なる神が、私たちの罪を赦してくださった、その命です。私たちは、主イエス・キリストの命の犠牲によって罪を赦され、癒(いや)され、神のものとなったのです。
きよく、聖であるということは、私たち自身が品行方正で、愛に満ち、非の打ちどころがないということではありません。主の十字架の恵みによって罪を赦されている、罪をきよめられている、そういう“赦された罪人”である、ということです。
 だから、聖なる公同の教会、聖徒の交わり‥‥を信じます、という信仰告白は、罪のゆるし‥を信じます、という告白と切り離すことができません。教会に集まる人々の人間性、その“人間力”を信じるのではありません。罪深い者を赦し、傷ついた者を癒す神の力、神の恵みを信じるのです。そのような神の恵みに気づき、恵みに生かされている人々の集まりであると信じるのです。そのことを宣(の)べ伝え、教え、また求めている者の集まりだと信じるのです。


そのように信じるならば、その交わり、教会の交わりの中に生まれる“愛”を信じることができます。もちろん、傷つき、すれ違うこともあるでしょう。腹の立つこともあるでしょう。けれども、そのように不完全な罪人である私たちの内で、主イエス・キリストが働かれる。聖霊が働き、私たちに、自分の罪とその赦しに気づかせることを信じるならば、私たちは、教会が「互いに愛し合う」交わりであることを信じることができます。それが、いつの時代、どの国においても変わらない、聖なる公同の教会です。神に愛されたから人を愛する。キリストに赦されたから人をゆるす交わりです。


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