坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年2月20日 大人と子供の礼拝(主の祈り6)「悪からお救いください」

聖書 マタイによる福音書4章1〜11節
説教者 山岡創牧師

◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


       「悪からお救いください」
 わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい。
 〈主の祈り〉の6番目の祈りとして、私たちは、このように祈ります。「誘惑」って何でしょう? 小さい子どもたちには、ちょっと難しい言葉だね。
 国語辞典を調べてみると、誘惑の意味はこういうふうに書かれていました。“相手の心を迷わせて、悪い事に誘い込むこと”。誘惑に遭(あ)うと、心が迷ってしまう。“心の迷子”になってしまう。心の中の道で、どの道を行けばよいのか分らなくなってしまう。そして、気がついたら、正しい道ではなく、悪の道を歩いている。
 例えば、何か欲しいものがあるとします。欲しくて欲しくてたまらない。でも、自分のお小遣いでは足りなくて買えない。お父さんやお母さんも買ってくれない。そんな気持で、その欲しいものをお店に見に行った。欲しいな、欲しいな‥‥ふと周りを見ると、だれもいない、だれも見ていない。盗んじゃおうか、どうしよう‥‥。
 こういう時、私たちは誘惑に遭っています。心の迷子になっています。盗んじゃおうか? でも、それは悪いことだ。でも、欲しい。どうしよう。迷っている。そして、もしその欲しいものを盗んでしまったら、悪の道を進んでしまったことになる。
 しかも、悪いことをしたら、叱られるのが怖いから、なかなか正直に、“ぼくは盗みをしました。ごめんなさい”と謝ることができないかも知れない。悪いことがばれないように嘘をつく。そうすると、ますます悪の道を突き進むことになってしまう。
 でもね、もちろん、それはしてはならない悪です。聖書の中にも、モーセの十戒の中で、「盗んではならない」と教えていますね。だれも見ていない、だれも知らない、と思っても、神さまは見ています。知っています。そして、私たちの悪を悲しく思っていらっしゃいます。


 どうして“心の迷子”になって悪の道を進んでしまうのでしょう。
みんなは、心の中じゃなくて、普通の道やデパート等で迷子になったことがありますか? 私は大人になってから2度、迷子になったことがあります。2回とも夜でした。自動車を運転していて、暗くて、どっちに行ったら良いのか分らない。どこに進んでいるのか分らない。ものすごく不安でした。でも、しばらく走っていたら、道路案内の青い標識があった。それを見て、“あっ、こっちに行けばいいんだ。助かった”とホッとしました。
そうなんです。私たちは、知らないところに行っても、道案内があれば迷わない。デパートにいても、お母さんの姿が見えていれば迷わない。
心の迷子も同じことです。心の中の分かれ道に立って、どっちに行ったら分らない時、そこに道案内があれば、迷わない。そこにイエスさまの姿が見えて、イエスさまが“こっちだよ”と導いてくれれば迷わない。
けれども、そういう心の中の道案内がないとどうなるか? ヒョッコリ、悪魔が出て来ることがあります。そして、悪魔は私たちの心の中で、“こっちの道の方が得だよ。甘いよ。楽しいよ”と言って、私たちを悪の道に誘い込もうとします。そういう悪魔の働きを、日本語では“魔がさす”と言うんです。
イエスさまも心の中で、この悪魔の誘惑に遭いました。修行をして、ものすごくお腹が減っている時に、悪魔が出て来て、この石をパンに変えてみろ、と言いました。人間はものすごくお腹が減っていると、盗んだり、悪いことをしてしまう場合があります。
悪魔は次に、神殿の屋根から飛び降りてみろ、神さまが助けてくれるから、とイエスさまを誘惑しました。神さまを試してみろ、って言うのです。私たちも、だれかを試したくなることがあります。お父さんやお母さんが、本当に自分のことを愛しているのか?
それを試したくなって、わざと悪いことをしてしまうことがあります。
最後に悪魔は、自分に従えば、この世のお金や名誉、権力をすべて、お前にあげよう、とイエスさまを誘惑しました。私たち人間は、お金がたくさん手に入る、人からたくさんほめられる、人にたくさん命令できる、そう思うと、そのために悪いことをしてしまうことがあります。
 イエスさまも、心の中で何度も誘惑に遭いました。でも、イエスさまは“心の迷子”になって悪の道を歩くことはありませんでした。なぜならイエスさまの心の中には、しっかりとした道案内の標識があったからです。こっちの道に行きなさい、と指示してくれる看板があったからです。心の中の道案内、それって何だと思いますか?
 それはね、聖書の御言葉です。イエスさまは、悪魔の誘惑に遭うたびに、聖書の御言葉を思い出して、悪魔の誘いに乗らず、正しい道を進みました。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)
「あなたの神である主を試してはならない」(7節)
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10節)
 迷った時の心の中の道案内。それは、聖書の御言葉です。聖書の御言葉が、私たちをどっちに進んだら良いのか導いてくれます。だから、大切なことは、心の中に、たくさん、しっかりと聖書の御言葉の道案内を立てておくことです。つまり、自分の心の中に、御言葉をたくさん蓄えておくことです。


 私たちの周りには、私たちを、神さまを信じて正しく歩く道から離れさせ、悪の道に誘い込もうとする誘惑がたくさんあります。色々あります。病気もその一つです。でも、御言葉の道案内がしっかりと立っていれば大丈夫です。
 この説教の後で歌う讃美歌(21)533番は、高橋順子さんという人が8歳の時に作詞したものです。その時、順子さんは、もう治らない病気を患(わずら)っていました。どんなに神さまを信じて祈っても治らない。だから、もう神さまなんて信じられない、という気持になっても不思議ではありませんし、心の中で悪いことを考えたとしてもおかしくはありません。
 けれども、順子さんの心の中には、しっかりと聖書の御言葉の道案内が立っていました。聖書の御言葉によって、イエスさまが心の中で、いつも自分と一緒にいてくださり、どんな時でも導いてくださることを信じていました。そんな順子さんの素朴な信仰から、讃美歌533番は生まれました。
    1 どんなときでも どんなときでも
      苦しみに負けず くじけてはならない
      イエスさまの イエスさまの 愛を信じて
    2 どんなときでも どんなときでも
      幸せをのぞみ くじけてはならない
      イエスさまの イエスさまの 愛があるから
 私たちも、わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい、と祈り続け、心の中に聖書の御言葉の道案内をしっかりと立てて進みましょう。


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