坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年2月27日 埼玉地区講壇交換礼拝説教(於 浦和別所教会) 「野の花を見なさい」

聖書 マタイによる福音書6章25〜34節
説教者 山岡創牧師

◆思い悩むな
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


         「野の花を見なさい」
 〈聖書を読もう〉。今年度、坂戸いずみ教会では、この目標を掲げて歩んで来ました。クリスチャンが日常的に聖書を読む生活をする。これは、信仰生活の基本中の基本だと言うことができます。
 毎日の生活の中で聖書を読む。そして、今日、神さまが自分に何を語りかけているかを聴き取りながら、御言葉に従って生きる。それが私たちの信仰を生かし、魂を生かし、命を生かします。毎日の生活の“質”をガラリと変えてくれます。
 けれども毎日、聖書を読むということは、なかなかに難しい。これは少なからぬ方が、そうお感じになっているのではないでしょうか。
 “1階ではクリスチャン”という表現があります。普段は2階で生活している。聖書やお祈りとは無縁の生活をしている。ところが、日曜日になると聖書を手にとって、よっこらしょ!と1階に下りてきて、教会に行く。礼拝を守る。けれども、帰って来ると2階に上がって、また1週間、聖書やお祈りとは無縁の生活をする。これは、別の言葉では“サンデー・クリスチャン”とも言います。けれども、ともすれば私たちは、そのような生活に陥るのではないでしょうか。
 私も決して人のことは言えません。私も20歳頃から、聖書を読んで祈る生活を心がけて来ました。聖書を読んで祈ることが、どれだけ自分の恵みになるか、どれだけ自分を変える力になるか、よく知っています。けれども、だからと言って、それが毎日続けられるわけではないのです。よくよく考えれば自分の怠慢ということなのでしょうが、忙しい、疲れた、聖書を読まない言い訳はいくらでも付きます。1日が2日になり、3日になり、1週間になり‥‥‥悪循環になります。
 一昨年の5月号の『信徒の友』に、以前に埼玉地区の西川口教会にいらした島隆三先生の特集の文章が載っていました。その中で、島先生が“サタンは私たちに聖書を読ませまい、祈らせまいとする”と書かれている言葉にハッとしました。本当にそうだと思いました。そこで一つ悟ったのは、自分の力では心の中のサタンに勝てない。自分の力では、聖書を読んで祈る生活ができない、ということでした。では、どうするか? “神さま、弱い私が聖書を読み、祈ることができるように助けてください”と本気で祈る以外にない、と思いました。そして、そのように祈ると、聖書が読めるのです。その時間が与えられるのです。不思議と聖書を読み、祈る生活を続けられるようになったのです。これは大きな恵みでした。
 もう一つ、聖書を読む生活を続ける秘訣は、欲張らないことです。今日は30分、聖書を読んで祈ろうなんて最初から構えたら、だめです。1日、2日は良いでしょうが、3日坊主になります。続きません。私は、教会員にも“1日5分で良い”と言います(私が若かった頃、アーサー・ホーランドという伝道者が、そう語っていました)。3分聖書を読んで、2分祈る。5分というのは、1日の288分の1の時間です。そう考えたら、1日5分の時間を神さまにお献げすることが、きっとできます。5分がだめなら3分でいい。玄関先で『日々の聖句』から御言葉を1節だけ読んで、一言祈るのでもいい。それが、私たちの生活を内側から変えていくのです。
 それでも聖書が読めない日もあります。でも、自分を責めない。“神さま、おゆるしください。明日は聖書が読めるようにしてください”と気を取り直して、明日に備えれば良いのです。


 〈聖書を読もう〉。ところで今年度、この目標を掲げて私たちの教会が取り組んだのは、ディボーションでした。一昨年の研修会で勝田教会の二宮めぐみ先生をお迎えし、ディボーションに触れました。その流れで今年度の研修会には、大宮教会の疋田國磨呂先生をお招きして、〈聖書を読もう〉とのテーマの下、ディボーションを学びました。
 ディボーションというのは、聖書を自分で読み、黙想し、神さまが自分に何を語りかけておられるかを受け止め、それを自分の生活に活かしていく作業のことです。そうすることで、自ら神さまに聴き従う姿勢が生れ、信仰生活の体質が、延いては教会の体質が自己中心から神中心へと変えられていくのです。
 5月の研修でディボーションのきっかけを与えられ、これと取り組んでみようということになり、6月から毎月1回、ディボーション講座(もどき)を朝と夜に始めました。ディボーションの方法とポイントを学びながら、その回の聖書箇所を事前に読んで黙想し、タイトルや自分が黙想して受け取ったこと、生活にどう適用するか、といったことを用紙に書いて来て参加します。そして、自分が聖書から受け止め、こうしたいと考えたことを一人一人証しし、分かち合います。
 これの良いところは、神の語りかけを自分で聴き取れるようになることです。信徒の皆さんの中には、“聖書は自分で読んでも分からない”と思っていらっしゃる方が結構おられるのではないでしょうか。どっこい、そんなことはありません。聖書の御言葉は、自分の生活に照らし合わせながら、自分で読み取れます。そのコツを学べます。
 もう一つは、分かち合うことで、自分一人では気づかなかった御言葉の受け取り方を教えられ、“この御言葉にはこんな意味もあったんだ、こんなふうに受け取ることもできるんだ”と、聖書の御言葉の豊かさを、それだけ味わうことができるようになるということです。


 御言葉を元にして分かち合う交わりができる。これは本当に幸いなことです。そして、もちろん、私もその恵みに預かっている者の一人です。
 今日読んだマタイによる福音書6章25〜34節は、昨年9月のディボーション夜の部で扱った御言葉です。私も事前に黙想し、用紙に書いて参加したのですが、どうもその時、自分が書いていることが上辺だけになっていると言うか、その時の自分の気持にしっくり来ないのです。最初、私は最後の34節の御言葉に最も注目していました。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」(34節)。
 この御言葉は、神さまの御手にゆだねて、明日のことまで、明日の結果まで思い悩まず、一日一日、自分にできることを精一杯すれば良いのだよ、という語りかけとして受け取っていました。
 けれども、その時の私は、自分にできることをやっていない、精一杯やっていない、一日の苦労を負っていない、そういう苛立ち、焦りがありました。夏の暑さと忙しさで疲れが出たのか、9月に入ってから、どうもやる気が出ないのです。最低限のことをこなしてはいますが、スタミナが切れるのが早く、すぐに一休みしたくなる。一生懸命に仕事をして、爽やかな気持になれないのです。そんな自分を“こんなことではダメだ”と責めておりました。申し訳ないと感じていました。
 そんな時に、「その日の苦労はその日だけで十分である」という御言葉が来たものですから、アチャー!と思い、“それはそうなんだけど、今の自分はとてもそんな気持、そんな姿勢になれないなあ”と違和感を感じていました。そして、ディボーション講座の時間に、皆さんに何と証しをしようかと困り果てていました。
 ところがその時、私の前に、一人の方が、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」(28節)との御言葉を取り上げて、ご自分のことを証しなさいました。その証しを聞きながら、私はその御言葉に打たれたのです。「働きもせず、紡ぎもしない」。“そうだ、ぼくは働かなくていいんだ! 紡がなくていいんだ! それでも、花を装い、鳥を養ってくださる神さまが、それ以上に私のことを養い支えると約束してくださっているではないか!”。そのことに気づいたら、沈んでいた心がカラッと晴れました。できない自分を、できない、できないと責めなくていい、申し訳ないと思わなくていい。喜んで、感謝して、“今、そのことに気づかされました”と自分の番が回って来たとき、証しをしました。最初に用意していた証しとは全く変えられてしまいました。
 私は、神さまの養いにおゆだねすることを忘れて、自分の力で何とかしなければ、その日の苦労を自分の力で負わなければ、と力んでいたのです。その心の“力み”を取り去っていただいたのです。
 働かなくていいんだ、紡がなくていいんだ。そういう心情になると、不思議なことに、それまで以上に働くことができるようになる。紡ぐことができたりするものです。
 その後、11月23日のバザーから、12月のアドヴェント、クリスマスと、非常に忙しい毎日を過ごしました。クリスマスというのは、嬉しい、楽しいと感じる反面、半分は嫌だという気持になります。忙しいからです。でも、そういう気持でいると、クリスマスの諸行事をこなすだけで終わってしまい、喜んで、心を込めて過ごすことができなくなってしまいます。去年は12月19日に天に召された方があり、その方の葬儀も致しました。
 けれども、私は、そのような慌(あわ)ただしさ、忙しさの中で、準備不足も、整わないことも、できないことも、すべてを含めて楽しもう、という気持でいることができました。「働きもせず、紡ぎもしない」という御言葉を、天の父はそういう野の花を、私を、養い装ってくださるとの御言葉を与えられていたからです。だから、去年のクリスマスは、足りないことも含めて、ゆだねて過ごす平安と喜びがありました。


 そこで気づいたことですが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33節)との御言葉。私はこれを、自分の力で求めるのだと、能動的な信仰生活をして、努力をして得るもののように捉(とら)えていたところがあります。けれども、そうではなかったことに気づかされました。「神の国と神の義」とは何でしょう? それは、何ができなくても、結果が伴わなくても、欠けや不足があっても、私たちは無償で赦され、生かされているという“平安”のことだったのです。そのような神の恵みにおゆだねする時に与えられる平安な心境だったのです。働かなくても、紡がなくても、私はあなたを養い、装う。だから、私に安心してゆだねなさい。「神の国と神の義を求めなさい」とは、私たち一人一人への、そのような語りかけなのだと私は思います。
 御言葉は私たちを変えます。私たちの人生を導き、支えます。戒め、気づかせ、悔い改めさせます。慰め、励まし、希望と平安を与えます。聖書を読む。このことを、改めて私たちの信仰生活の基本とするように心しましょう。


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