坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年4月24日 復活際イースター 「驚きから始まる」

聖書 ルカによる福音書24章1〜12節
説教者 山岡創牧師

◆復活する
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。



             「驚きから始まる」
 慌ただしい1週間でした。毎朝、受難週の早天祈祷会がありました。やさしい聖書入門と聖書と祈りの会がありました。そこに、総会議案報告書の仕上げが重なりました。被災した教会を訪れる準備、調整をしました。受洗準備会をしました。予定表と週報を作りました。イースターの準備をしました。昨日は子どもたちとイースターエッグを作り、エッグハントの場所を下見しました。(皆さんを訪問する時間はありませんでした)充実した、しかし燃え尽きるような1週間でした。
 最後に説教準備が残りました。空っぽのような気持でした。何を語ったら良いのだろう。なかなか言葉が見つかりませんでした。途方に暮れる思いでした。
 疲れ、迷っている中で、御言葉を繰り返し読みながら、ハッと思いました。“そうだ、私もあの婦人たちのように墓の前に立とう。そして、神さまが語りかけてくださる御言葉を聴こう”。そう思いました。
 空っぽだったのは、主イエスの墓だけではありません。きっと「婦人たち」の胸の中も空っぽだったでしょう。何も考えられない。それでも、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、主イエスの遺体に「香料」を塗らなければ、という思いで墓にやって来たのです。ところが、墓は空っぽだった。彼女たちの心の中を象徴しているかのようです。空っぽの墓を見てペトロが驚いたように、婦人たちも最初は驚いたに違いありません。
 墓の前で立ち尽くし、途方に暮れる婦人たち。けれども、そこに二人の天使たちが現れ、神の言葉が語りかけられたのです。その御言葉によって空っぽの心が満たされたのです。
 イースターの朝を迎えました。この朝、私も、主イエス・キリストの墓の前に立つ思いで、この礼拝に出ています。語りかけられる神の言葉を聞くためです。それが、自分には足りなかったと気づいたからです。疲れ果て、空っぽになり、それでも自分の力でもがき、途方に暮れる。そういう時にこそ、神の言葉が必要だということに、ハッと気づかされたのです。あくせくする前に、神の前に立とう。御言葉を素直に聴こう。神の言葉で、私の空っぽの心を満たしていただこう。
 もちろん私だけではありません。皆さんもそれぞれ、自分が置かれた生活の場所で慌(あわ)ただしく過ごされていることでしょう。一人一人、痛みを覚え、疲れ果て、苛立ち、不安を感じ、途方に暮れているでしょう。
だからこそ、今朝、一緒に、主イエス・キリストの墓の前に立ちましょう。復活した主の墓の前に立ちましょう。そして、御言葉に聴きましょう。私たちを生き生きと生かす御言葉を聞きましょう。
私たちに足りないものがあるとすれば、“それ”なのです。神の御言葉を「たわ言」のように思っていないでしょうか。「たわ言」とまでは思わなくとも、そんなに期待していない、ということはないでしょうか。御言葉なんて、いざと言うとき役に立たない。自分を慰め、励ます力なんてない。そんな思いで、でも、日曜日の礼拝はそういう形式だから、説教を語り、聞く。平日は聖書を開くこともおっくうで、忘れてしまう。私たちはともすれば、そういう信仰生活に陥るのです。
そうであってはなりません。足りないのは“そこ”なのです。空っぽの墓の前に、いや復活の墓の前に立って、神の御言葉に聞く姿勢を、期待を取り戻しましょう。そういう思いを忘れずに歩みましょう。
神の力は主イエス・キリストを復活させました。神の御言葉は婦人たちを復活させました。そして今、私たちのことも復活させることができます。疲れた魂を生き生きと生かすことができます。
「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)
 御言葉は神の力と愛に満ちています。私たちの空っぽの心を満たすことができます。


 婦人たちは、「週の始めの日の明け方早く」(1節)、つまり日曜日の朝早く、墓に出かけました。そして、空っぽの墓を見たのです。予想外の出来事に驚いたに違いありません。何を考え、どうしていいのか分らない。そういう婦人たちに神の御言葉が語られました。
 皆さんも目を閉じて、聞いてください。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。
復活なさったのだ。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(5〜7節)
 アーメン、感謝です。
 この御言葉を聴いたとき、婦人たちは驚きと「恐れ」(5節)から、主イエスの教えを思い出す者に、そして話し、伝える者へと変えられました。
 けれども、それを聞いた弟子(使徒)たちは、その話を「たわ言」だと思って信じなかったというのです。
 婦人たちと使徒たちと、何が違ったのでしょう。それは、神の御言葉を聴いたか聴かなかったか、という違いです。この御言葉を聴いたか否かで、主イエス・キリストの墓が、単なる空の墓にもなれば、復活の墓にもなるのです。決定的な違いです。
 ただ私は、この違いを、“実際に”聞いたか聞かなかったかの違いだとは考えません。私たちにも、皆、同じように御言葉を聞いていても、聴いている者と聴いていない者との差が出ます。聴こうという真剣な意思の有る無しで違いが出ます。その時の心境や状態で御言葉が心に届かない時もあります。
 けれども、大切なことは信じて聞くことではないでしょうか。当初の使徒たちのように、自分の考えで、こんなことは起こらないと、役に立たないと、何の意味も力もないと思って聞くのではなく、「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)と信じて、語られる御言葉に期待して受け入れる。その時、御言葉が私たちを変えます。


 ペトロは半信半疑でした。そこで墓に行ってみました。そして、主イエスの遺体をくるんでいた「亜麻布」があるだけで、確かに墓は空っぽになっていることに「驚きながら家に帰った」(12節)と記されています。
 驚きとは、予想外ということです。思っていたことと違った。でも、それは心に残るのです。まだ信仰ではありません。でも、それが信仰へのきっかけになるのです。
 私たちも、自分が“信仰って、こうだ。教会って、こうだ”と予想していたこと、思っていたこと以外の出来事に遭って、“おやっ?”と思うとき、それが信仰の入口になるのでしょう。時には、思い通りに行かない、思いもよらない苦しみや悲しみに襲われることもあるでしょう。そこで、御言葉が心にとどく時、私たちは本当に信仰と出会うのでしょう。主の復活の恵みを、深く味わうのでしょう。死から命へと、暗闇から光へと、生かされるのでしょう。
 この後の34節で、「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」と記されています。シモン・ペトロも復活した主イエス・キリストと出会い、信じることができたのです。
 今日、加藤静江さんと山岡愛ちゃんが洗礼を受けました。信仰の道を歩き始めました。御言葉を真剣に聴き続け、主イエスの後姿を見つめて従い、信仰に懸けて生きれば、きっと何度も主イエスと出会います。いのちと出会います。光と出会います。
 私たちも皆、一人一人、今日からまた新たな思いで、御言葉に聴き、信仰に懸けて、信仰の道を歩き続けましょう、

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