坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

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2011年5月1日 主日礼拝「必要なことはただ一つだけ」

聖書 ローマの信徒への手紙10章17節、ルカによる福音書10章38〜42節
説教者 山岡創牧師
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」



           「必要なことはただ一つだけ」

 〈聖書を読もう〉「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10章17節)。
 昨年度に続き、今年度もこの標語、この御言葉を掲げて、私たちの教会は歩みます。聖書を読み、御言葉に聞く信仰生活を皆で更に求めていこう。そういう思いが込められています。
 皆様の方から見て、礼拝堂の正面、右手に、この標語と御言葉を改めて掲げました。だれが書いたのだろうと思っておられた方もあるかと思いますが、これは、石井千津子さんに書いていただきました。
 当初、この書が書き換えられたことに気づかなかった方もおられたようです。同じ標語と御言葉が、同じ形で書かれているわけですから、気づかないのは無理もありません。けれども、4月の最初の日曜日から新しいものに書き換えられました。そして、どうぞ皆さんの心の中でも、新しいものに書き換えてください。日曜日に礼拝に来るたびに、この標語と御言葉を見て、心の紙の上で新たなものに書き換えてください。つまり、マンネリ化をさせないことです。同じ標語、同じ御言葉ですから、もしかしたら心のどこかに“今年も同じか”という思いが生まれるかも知れません。けれども、“今年もか”と思わずに、一日一日、この目標と御言葉を心に刻んで実践していくことができるように、祈り求めていきましょう。
 ある意味、100年掲げても良い標語と御言葉だと思います。生涯心に掲げても良い目標だと思います。なぜなら、まさにこの御言葉にあるように、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」からです。


 聖書を読み、御言葉に聞くことは、私たちの信仰の“基本”です。どんなことでも基本を繰り返し、しっかりと基礎をつくっていくことが大切です。
 私は学生時代、ずっとサッカーをやっていました。ボールを正確に蹴るキックの練習、ボールを正確に止めるトラップの練習、ボールを上手にコントロールできるようになるためのドリブルやリフティングの練習‥‥‥一体どれほど繰り返し練習したか、どれほどの時間を費やしたか分かりません。おもしろいか、つまらないかと言えば、決しておもしろくはないかも知れません。地道な練習です。でも、地道な基本練習の繰り返しが基礎をつくってくれました。
 毎日聖書を読むことも、そういう地道な基本の繰り返し、積み重ねかも知れません。決しておもしろくはないかも知れません。けれども、疎(おろそ)かにしてはなりません。地道な繰り返し、積み重ねが、私たちの信仰の基礎をつくってくれるのです。それが、私たちの信仰生活の大切な力になります。
 聖書を読むことを日々新たに繰り返し、積み重ねること。それをマンネリ化せず続けること。もちろん、同じことを繰り返していればマンネリを感じることもあるでしょう。そう思ったら、時々やり方を変えるのも一つの方法だと思います。
 けれども、もっと大切なのは目的意識ではないかと思います。“何のためにするのか”を、はっきりと自覚してすることです。“やらされたら”だめです。目的を自覚して、自分で“する”のです。
 何のために聖書を読むのでしょう。御言葉に聞くためです。それはつまり、聖書の御言葉を通して、神さまが自分に何を語りかけておられるかを心の耳で聞いて受け取り、語りかけられた神さまの御心に従って、生活の中で実践するためです。そこに、勇気が生れ、愛が生れ、平和が生れ、希望が生れ、救いが生まれます。
 先日、ある方が、マンネリ化とは、聖書によって自分が変わろうとせず、自分が聖書を変えようとすることだ、と言われた言葉が、とても印象に残りました。本当にそうだなあと思いました。
聖書の御言葉に聞き、神さまの思いを受け止めることで、私たちは変えられていきます。信仰が成長していきます。けれども、自分が聖書を変えようとするというのは、つまり“神中心”ではなく“自己中心”だということです。“自分はこう思う”“自分はこうしたい”という考えや願望が強いので、神さまの思いを受け入れることができないのです。
 今日は〈マルタとマリア〉の聖書箇所(ルカ10章38〜42節)を読みました。この二人の姿に、対極的な、この二つの信仰の姿勢が現れています。
 主イエスと弟子たちの一行が、おそらくベタニアという村にお入りになった時のことです。マルタという女性が、主イエスと一行を自分の家に迎え入れてもてなしました。これが初めてではなく、たぶん以前から主イエスの伝道活動を応援していたのだと思われます。
 マルタにはマリアという妹がいました。彼女は、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)と言います。最初は姉のマルタを手伝っていたかも知れません。けれども、主イエスが御言葉を語り始めたので、手を止めて、その話に聞き入ったのでしょう。
 でも、そのお陰でマルタは忙しくなりました。手が回らなくなってきました。そのためイライラして、遂にその気持を主イエスにぶつけました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。
 この気持、私たちも感じることがあります。やらなければならないことが色々重なって、目が回るほどに忙しく、一息つく暇もなくなってくると、「わたしだけ」と思います。なぜ私だけが、こんなにやらなければならないのか? 何だか自分だけが損をしているような苛立(いらだ)ちを感じます。教会の奉仕も、ともすればそういう気持に陥ることがあります。そして、その苛立ちをだれかにぶつけてしまうこともあります。
 もちろん、現実に改善すべき場合もあるでしょう。けれども、忙しく、大変な時にこそむしろ、まず主イエスの話を聞くことが大切なのではないでしょうか。御言葉を聞いて受け止めることで、自分の取るべき心構え、態度、行動が示されます。本来“あるべき”自分に立ち帰らせていただくのです。
そうでないと私たちの生き方は自己中心で、相手のことを考えているようで、実は自己満足に陥ります。自分と人を比べて苛立ちます。不平不満に支配され、心が乱れます。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41〜42節)
 自分の思いで徒に動き回り、心が乱れている時にこそ、主の御言葉を聞く必要があります。いや、絶えず私たちは、主の御言葉に聞く必要があります。御言葉から主の思いが何であるかを受け取り、従い、変えられていくことが必要でしょう。そこに喜びが生まれ、謙遜が生れ、感謝が生れ、健やかに生きる道が開かれます。


 先週25〜26日に、宮城県の名取と石巻にある3つの教会を見舞いに訪ねました。それぞれ壁にひびが入って天井が落ちたり、床下まで浸水していたり、建物はだいじょうぶでも教会員の多くが被災したりしていました。名取から石巻への海岸沿いの地域はめちゃくちゃでした。現実にそこに立つと、言葉を失いました。慰めと復興のために、息の長い祈りと救援が必要です。年月と共に無関心にならない愛が必要です。
 お訪ねした3つの教会のうちの一つは、石巻山城町教会でした。私が卒業した東京神学大学の現役対OBで、年に3回ほどサッカーの試合をしますが、毎回顔を合わせていた後輩が、この4月からこの教会に赴任したので、ともかく顔だけ見て祈って来ようと思いました。教会は丘の中腹に立っていて無事だったので、しばらくは避難所になったり、地域に物資を送る拠点になったようです。教会は無事でしたが、教会員のかなりの方が家を失い、避難生活をしておられるとのことでした。
 けれども、そういう苦しい状態の中で、教会のみんなが決めたことは、とにかく礼拝をしっかり守ろうということでした。避難所からも皆、集まって来て、礼拝に出席する人は決して少なくなってはいないと聞きました。本当に厳しい、大変な時、だからこそ礼拝を守り、しっかりと主の御言葉に聞いて、信仰に支えられて生きようとの思いがあるのだと感じました。
 主の御言葉に聞くことで信仰は養われます。その信仰こそが、どんな人生の嵐、地震に遭っても、私たちを支える土台、力になります。聖書を読み、御言葉に聞く。今年度も、このことを共に実践していきましょう。

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