坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年5月15日 主日礼拝「復活の証人として」

聖書 ルカによる福音書24章36〜53節
説教者 山岡創牧師

◆弟子たちに現れる
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
◆天に上げられる
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

       「復活の証人として」
 「本当に主は復活して‥‥現れた」(34節)。そう言って立騒いでいた弟子たちのもとに、今度は主イエスご自身が現れました。それまでは、エマオの村へ帰る二人の弟子に、またシモン・ペトロにしか現われていなかった主イエスが、今度は彼ら全員の前に現れ、彼らの真ん中にお立ちになったのです。
 その姿を見ても、弟子たちはまだ、素直に信じることができませんでした。
「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)
と書かれています。半信半疑で、しかも恐れてさえいるのです。未知の体験だったでしょうから、無理もないと言えばその通りです。
 そのような反応を示す弟子たちに、主イエスは、自分は「亡霊」ではないということを分らせようとして、懸命に語りかけます。自分は亡霊ではない。自分には肉も骨もある。手も足もある。体がある。弟子たちに必死に訴えて、「触(さわ)ってよく見なさい」(39節)と主イエスは言われるのです。
 「触ってよく見なさい」。私はふと、弟子たちがうらやましいと思いました。触れるのです。触って良いのです。
 主イエスの復活について、私たちも、分ったような分らないような、半信半疑のところがあるのではないでしょうか。なかなか素直に、ストレートには信じられず、“こういうふうに信じたら良いのかな?”と、自分なりの信じ方、受け取り方を、あれこれと考えます。それが、まるっきり間違っているとは思いません。
 そういう私たちが、「触ってよく見なさい」と言われたらどうでしょう? そこに実体があるということを確かめる上で、触るということほどリアルな確認の仕方はありません。もし私たちが主イエスの体に触ることができたら、一も二もなく信じることができるでしょう。だから、触ってよく見るチャンスを与えられている弟子たちをうらやましく思います。そして、主イエスの立場からすれば、そうまでしても分かってほしい、信じてほしいと強く、願っておられるということです。疑わずに信じる。そこに希望が生まれるからです。平安が生まれるからです。
 触ってでもよいから信じてほしい。そして、信仰の希望と平安に生きるようになってほしい。そこには、弟子たちに対するあふれるほどの愛があります。その意気に感じて、弟子たちがどう応えるか。
 トマスという弟子がいました。これは、ヨハネによる福音書20章の話ですが、トマスは、主イエスから、“触ってみなさい。触ってもよいから信じなさい”と言われたとき、触りませんでした。しかし、触らずに、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)と言って信じました。私の傷に触ってもよいから信じなさいと言ってくださった主イエスの言葉に、あふれるほどの愛を感じて、トマスは信じたのです。
 「触ってよく見なさい」と言われたら、触りたいでしょう。触って確かめたいでしょう。触って確かめさえすれば信じられる。
 でも、「触ってよく見なさい」と言われて、“じゃあ、お言葉に甘えて‥”と触ってみて、“あっ!やっぱり本当だ”と確かめて、“それじゃあ信じましょう”というのでは、何かが違う。むしろ、そっちの方が本物の信仰ではないような気がします。触りたい。でも触らない。確かめられないけれど、100%確信できないかも知れないけれど、それでも信じていこう。それが、主イエスの愛に応える信仰、御言葉に応えるリアルな信仰だと思うのです。


 そのように考えると、福音書の復活物語というのは、弟子たちへの愛、私たちへの愛に本当にあふれています。
 私は今回、この復活物語の御言葉を黙想しながら、聖書はなぜ、主イエスの復活が亡霊ではない、手も足もある。肉も骨もある。確かに体がある、ということを強調するのだろうかと不思議に思っていました。そう言えば、使徒信条においても私たちは、“からだのよみがえり‥‥を信じます”と信仰告白をします。体の復活ということが、そんなに大事なのだろうか? 亡霊でもよいのではないか? 亡霊というのはちょっと言葉が悪いかも知れないが、要するに“霊”のままでよいのではないか? 霊であっても人格があればよいのではないか。現代の日本人は、霊的なものを割と信じる傾向があるので、その方が伝わるのではないか。なぜ聖書は“体”にこだわるのだろう? そんなことを考えていました。
 けれども、更に突っ込んで考えてみると、霊とか魂とか、そういう話では、本当に私たちが欲しているものを満たすことができないからだと思うに至りました。それは、「亡霊」という言葉からふと、〈ゴースト〜ニューヨークの幻〉という映画を思い出したからです。
 もう20年も前の映画になるでしょうか、サムという主人公が登場します。彼にはモリーという恋人がいました。ところが、ある日、街中でサムとモリーは暴漢に襲われます。サムはその暴漢を追いかけますがつかまえられず、戻って来ると、何と!モリーがしゃがみこんで血だらけのサムを抱えて泣いているではありませんか! その時、サムは既に死んでいたのです。そして、霊だけが体から抜け出して、暴漢を追いかけていたのでした。
 二人にはケリーという友人がいました。彼はサムの職場の同僚でもありました。サムを失ったモリーを慰めようとして、ケリーはモリーに近づきます。ところが、そのケリーが実はサムを殺したのでした。職場で大きな不正をしていたケリーは、その秘密がサムにばれそうになったので、サムを殺したのです。そのことに気づいたサムは、何とかモリーにその事実を知らせよとしますが、自分は霊なのでどうすることもできません。ついにオダ・メイという霊媒師の体を借りて、モリーに真実を伝えます。事実を知られたケリーは、モリーとオダ・メイを殺そうとしますが、追いかけている途中で事故が起こり、ケリーは死に、二人は助かります。それを見とどけたサムは安心して天へと旅立って行くのですが(大事なのはここからです!)、ラスト・シーンでサムの霊がモリーにも見えるようになります。二人は手を触(ふ)れ、キスをして別れるのですが、けれども本当に触れているわけではない。霊だから触れられないのです。見えている姿に手を合わせ、くちびるを重ねているだけで、そのシーンがまた、切ない涙を誘います。
 映画の中で一時、サムがオダ・メイの体を借りて、モリーと触れ合い、抱きしめ合うシーンがありました。愛している相手が目の前に見えたら、きっと言葉を交わしたくなる。そして、触りたくなる。抱きしめたくなるのが人の心だと思います。
 東日本大震災で、どれだけの人が愛する家族を失ったことでしょうか。私は、その痛み、悲しみが分かるなどとはとても言えませんが、私と同年代の男性が、津波で妻を失い、長男を失い、今も見つからない次男の遺体を探し続けている姿をテレビの報道で見た時は、思わず涙がこぼれました。次男が最後にいた小学校に、毎日のように行って探し続けるその男性の姿に、私ももし家族を失ったら、きっとそうするだろうなあと、さびしくて、悲しくて、悔しくてたまらないだろうなあ、と感じました。
 人はいつか、何らかの理由で、愛する家族を、愛する者を失います。もし神さまが、そういう私たちの悲しみに応えて、復活と再会の恵みを用意してくださっているのだとすれば、神さまは私たちの望むことを、欲するところを、本当に深く分かってくださっているのだなあ、と私は思いました。霊が残るとか、霊が目の前にいるとか、霊が復活するとうのでは、私たちはきっと物足りなくなるのです。その姿を見て、その声を聞いたら、欲張りかも知れませんけれど、きっと触りたくなるのではないでしょうか。抱きしめたくなるのではないでしょうか。そうして初めて、再会の喜びにワンワンと泣くのではないでしょうか。そこまで神さまは汲み取ってくださっているのです。
 「触ってよく見なさい」。この主イエスの言葉は、私たちの心の願いを、そこまで見通してくださっている神さまの愛が、ぎっしりと詰まった言葉だということを、私は今回、この聖書箇所を黙想して初めて気がつきました。そして、なぜ使徒信条が“からだのよみがえり”を信じると言うのか、その訳がはっきりと分った、納得ができたように感じています。ちょっとおこがましいことかも知れませんが、45節にあるように、心の目が開かれ、聖書の御言葉を悟らされるというのは、こういうことかも知れません。


 聖書の御言葉が腑(ふ)に落ちる。とてもリアルに実感される。それが、私たちの希望となります。平安となります。希望を抱き、平安に満たされて人生を生きる信仰の力となります。そして、この信仰が自分の中ではっきりとすると、私たちは、主イエスの復活を、復活に込められている神の愛を宣(の)べ伝えていく者へと変わっていきます。平安を伝える者へと変えられていきます。
 今日の聖書箇所の最初で、主イエスが弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。あの言葉は、元々は“シャローム”というユダヤ人の挨拶言葉だと思います。日本人で言えば、“こんにちは”と同じ日常的な挨拶なのですが、私は、日常的に使うという意味では同じでも、その一言に込められている気持の重さが全く違うと思います。私は神さまに救われ、愛されている平安の中に生きている。この平安があなたにもあるように。そういう願いと祈りが込められた挨拶だと思います。
 私たちは、主イエスの復活によって裏付けされたこの平安に生きる者です。そして、この平安を伝えるようにと神さまに召され、使命を与えられています。難しく考える必要はありません。私たちの内にこの平安があれば、私たちは、この平安に生きられる喜びを、“こんにちは”という挨拶にだって込めることができる。普段の生き方に表わすことができる。礼拝の中で証しすることができます。
 神の平安、シャロームに生きることができるように、「高い所からの力」(49節)が与えられて、聖書の御言葉に心の目が開かれ、悟ることができるように祈りましょう。

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