坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年7月10日 主日礼拝「誘惑に打ち克つ力」

聖書 ルカによる福音書4章1〜13節
説教者 山岡創牧師

◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』
4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
 
      「誘惑に打ち克つ力」  
 「さて、イエスは聖霊(せいれい)に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され(た)」(1節)と、今日の聖書箇所に記(しる)されています。
ヨルダン川で何をなさっていたのか。それは、3章21節に記されているように、「悔い改めの洗礼」(3章3節)を宣(の)べ伝えるヨハネから、洗礼をお受けになったのです。その時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た」(3章22節)とあります。洗礼をお受けになったとき、主イエスは聖霊に満たされたのです。神さまを信じ従(したが)って行こう、という新たな決意に心が燃えたのです。
 その後、主イエスは、“霊”によって(聖霊と同じ)、「荒れ野の中を引き回された」と言います。そして、「悪魔から誘惑を受けられた」(2節)のです。「荒れ野」というのは、「悪魔」の「誘惑」(2節)がひしめく心理状態を象徴(しょうちょう)的に表しているのかも知れません。


 不思議に思われるかも知れません。聖霊に満ちあふれているのに、悪魔から誘惑されるということがあり得るのか?と。私たちは、聖霊と悪魔は共存し得ないと思っているかも知れません。ところが、どうやらそうでもないのです。聖霊に心を満たされ、信仰に燃えながら、そこに悪魔が入り込んで来て誘惑しようとすることが、信仰生活にはあり得るのです。
 ところで、「誘惑」とは何でしょうか?欲望に誘(さそ)われ、弱身に付け込まれ、何が正しいことか惑(まど)わされて、人の道を踏み外してしまう、ということでしょう。例えば、お金に目がくらんで不正を行ってしまうとか、異性への欲に誘われて不倫を犯してしまうとか、家族の生活を守るために貧しさの中で盗んでしまう、といったことです。
 けれども、神さまを信じる者にとって「誘惑」というのは、ただ単に不正や不倫や盗みといったことで終わるのではなく、それらを信仰的に考えてみる必要があります。クリスチャンとは神さまを信じ、従って生きる者です。では、不正や不倫や盗み等を犯すと、私たちの信仰はどうなるのか?それらは神さまの御(み)心に適(かな)わないことですから、神さまに従っていないことになります。つまり、神さまから引き離されるのです。クリスチャンにとっての最大の「誘惑」とは、私たちの生活が、人生が、神さまから引き離されることなのです。
 そして、神さまから引き離されるという「誘惑」は、何も悪事によってばかり引き起こされるわけではありません。苦しみや悲しみ、困難によっても、病気や貧しさによっても起こりますし、逆に順風満帆(じゅんぷうまんぱん)で幸せでも起こり得ますし、心の迷いや自分自身の価値観によっても生じます。
 話が少し逸(そ)れましたが、洗礼を受けて、聖霊に満たされ、信仰生活を歩みながら、そこで悪魔に誘われることがある。“魔がさす”という言葉がありますけれども、ついやってしまう、ふと考えてしまう、ということがある。その驕(おご)りや、油断や、迷いによって、私たちの心が神さまから引き離されてしまうことがあり得るのです。
 頭で考えるよりも、私たち、自分が歩んできた信仰生活を、胸に手を当てて振り返ってみれば、よく分かることに違いありません。
 私は高校1年、16歳のイースターに洗礼を受けました。主イエスによって救われたことに対する感謝と喜びに満ちあふれていました。主イエスの恵みに応(こた)えて生きようという志(こころざし)に燃えていました。たぶん私は聖霊に満ちていました。
 ところが、1ヶ月もすると、私は“しまった!”と洗礼を受けたことを後悔するようになりました。と言うのは、高校生活が本格的に始まり、部活と日曜日の礼拝がぶつかったからです。私はサッカー部でしたが日曜日にはほとんど試合があって、私は当時、サッカー一番!という価値観で生きていましたから、とにかくサッカーがしたい、試合に行きたい。そういう私を、イエスさまが後ろから引っ張り、信仰が私を縛(しば)っているように感じてしまったからです。
 そのように、悪魔は私の生活に、私の心に入り込んで来て、私と神さまの間に割り込んで来て、私と神さまを引き離さそうとしました。そして、このように振り返ってみますと改めて、聖書というのは、神さまという方は、私たちのことを、よーく分かっておいでだと、つくづく思います。洗礼を受けて、聖霊に満たされて信仰生活を歩んでいるはずなのに、すぐに神さまから引き離されそうになる。“それが、あなたがたの信仰の現実だよ。気をつけなさい”。そのように今日の御(み)言葉から言われているように感じます。そして、そのような「誘惑」が何度も起こるのが、あなたがたの信仰の歩みだと、主イエスの、この荒れ野の誘惑の場面は象徴的に語っているのではないでしょうか。
 けれども、主イエスはここで、誘惑と戦い、打ち克(か)つ力をも示してくださっていることを忘れてはなりません。


 主イエスに対する最初の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)というものでした。空腹、飢(う)えに対する誘惑です。
 マタイによる福音(ふくいん)書4章に同じく、荒れ野の誘惑の話がありますが、そこにははっきりと「断食(だんじき)した」と書かれています。断食とは、信仰を養(やしな)い強めるための一つの修行、修養です。だとすれば、誘惑とは断食修行の厳しさに逃げ出したくなったということかも知れませんし、荒れ野で食べ物が不足して、あまりの空腹に他人のものを盗(と)ってでも食べたくなったのかも知れません。
 また、もっと考えられるのは、「神の子なら」という誘惑です。主イエスは、ユダヤ人社会の矛盾(むじゅん)、貧しさ、人々の病気や障(しょう)がいといった苦しみの現実を目(ま)の当たりにしながら、それらは何とかならないのか、そこに神の救いをもたらすことはできないのか、と真剣に考え、悩んでおられたことでしょう。「神の子なら」、石をパンに変えてでも人々の飢え、貧しさを救う。「神の子なら」その力によってこの世の苦しみを取り除く。それが当然ではないか?それが、神の子の使命、神さまが生きて働いておられることを示す神の子の使命ではないか、と悩んだに違いありません。
 この主イエスの悩み、迷いを、私たち自身の思い、言葉に直せば、こういう誘惑になります。主イエスが「神の子なら」、なぜ石をパンに変えて、この世の飢えと貧しさを救ってくださらないのか?神さまがいるなら、なぜこの世の病気や苦しみ、不幸を取り除いてくださらないのか?つまり、神さまに奇跡的な力を期待し、現実を変える働きを要求し、それができなければ神の子ではない、神ではない、信じられないと、信仰から離れて行く、神さまから離れて行く。それが、第一の誘惑の性質です。
 この誘惑に対して、主イエスは、聖書の御言葉によって対抗し、打ち克っています。旧約聖書・申命(しんめい)記8章3節から、「人はパンだけで生きるものではない」(4節)との御言葉を思い起こし、人はパンがあれば生きられるとは言えない、パンがあって貧しさと飢えの問題が取り除かれれば、人生に苦しみや問題がなければ人として、心身ともに健(すこ)やかに生きられるわけではない。現実に苦しみや困難は簡単になくなるものではないけれど、それらを抱(かか)えていても、人として大切なものに従って、生きていく道がある。主イエスは、そのことを確信して、神さまから、信仰から離れませんでした。
 第二の誘惑は、悪魔が主イエスに「世界のすべての国々」(5節)を見せて、自分を拝(おが)めば、「この国々の一切(いっさい)の権力と繁栄とを与えよう」(6節)というものでした。これは、欲望をくすぐる誘惑です。この世の権力、名声、富‥‥‥それらを手に入れるために、人は自分の魂(たましい)を悪魔に売り渡すことがあります。神がお求めになる人としての正義、愛、誠実さを捨てて、他人を引きずり降(お)ろしてでも、それらを得ようとすることがあります。それが悪魔を拝む、ということです。
 私たちにも決して無関係ではありません。私たちは、「この国々の一切の」というほど大きなものは望むべくもないかも知れませんが、自分の手に入りそうな小ささの「権力と繁栄」を望みます。成功を、賞賛とお金を望みます。それ自体、悪いことではありません。けれども、それらを得ようとするあまり、愛と正義、誠実さと公平さを失って人の道を踏み外すとき、私たちもまた誘惑に負けて、悪魔を拝んでいることになるのです。
 主イエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(8節)と答え、第二の誘惑を退(しりぞ)けられました。申命記6章13〜14節の御言葉です。
 主なる神を礼拝(れいはい)し、ただ主に仕える。それは、主の御心を第一とし、これに従うということです。聖書の至るところで、主なる神が、主イエスが私たちに求めておられる愛と正義、誠実と公平、憐(あわれ)み、柔和(にゅうわ)、寛容、平和‥‥‥その心を持って、置かれた場所で、関(かか)わる人との間で生きることです。それが、私たちにも求められています。


 さて、私たちは、自分の人生を信仰によって生きる中で、自分を神さまから引き離そうとする第一、第二の誘惑に打ち克ちながら、信仰を強め、深めて行きます。ところが、厄介(やっかい)なもので、信仰を強め、深めて行ったときに、第三の誘惑が起こります。それが、“御言葉による誘惑”です。
 悪魔は、主イエスをエルサレム神殿の上に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9節)、そうすれば皆が、あなたを神の子と認め、信じてくれるだろうと誘惑します。しかも、その際、今までとは違って、聖書には「こう書いてあるからだ」(10節)と御言葉によって誘惑しようとしました。10〜11節で悪魔が引用しているのは、詩編(しへん)91編11〜12節の御言葉です。
 信仰が深まって来ると、私たちにとって、この御言葉による誘惑は、とても危険なものになります。と言うのは、たとえ自分が間違ったことをしていても、自分は御言葉に聴き従って、信仰によってそうしているという意識があるので、実は自分が間違っていて、神の御心に適っていないのだということに気が付きにくくなる。気がつかず、御言葉と信仰によって、かえって自分を正当化してしまう、ということが起こるのです。宗教信仰が絡(から)んだ自爆テロなどは、その最も極端な例です。もちろん、そんなに極端ではないにせよ、私たちもまた、自己主張をしたり、意見を述べ議論する時などは気をつける必要があると思います。
 主イエスが、「あなたの神である主を試(ため)してはならない」(12節)と、申命記6章16節を取り上げて、この誘惑を退けたように、私たちクリスチャンは、御言葉による誘惑もまた、御言葉によって打ち克つ以外にありません。その際、私たちには、聖書の一部だけを、ある御言葉だけを読んで、これしかないと考える“狭い信仰”から解放されるために、聖書全体を読んで、その広さを受け入れる寛容さと、自分が御言葉に聴き、考えていることは一部でしかないと自分を省(かえり)みる謙遜さが必要です。その謙遜さと寛容さも、信仰生活の中で、御言葉に聴き従うことで養われて行きます。


 改めて言うまでもないと思いますが、誘惑に打ち克つ力、それは御言葉によって養われ、培(つちか)われた人格とその意志です。つまり、御言葉によって養われた信仰です。それが、疑い、迷い、惹(ひ)かれる時に、誘惑に対抗する力になります。
 ユダヤの人々は、申命記6章6節以下で「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留(と)め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩く時も、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚(おぼ)えとして額(ひたい)に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と主に命じられました。
私たちも、御言葉を心に蓄(たくわ)えましょう。そして、御言葉を肌身離さず、人生の誘惑に、私たちを神の恵みから引き離す誘惑に打ち克っていきましょう。

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