坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年7月17日 主日礼拝 「この御言葉は今日、実現した」

聖書 ルカによる福音書4章14〜30節
説教者 山岡創牧師

◆ガリラヤで伝道を始める
4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
◆ナザレで受け入れられない
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

      「この御言葉は今日、実現した」  
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。
 故郷ナザレの会堂で、イザヤ書の言葉を朗読された主イエスは、このように宣言して聖書の言葉を説(と)き明かされたと書かれています。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。
 この主イエスの宣言を聞いて(読んで)、皆さんはどう思われるでしょうか?もちろん、この宣言を2千年前に、ナザレの人々に語られた言葉として聞いたら、“へー、そうなんだ”という感想で終わるでしょう。けれども、そうではなくて、今、主イエスが聖霊(せいれい)によって私たちの心に直接、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたとしたら、どう思いますか、ということです。
 もっと分かりやすく言えば、聖書が朗読された後で、私がこの講壇から、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言して説教を始めたら、皆さんはどう思いますか?ということです。軽く聞き流しますか?聖書の言葉が実現するなんて、ないよ、と否定するでしょうか?実現したと信じて受け止めるでしょうか?たぶんナザレの人々も同じような気持だったのではないかと思います。
 聖書の言葉が実現した。そのように感じたことがあるか?私は、主イエスの宣言から、そのように問いかけられているように感じました。これは、私たちの信仰生活にとって、とても大切なことです。改めて、真剣に考えみていただきたいのです。


 主イエスが朗読された言葉は、イザヤ書60章1〜2節でした。
「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音(ふくいん)を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣(つか)わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18〜19節)。
 「主の恵みの年」というのは、先ほど讃美歌(21)431番でも歌いました“ヨベルの年”のことです。皆さんの中には、ヨベルの年という言葉を初めてお聞きになる方もいるかも知れません。これは、旧約聖書・レビ記25章に記(しる)されている律法(りっぽう)の規定であり、聖書巻末の用語解説に簡単な説明が載(の)っています。50年に1度、イスラエルの人々(ユダヤ人)に訪れる年であり、借金などで手放していた先祖伝来の土地(“嗣業(しぎょう)”と言う)が元の持ち主に無償で返され、また、やはり借金等で奴隷になっていたイスラエル人は無償で解放される、という年でした。この年の始まりは、ヨベルという雄羊のつのぶえを吹いて告げ知らされたので、ヨベルの年と呼ばれるのです。
 ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で修業し、聖霊の力に満ちて地元ガリラヤ地方に帰って来た主イエスは、カファルナウムの町や周りの村々で、安息日(あんそくび)には会堂に入り、聖書の言葉をお教えになったのです。そして、病の人を癒(いや)し、障がいを負っていた人を回復させ、差別され疎(うと)んじられていた人々と交わり、様々なものに、心も体も縛られていた人々を解放なさったのです。そのご自分の業(わざ)を、主イエスは、ヨベルの年になぞらえて、それが実現したと宣言された。50年に1度の解放の年、恵みの年、それが、あなたがたが耳にした今日、実現した、始まったと主イエスは宣言なさったのです。


 この宣言を聞いて、それに続く説教を聞いて、ナザレの人々はどのように感じたのでしょうか。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い(た)」(22節)と言います。
 当時ユダヤ人はローマ帝国に支配され、その土地を奪われていましたから、そういう現実の中で、このヨベルの年という神の約束を信じて、絶望せずに待ち続けよう、という説教なら、人々は何度となく聞いていたかも知れません。けれども、“待とう”ではなく、“今、実現した”という説教は初めてだったのではないでしょうか。そのような説教に驚き、人々は主イエスをほめた、と言います。
 けれども、この「イエスをほめ(た)」というのが考えものだなあ、と思うのです。神さまをほめたたえたのではないのです。神の栄光と力をたたえ、感謝したのではないのです。目の前にいるイエスをほめた。それは、主イエスの語る言葉を、人間イエスの言葉として聞いて、“神の言葉”としては聞いていない、ということです。そういうふうに聞いているから、「この人はヨセフの子ではないか」(22節)という感想も飛び出してくるのです。目の前で語っているのは、自分たちが、その幼い時からよく知っているヨセフの子イエスだ。その子が、こんなふうに語るようになるなんて意外だ、信じられない。そういう目で主イエスを見、聞いているのです。だとすれば、「実現した」という宣言を受け入れ、信じられるはずがありません。
 ところで、次週は川越市の初雁(はつかり)教会との講壇交換礼拝を行います。多くの方がご存じのように、初雁教会は、開拓伝道によって坂戸いずみ教会を生み出した親教会です。1年に1度、この関係を忘れないために、深めるために、交わりの礼拝を行います。
 私にとっては、自分が生まれ育った教会に帰って説教をすることになります。育てられた教会に帰ることは懐かしくもあり、旧(ふる)いなじみの方々にお会いできるのは嬉しいことでもあります。
 けれども、同時にちょっと嫌なことでもあります。“この人はY.Iの子ではないか”と言える人々がたくさんいるわけです。私の育ちを知っている人がたくさんいる。私の身内もいる。そういう人々の前で説教を語るのです。自分自身が面映(おもは)ゆいと同時に、失礼な話かもしれませんが、そういう方々が、私の語る説教を、自分たちのよく知っている“人間”の言葉としてではなく、“神の言葉”として聴くことができるのか、神をほめたたえることができるのか、今実現したと受け止めることができるのか、と思います。
 もちろん、これは他人事ではなく、この教会の、皆さんの課題でもあります。皆さんの中には、私のことを、私の性格を、生活を、趣味を、よく知っている方も少なからずおられます。長く付き合っていれば、自(おの)ずとそれは分かって来ます。それ自体、決して悪いことではありません。私もできるだけ、人間的にも皆さんと親しくお交わりをしようと思っています。
 けれども、そのことを礼拝の場に持ち込んではならない。説教を語り、聴くところに持ち込んではならない。人間的な要素を持ち込んではならないのです。説教を“神の言葉”として聴くためです。聖書の言葉が実現し、神がほめたたえられるためです。
 そうでなければ、聖書の言葉は私たちの間で実現しません。恵みとなりません。ナザレで起こったことと同じようになります。
 「この人はヨセフの子ではないか」。そういう人間的な要素を持って、主イエスの説教を聞いたために、ナザレの人々は“神が語りかける言葉”として聴くことができませんでした。そのように信じて聴こうとしないところでは、聖書の言葉は実現しません。恵みは起こりません。だから、主イエスも、ちょっと言い過ぎとの感もありますが、そのようなナザレの人々の御(み)言葉に対する姿勢に失望して、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と言われました。そして、預言者エリヤ、エリシャの例を引き合いに出し、故郷の人々が預言者の語る言葉を“神の言葉”として聴く信仰がなかったために、二人とも故郷では神の恵みの業を行うことができず、外国人であるサレプタのやもめのところでだけ、またシリア人ナアマンに対してだけ、神の恵みの業を行ったのだと言われたのです。詳しくは、どうぞ旧約聖書の列王(れつおう)記上17章、列王記下5章をお読みになってください。
 このように言われた主イエスに、ナザレの人々は侮辱を感じて憤慨し、主イエスを崖から突き落とそうとしたと記されています。人間的な親しさというのは、親しいだけにこじれるとかえって、憎しみに変わることがある、ということを、私たちもまた忘れてはならないでしょう。人間的な愛憎に飲み込まれたら、私たちは“神の言葉”を聞くことができません。


「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
 説教の始めに、御言葉が実現したと感じたことがありますか?と聞きました。私たちが、聖書を読んでいなければ、御言葉が実現することはありません。聖書の言葉が実現するように、祈り求めていなければ、御言葉が実現することはありません。そして、聖書の言葉が実現したと感じたことがないならば、経験したことがないならば、私たちの信仰は成長しません。聖書の言葉が“私”にとって実現するという恵みこそが、私たちの信仰を成長させ、それが人生を歩んでいくための明らかな道標(みちしるべ)となり、確かな力となるのです。
 聖書を知的に理解することではありません。読んだことが全部分からなくていい。難しいから読まない、で済まさない。一言でも分かればいいのです。何かハッとしたり、ホッとしたりして、感じる一言があれば、更に良い。とにかく、まず読むことです。次に受け入れることです。人間的な要素を差し挟(はさ)まずに、自分はこう思うとか、こんなことはあり得ないとか、そんなふうに“自分”を前面に押し出して自己主張をせずに、心を開いて、できるだけ素直に受け入れることです。そして、その御言葉が実現するようにと真剣に祈り求める。その基本姿勢があれば、聖書の言葉が今日、実現したと感じることが起こるのです。御言葉に感動することがあるのです。世界が変わる、いや、自分が変えられる。自分の心境が、自分の生き方が180度変えられることがあるのです。
 例えば、以前にもちょっとお話ししたことがあったかと思いますが、昨年の9月頃、私は自分の怠惰な姿に悩んでいました。夏の疲れが出たのか、夏の忙しさに燃え尽きたのか、秋口になってもう一つやる気が出ない。最低限のことはこなしているけれど、あれもしよう、これもできる、という意欲、気力が湧(わ)いて来ない。すぐに疲れてしまうのです。そういう自分のことを、私は“だめ人間”だと感じて、これじゃいけないと責め続けていました。そんな日々が1ヶ月も続いたでしょうか、ある日の聖書黙想で、マタイによる福音書6章25節以下の御言葉が示されました。「‥‥何を食べようか何を飲もうかと、‥‥何を着ようかと思い悩むな」(25節)と主イエスが語る教えの箇所です。そこで私は、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。‥‥」(28節)、しかし、神さまは美しく装(よそお)い、養ってくださる。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(30節)との御言葉にハッとしました。
“そうだ、働かなくていいんだ。たくさん働いたから、神さまは私を認めて、愛してくださるのではない。ありのままで、私は良しとされている。生かされている”。そう気づいたら、心がとても軽くなりました。そして反対に、一生懸命働けるようになりました。
 あの時、私の中で、「この聖書の言葉(が)‥‥実現した」のです。捕らわれていた私が解放されたのです。


 聖書の言葉は神話でも空想でもありません。実現しないのではありません。実現するのです。私たちの生活のただ中で、人生のただ中で、実現するのです。その恵みを、私たちは信じて、求めていきましょう。

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