聖書 イザヤ35章1〜10節
説教者 山岡創牧師
◆栄光の回復
35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。
35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。
35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
35:7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。
35:8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。
35:9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
「花を咲かせよう」
皆さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
新しい年、2012年を迎えました。日本人は、年が明けると、おめでとうと挨拶(あいさつ)する習慣があります。新年を迎えることができた、という喜びです。
私たち、主イエス・キリストとその父なる神を信じる者は、この挨拶に信仰をプラスしたいと思います。過ぎて行った年も神さまの導きによって守られ、支えられた。そして、新しい命を与えられ、生かされて新年を迎えることができた。この年も、神さまの御(み)心と愛にゆだねて平安であることができますように。そんな感謝と祈りを込めて、私たちは、おめでとうと挨拶を交わしたいと思うのです。
そして、お互いに“花を咲かせる”一年であるようにと祈り合いたいと願います。
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声を上げよ」(1〜2節)。
新年の初めにいただいた聖書の御(み)言葉に、このように記されていました。「花を咲かせよ」と、神さまは3回繰り返して命じています。
30日の午後3時から夜にかけて、12月の中学高校生会を開きました。青年のお兄さんお姉さんも2名、また小学生も3名、5時半まで加わって15名ほどで、教会の掃除をし、鍋をつつきました。そして、何をしたかと言うと、聖書の学び‥‥ではなく、後ろのロビーでカラオケ大会をしました。今やカラオケ・ボックスに行かなくても、自宅でカラオケが楽しむことができます。Wiiというゲーム機に、ジョイ・サウンドというソフトを入れて、インターネットにつなぐと、古いものから最新の歌まで何でも歌えます。それをプロジェクターにつないで、白いシーツを貼ったスクリーンに映し出して、みんなでカラオケを楽しみました。今度、年配の皆さんと昔懐かしの懐メロで盛り上がってもいいなあ、と思います。
その中で、みんなでスマップの〈世界に一つだけの花〉を熱唱しました。あれは良い歌詞ですね。
そうさ 僕らも
世界に一つだけの花 一人ひとり違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
ナンバー・ワンにならなくてもいい もともと特別なオンリー・ワン
この歌詞の内容、とても聖書的、キリスト教的です。私が以前に非常勤講師をしておりました聖学院の男子中学高等部、その校長を務めておられた林田先生が、“ナンバー・ワンではなく、オンリー・ワンを育てる教育”を、学校のモットーに掲げておられたことを思い出します。
神さまが、一人ひとりを、掛け替えのない特別なオンリー・ワンとして造ってくださった。だから、ナンバー・ワンにならなくていい。人と競争し、比べて、優越感に浸ったり、劣等感に落ち込まなくていい。人は人、自分は自分、自分を大切に、自分らしく生きて、自分だけの花を咲かせればいい。神さまが与えてくださっている自分の値打ちを信じて生きていい。それは絶えず、聖書から、主イエスから、私たちが語りかけられていることです。
だから、たとえ私たちが人と比べて一番どん底に落ちたと感じるとしても、その人を見ている目を、神さまの方に向け変えることが大事です。神さまはこう言われます。
「弱った手に力を込め、よろめく膝(ひざ)を強くせよ。心おののく人々に言え、『雄々しくあれ、恐れるな。‥‥神は来て、あなたたちを救われる』」(3〜4節)。
だから、人と比べて“ましだ”とか“だめだ”とか言うのではなく、心の目で神さまを一点に見つめること。雄々しく、恐れずに歩むこと。それが、花を咲かせる、ということです。心に、揺るがない「大路(おおじ)」「聖なる道」(8節)が敷かれるということです。
預言者イザヤの時代のイスラエルの人々も苦しんでいました。バビロニアに国を滅ぼされ、捕らえられ、行きたくないところに連れて行かれ、奴隷のような生活をさせられ、あたかも花の咲かない荒れ野のような、砂漠のような人生を歩まされていました。バビロニアの人々を見て、うらやましく思ったかも知れません。
けれども、イザヤは、神さまを見つめなさい、と言いました。雄々しくあれ、恐れるなと語りました。神さまが救ってくださる時が来る。だから、希望を失わずに、今を生きなさいと励ましたのです。
私は、もう一つの歌(詩)を思い起こします。
神が置いてくださったところで咲きなさい。
仕方がないとあきらめてではなく、「咲く」のです。
「咲く」ということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです
「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、
私はしあわせなのだということを、示して生きることです。
神が、ここに置いてくださった。
それはすばらしいことであり、ありがたいことだと、
あなたのすべてが語っていることなのです。
置かれているところで精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。
神が置いてくださったところで咲きなさい。
確かラインホールド・ニーバーという人の詩を、渡辺和子さんというシスターが訳したものです。
私の信仰はまだまだ、この詩の内容には程遠いなあと感じます。それに、苦しいところ、悲しいところで、このように生きるのは、なかなかに難しいことです。
でも、良いことも良くないことも込みで、この一年も、神さまが置いてくださったところで精一杯、花を咲かせる。その心で歩んで行きましょう。
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