坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年1月8日 礼拝説教 「神は命を救う」  

聖書 ルカによる福音書6章1〜11節
説教者 山岡創牧師

◆安息日に麦の穂を摘む
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
◆手の萎えた人をいやす
6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

    「神は命を救う」
 今日読んだ聖書箇所に、「安息日(あんそくび)」という言葉が何回出て来たでしょう?数えてみると6回も出て来ています。今日の御(み)言葉において、キーワードとなっているのは、この「安息日」です。
 安息日について、旧約聖書・出エジプト記20章8〜11節に、十戒と呼ばれる戒めの一つとして、次のように定められています。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。
 七日に1度巡って来る「安息日」という日を、他の六日とは違う特別な日として守り、生活する。それが「聖別」するということです。具体的にはどうするか。仕事を休むのです。そうするのは、天地創造という仕事を終えて、神さまも七日目に休まれたからです。安息日の根拠は、神さまの天地創造にあります。
 旧約聖書・創世記のはじめには、神さまが六日間で天地をお造りになった物語が記されています。もちろん、私たち人間も六日目に造られています。そして、天地をお造りになったとき、神さまがどうされたか、創世記2章のはじめに、こう書かれています。
「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記2章1〜3節)。
 神さまが、天地創造というご自分の仕事を完成され、七日目に休まれた。七日目を、天地完成のお祝の日となさった。だから、神さまに造られた人間もそれに倣(なら)い、七日目には仕事を休んで、神さまが天地をお造りになったことを心に留め、祝いなさい、というのが、安息日の掟の趣旨だと言うことができます。


 ユダヤ人は、“律法”と呼ばれる旧約聖書に記されている掟を、神さまの意思(御心)として大切に守りました。十戒も律法の一部であり、その中心です。
 紀元前6世紀に、ユダヤ人はバビロン捕囚(ほしゅう)という厳しい経験をしました。国を滅ぼされ、捕虜としてバビロンに移住させられ、不自由な生活を強いられたのです。そのような恥と苦しみの原因を、自分たちが律法を守らず、神さまに背いたからだと考えたユダヤ人は、バビロン捕囚から解かれて祖国に帰って来た後で、ますます律法を守るようになりました。特にファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の宗派の人々は、非常に熱心に、厳格に、律法を守ろうとしました。彼らが、特に厳格に守ろうとしたのが安息日の掟です。
 彼らは、安息日の掟を守るために、出エジプト記20章で定められている「いかなる仕事もしてはならない」ということに徹しました。その徹底ぶりは半端ではありません。彼らは、どのようなことをしてはならないか、具体的に細かく定めました。例えば、安息日には何歩までは歩いて良いが、それ以上は歩いてはならない、とか、安息日には料理をしてはならない、とか、そういったことを事細かく定めました。病を治療する行為も、もちろん安息日には禁じられていました。
 それだけ神の掟を守ることに真剣なのだと言うこともできます。けれども、重箱の隅をほじくるような、余りの細かさ、息苦しさに、そんなことについていけない、守れない人々も出て来ました。そして、そういう人々が差別され、村八分にされるようなユダヤ人社会が形成されるようになって、問題はいよいよ大きく、深刻になりました。けれども、社会の中心勢力をなしているファリサイ派の人々は、そのような信仰と社会の状態がおかしいとは思いませんでした。それが、神さまの御(み)心に適う、喜ばれることだと思っていました。しかし、その問題に“これはおかしい”と目を向け、闘ったのが主イエスだったと言うことができます。


 この6章に至る以前に、既に主イエスは、安息日に仕事をなさっておられます。それは、4章39節で、シモン・ペトロのしゅうとめの高熱を癒(いや)されたことです。この日は安息日でした。けれども、この時点ではまだ、主イエスのこの行為は問題にされませんでした。それが5章で、中風の人を癒した際の“罪の赦し”の発言や、村八分にされている徴税人(ちょうぜいにん)を弟子とし、一緒に食事をしたりしたことで、ファリサイ派の注目を集めるようになって来ました。
 そして6章になって、主イエスとファリサイ派の人々は、安息日の掟を巡って真っ向から対立するに至ります。
 その一つは、主イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで、手でもんで食べた、という問題でした。
 他人の麦畑に入って麦をとって食べたということが、盗みの罪として問題にされたのではありません。
 他人の麦畑で麦をとって食べることは、律法で許されているのです。旧約聖書・申命(しんめい)記23章25節には、他人の麦畑を鎌で刈り取ってはならないが、手で摘んで食べるのは良いとされています。それは、貧しく空腹な人を助けるための掟でした。
 ここでは、安息日に麦の穂を摘むことが収穫の仕事として、あるいは、手でもんで食べるということが料理の仕事として問題にされているのです。
 そのような詰問に対して、主イエスは、ダビデ王のエピソードを挙げて反論しています。このエピソードは旧約聖書・サムエル記上21章に記されています。
 ただ、主イエスがここで引かれたダビデ王のエピソードは、ちょっとピントがずれている感じがします。しかし、その説明をし出すと話が細かくなって、今日の話の筋から逸(そ)れるので、触れないこととします。ただ一言、主イエスが、「人の子は安息日の主である」(5節)と言われた御言葉に心を留めましょう。
 もう一つの争点となったのは、主イエスが右手の萎(な)えた人を、安息日に癒された治療行為でした。主イエスは、訴える口実を見つけようとする律法学者たちやファリサイ派の人々の悪意を見抜いて、控えるどころか、まるで挑戦するかのように右手の萎えた人を癒されました。そしてその時、人々に問いかけた大切な言葉が、これです。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9節)。
 これは、現代において神さまを信じて生きようとしている私たちにも問いかけられている言葉だと思います。ファリサイ派は怒り狂いましたが、私たちもイエスかノーか、自分なりに答えることを求められています。(もちろんノーと言ったら、信仰になりませんが)


 私は、この御言葉を考えながら、イエスさまは、この癒しの行為を次の日に行うことはできなかったのだろうか、と思いました。右手が萎えているということは、確かに大変な苦しみかも知れないけれど、その治療を1日延ばしたからと言って、命に関わることではないだろう。それを安息日にしなかったからと言って、命を滅ぼすと言うのは、ちょっとオーバーではないか。そう考えました。
 しかし同時に、そう考えるのは、自分が今日なすべき「善」を明日以降に延ばして、さぼるための言い訳を作ろうとしているのではないだろうか、という反省の思いも湧いて来ました
 私たちは、安息日という日を、どのように受け止め、どのように生かせば良いのでしょうか?
 そこで、私がふと思い起こした聖書の御言葉がありました。それは、「善」という言葉と、それをさぼるということから連想したのですが、新約聖書・ヤコブの手紙4章17節の御言葉でした。
「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」。
 そうです。なすべき善を行わないのは罪なのです。では、なぜ罪なのでしょう?ただ、行わないからと言うだけではありません。神さまが天地をお造りになったことを心に留め、祝ってないからです。
 このヤコブの手紙の御言葉の前後関係を読むと、13節で「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」という人たちに語りかけられていることが分かります。金儲けが貪欲で悪い、と言うのではありません。命が自分の手の中にあるかのように誇り高ぶっていることが罪だと言うのです。
 ヤコブは語ります。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです」(14節)と。だから、あなたがたは「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのこともしょう」(15節)と言うべきです。それなのに、そういう命に対する謙虚さや感謝を忘れて、すべて自分で決めて、命まで自分の手の中に握って、寿命さえも支配できるかのように生きている。そういう“自分が、自分が”という自分中心の、自分勝手な生き方が誇り高ぶりだと言うのです。そして、最後に先の17節の御言葉が締めくくりとして言われます。
 だから、私は「なすべき善」というのは、ただ単に“善い行い”というだけではないと思いました。善とは、私たちが、自分の力で生きているのではなく、神さまによって造られ、神さまによって命に生かされて生きていることを知る、ということだと思います。私たちは神さまに造られ、生かされて在る、という人間本来の姿勢を取り戻すことだと思います。
 最初に、神さまに造られた人間も神さまの休みに倣い、七日目には仕事を休んで、神さまが天地をお造りになったことを心に留め、祝いなさい、というのが、安息日の掟の趣旨だと言いました。それはつまり、神さまによって自分が造られ、生かされているという姿勢を取り戻すことです。普段の生活の中で、自分が、自分がと、つい忘れがちになることを思い出して自分を改める日なのです。そして、造られ生かされているということは、裏返せば、明日死ぬかも知れない命なのだから、今日なすべき「善」を、心を込めて行う必要があるということです。だから、なすべき善を明日に延ばすことはできないのです。造られた者として生きている。それが、主イエスが右手のなえた人の癒しを、翌日に延ばさなかった理由だと思います。
主イエスは、“自分が、自分で”になっているファリサイ派の人々の驕(おご)りを打ち砕くために、そして私たちにも人間本来の心と姿勢を回復させるために、安息日をめぐって闘われたと言うことができるでしょう。


 安息日はユダヤ人にとっては土曜日ですが、私たちクリスチャンにとっては日曜日です。私たちは、自分が神さまによって造られ、生かされてあることは分かっているつもりです。頭では分かっています。けれども、普段の生活の中では、そのことを忘れてしまい、自分勝手に、神さまの御心が何であるかを考えずに、自分が、自分で、と生きていることが少なからずあるのではないでしょうか。自分を省みてもそう感じます。
 日曜日に私たちが教会に集まり、礼拝を守るのは、この時間を自分の思うようには使わずに、神さまに献げることで、自分が神さまによって造られ、生かされてあることを思い起こすためなのです。それが、善を行うこと、命を救う生き方の第一歩です。


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