聖書 ルカによる福音書6章12〜16節
説教者 山岡創牧師
6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
6:14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
6:15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
6:16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
「あなたも選ばれている」
今日読んだ聖書箇所の初めに、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)とありました。ルカによる福音書の中には所々、主イエスが人々から離れたところに行って祈られたことが記されています。既に4章42節にも出て来ました。
そのような主イエスの祈りの中で、皆さんに最もよく知られている場面は〈ゲッセマネの祈り〉と呼ばれる箇所でしょう。ルカによる福音書22章39節以下の場面で、主イエスは、敵対する人々に捕らえられ、十字架に架けられる前夜、ゲッセマネの園と呼ばれる場所で、次のように祈られました。
「父よ、御(み)心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22章42節)。
十字架刑という運命を「杯」に見立てて、神の御心が何であるかを尋ねておられるのです。
他の祈りの場面では、どんなことを祈られたのか、祈りの言葉は記されていません。けれども、ゲッセマネの祈りの言葉から察するに、主イエスは折々に、父なる神のみこころが何であるか、神さまは自分に何を求めておられるかを尋ねる祈りをなさっていたものと思われます。
祈りとは何でしょう?神さまとの会話、霊的な会話であると言われます。そして、会話というのは日常的なコミュニケーションです。絶えず会話をすることで、お互いの気持や考えを通じ合わせることができるのです。
“めし”“風呂”“寝る”。夫の言葉として夫婦の間にこれしか会話がない、なんていう不満話を聞くことがあります。近年では、女性も社会で働き続けることが当たり前になってきましたから、夫だけではなく妻にも、これに似た傾向が出て来ているかも知れません。疲れて帰って来れば、あまりしゃべりたくない。聞かれても答えたくない、という場合もあるでしょう。けれども、それを繰り返していると、相手のことが分からなくなって来ます。不満が募り、互いの関係がギクシャクし、ともすれば最悪の場合を招かないとも限りません。ひと声でも掛けることが大事です。
“阿吽(あうん)の呼吸”という言葉がありますが、そのように呼吸の合っている関係は最初からできるものではありません。お互いに呼吸を合わせる努力をする。その努力が会話です。お互いの考えや気持を通じ合わせながら、そういう膨大なコミュニケーションの結晶として、“おしどり夫婦”などと呼ばれる関係が築き上げられていくのです。
クリスチャンと神さまとの関係、主イエス・キリストとの関係も、聖書の中で夫婦関係に譬(たと)えられることがしばしばあります。クリスチャンは“キリストの花嫁”と呼ばれます。とは言っても、最初から深い信頼関係で結ばれているわけではありません。深めていくのです。そして、深めるために必要なのが神さまとの会話、主イエスとの会話であり、その会話というのが祈りと聖書の御(み)言葉というわけです。
もし夫婦の間で1日に一言も会話がなかったら、どのように感じるでしょう?かなりさびしいと思います。それが続いたら、相手の考えや気持が分からなくなります。
神さまとの関係だって同じことです。1日のうちに一言も会話がないなんてことがあって良いはずがない。だから毎日、聖書を読んで祈りましょう、と言うのです。短い時間だって構わない。どのように聖書を読んで祈ったらよいか分からない人は、私か誰かに聞いてください。
そして、最初から聖書の内容、つまり神さまの御心が深く分かるとは思わないでください。人間同士の関係だって、最初は表面的なことしか分かりません。会話を重ね、コミュニケーションを積み重ねて行くうちに、少しずつ相手の気持や考えが深く分かるようになって行くのです。神さまとの関係も同じです。最初から聖書の言うことがよく分かるはずがない。聖書を読んで祈る。それを積み重ねていくうちに、神さまが何を考えておられるか、何を求めておられるかが次第に深く分かって来るのです。
その意味で、祈りとは神さまとの大切な会話、霊的な会話です。日常的に毎日する必要があるのです。旧約聖書では、神さまは“熱情(妬み)の神”と呼ばれています。あなたが1日話しかけずにいて他のことばかりにかまけていると、神さまは焼きもちを焼いているかも知れませんよ(笑)。
ところで、私たちは祈りの中で、どんなことを神さまに話しかけているでしょうか?自分の祈りを吟味してみると、たぶん80%は“願い”だと思われます。自分のための願い、また他人のための執(と)り成しも含めて、80%以上が願いでしょう。
そういう祈りが必ずしもよくないとは思いません。けれども、私たちが心しなければならないのは、“祈り”と“願い”は違う、ということです。祈りを願いから救い出さなければならない、と言う人もいるぐらいです。
祈りの中身、神さまへの会話の中身が願いばかりではなりません。神さまへ話すことには、感謝があります。形ばかりの感謝ではなく、日常生活の中で具体的に感謝な事柄を見つけて祈ることが大切です。新しい一日、今日の命が与えられたこと、食事が備えられたこと、健康が守られたこと、出掛けられたこと、仕事ができたこと、学校に行けたこと、家族と仲良く過ごせたこと、仲直りができたこと、この人と会えたこと、教会に来られたこと、その他、誕生日や合格、入学、卒業、就職、結婚、何かの記念や出来事、大きなことから小さなことまで、気がつけば感謝することは私たちの日常生活の中にたくさんあります。それを祈りの中で言葉にすることで、私たちの信仰は変わります。成長します。
祈るべきもう一つのことは悔い改めです。ある徴税人(ちょうぜいにん)が神殿で、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈ったように、神さまに謝り、憐(あわれ)みを乞う。これも、感謝と同じで日常生活の中で具体的に悔い改めの事柄を見つけて祈ることです。
そして、祈りの中でもう一つ、大切な要素は“聴く”ということです。会話というのは、自分ばかりがしゃべっても、それは自己満足であり、会話になりません。相手の話を聴くことで、はじめて会話になります。
では、神さまの話をどのように聴くのか。聖書を通して、です。だから、私たちは聖書を読みます。聖書を通して、神さまが自分に何を語り、何を求めておられるかを受け止めます。もちろん、祈りのたび毎に、一緒に聖書を読めるわけではないと思います。祈るだけの時の方が多いでしょう。けれども、多少まとまった時間が取れるときは、聖書を読んで祈るようにしましょう。ただ、聖書から毎度毎度、神さまの御心がピタッと受け取れるわけではありません。それでも、神さまが自分に何を求めておられるかを考える姿勢は大切にしましょう。祈りだけの場合でも、祈りの中で、“神さまは何を求めておられるか”“イエスさまならどう言うか”“イエスさまならどうするか”を考えるようにしましょう。
神の言葉を求める。神の御心を求める。それが、祈りを単なる一方的な願いに落とすのではなく、祈りを祈りとする姿勢です。日常生活の中で、何か決断を要する時などは、自分の考えや気持だけで決めるのではなく、神さまの御心を祈り求めてください。そうすることで、私たちは一方的な、衝動的な判断からも救われるのです。祈ることで、一呼吸入り、落ち着きを取り戻し、周りのことも見えるようになります。それによって、時には自分の意に反する、苦しい、厳しい判断や決断になることもありますが、後になってきっと、ああして良かったと思えるような最善の道になります。いや、これが神さまの御心に適(かな)う最善の道だと信じて進めるところに、信仰の良さ、強さがあります。
主イエスも、しばしば父なる神さまの御心を求めて祈られました。今日の祈りにおいては、弟子たちの中から12人の「使徒」を選ぶことについて、神さまの御心を尋ねて祈られたようです。いや、ファリサイ派の人々との対立が次第に厳しくなっていく状況の中で、これからどのように神の恵みを伝道すれば良いでしょう?と、神さまの御心を尋ねた時に、あなたを助け、あなたと共に伝道する12人を選びなさい、という御心が示されたのかも知れません。ちなみに、なぜ12人かと言えば、それは神の民イスラエルの12部族にちなんで、新しいイスラエルを造り出そうとする思いがあったと言われています。
弟子と使徒とどう違うか。これは、一言ではなかなか言えない内容です。ただ、弟子というのは、師匠・親方の方に向いて、師の言葉を聴き、師のすることを見て、それをまねし、倣(なら)い覚えて行くのが弟子だとすれば、使徒というのは、“遣わされた者”“代理人”として、師匠・親方の方を向くのではなく、師と同じ方を向いて、師から受け継いだものを生きて伝えて行くのが使徒だということができるかも知れません。それが証拠に、この後17節以下で、使徒たちは、山から下りて来て弟子たちと群衆に向かい合う主イエスと同じ側に立っています。使徒たちは、主イエスの方を向いて、弟子たちや群衆と一緒に立っているのではなく、主イエスと共に立っています。それが「使徒」です。
昨年のいつごろでしたか、妻が読んでいた本で、私もおもしろそうだと思ったので、『棟梁』という本を読んでみました。小川三夫さんという宮大工が、出版社のインタビューに答えた内容がまとめられて本になったものです。その本の中で、小川三夫さんは繰り返し繰り返し、“言葉では伝わらん。一緒に生活し、まねて倣い覚えて行くのでなければ、身につかん”ということを語っていました。その意味では、私たちの信仰生活も、頭で御言葉を聞くのではなく、主イエスをまねて倣い、生活するのでなければ身につかないもの、味わえない恵みがたくさんあると思います。
そのように、一緒に生活し、まねて倣い覚えて行くのが“弟子”だとすれば、親方の精神と技術を身に付けて、自律・独立していった職人を“使徒”にたとえることができるでしょう。
小川さんが言われたことの中で、こんな言葉が強く印象に残っています。
人は育てることはできないが、環境さえ準備してやれば、学び育って行きます。
親方としての私の役目は、育つための場所と、現場を用意して、
肝心なときに一押ししてやることです。
言わば、主イエスが12人を使徒に選んだということは、弟子たちを“一押し”したということかも知れません。共に旅をして伝道するという、育つための場所と、「大勢の弟子とおびただしい民衆」(6章17節)という現場を用意して、“さあ、使徒としておいで”と一押ししてくださったのかも知れません。
使徒として伝道するには、訓練と経験が足りないような気がします。本人たちも自信がなく、不安だったかも知れません。けれども、主イエスは、ここが肝心なところだと一押しなさったのでしょう。
私たちもまた、弟子から使徒として選ばれ、恵みを伝えよと遣わされていく時があります。私たちは、“自分などまだまだとても‥‥”としり込みするかも知れません。けれども、主イエスは私たちの成長を信じて選び、一押しされます。その御心を受け止めて、職場や学校、家庭において、神の救いの恵みを生きて伝えようと生活するとき、私たち一人ひとりは、「使徒」として成長していくのです。
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