坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年2月19日 礼拝説教 「人の見る目、神の見る目」    

聖書 ルカによる福音書6章37〜42節  
説教者 山岡創牧師

◆人を裁くな
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
   

     「人の見る目、神の見る目」
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
そうして、あとでさみしくなって、
「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、誰でも。
 皆さん、この詩に聞き覚えがおありでしょう。東日本大震災が起こった後、各企業がコマーシャルを自粛(じしゅく)する中で、公共広告機構のコマーシャルで繰り返し、繰り返し耳にした、金子みすずさんの詩です。
 けれども、単に何度も聞いたから印象に残っている、というのではありません。この詩が語っている人間の本質に、“うん、うん”と納得するものがあるからです。
 改めて説明することもないでしょうが、これは“自分”と“相手”との人間関係を表しています。“やっほー!”という自分の叫び声が、向かい側の山で跳ね返って“やっほー!”と、こだまが返って来るかのように、自分の姿を鏡に映(うつ)したかのように、自分と同じ言葉が、自分と同じ態度、自分と同じ心が、相手から返って来る。こちらが好意を持てば、相手も好意を持ち、こちらが拒絶すれば、相手も拒絶する。こちらが意地悪をすれば、相手も意地悪をし、こちらが優しくすれば、相手も優しくする。そんな関係が、私たち人間同士には、確かにあります。


 今日の聖書の御言葉を黙想しながら、私はふと、先ほどの金子みすずさんの詩を思い起こしました。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」
(37〜38節)
 裁く者は、裁かれる。赦す者は、赦される。与える者は、与えられる。
「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである」(38節)。
理屈ではなく、人生の真理という的を射抜(いぬ)くような言葉です。

 もちろん「人を裁くな」とは、社会的な意味で、裁判は必要ないなどと言っているのではありません。そうではなくて、他人に対して愛のない批判をするな、憐(あわれ)みのない非難をするな、と主イエスは注意しておられるのです。
 直前の箇所の最後に、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6章36節)とありましたが、人に憐れみ深い態度は、人を裁かない、ということだと主イエスは教えておられるのです。


 けれども、御言葉を黙想しながら、ハッと、ある疑問に行き当たりました。これは、単に人と人との関係を、主イエスは語っておられるのだろうか?と。「押し入れ、ゆすり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」(38節)。与えたら、同じものが返って来るというのではなく、その何倍、何十倍ものものが、計り知れないものが与えられる、という言葉に、この相手は、人間ではなく神さまだな、と気づかされました。裁く者は、裁かれる。赦す者は、赦される。これは、人と人との関係であると同時に、神と人との関係でもあるのです。神さまは何倍にもして、いや、計り知れないほどにして返してくださるのです。
 マタイによる福音書18章21節以下にある〈仲間を赦さない家来のたとえ〉を思い起こしました。王様から1万タラントンの借金を帳消しにしてもらないながら、友人に貸した百デナリオンを赦さなかったために、王さまに、牢屋に入れられてしまった家来の話です。当時のお金で、1万タラントンというのは百デナリオンの60万倍もの金額です。
 この話を裏返せば、人に貸した百デナリオンのお金を帳消しにする者は、王さまから、もとい神さまから、1万タラントンという大きな罪を、何十万倍、いや計り知れない罪を赦していただけるということです。
 人を裁かないのは、自分が神さまに裁かれないため、人を赦すのは、神さまに赦されるためです。私たちが、〈主の祈り〉で祈る、“わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの罪をおゆるし下さい”という祈りの心です。


 けれども、先ほどのたとえ話に出て来た家来に、王様の心が見えていなかったように、あなたがたにも(私たちにも)、この心が見えていないことがある、と主イエスは鋭く言われます。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」
(39節)
 あなたは「盲人」だよ、見えていないよ、と主イエスは言われます。この御言葉に、ドキッとします。牧師とは言わば“聖書の道案内(人)”です。しかし、牧師である私は見えているのだろうか? 「盲人」ではないだろうか? 信徒の皆さんを案内するつもりで、迷いの穴に落ち込んでいることはないか? そんな思いを抱(いだ)かせられます。
 そして、これは私だけの問題ではありません。親が子どもをしつけるときに、先生が生徒を教育するときに、上司が部下を指導するときに、また家族や友人との間で、教会の信徒同士の間で、忠告したり、注意したりするとき、“自分は盲人ではないか”と省(かえり)みるべきことでもあります。
 主イエスは、私たちに、何が見えていない、と言われるのでしょう。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(41節)。
 主イエスは、私たちに、「自分の目の中の丸太」が見えていないよ、と言われるのです。私たちは、人のことはよく見えます。他人の粗(あら)、他人の間違いはよく見えます。「おが屑」のように小さなことでも気づきます。そして、“あそこがだめなんだ”とか“こうしたらいいのに”と批判めいたことを思ったりします。
 けれども、自分の粗や間違い、過失には、私たちは案外気づかないのです。それが、「丸太」のように大きくても気づかない。いや、気づいていても認めない。言い訳したり、正当化したりして、自分の丸太はおが屑のように小さいんだと言い張る。そういったことも含めて、自分のことは見えないのです。
 どうして、他人の「おが屑」は見えるのに、自分の「丸太」は見えないのでしょうか。それは、私たちの中に、二つの「秤」があるからです。自分を量る秤と人を量る秤です。自分を量る秤と人を量る秤が違うからです。
 クリスチャンの小説家であった三浦綾子さんが、『光あるうちに』との著書の中で、そういう二つの秤について、次のようなことを書いています。
  もし、子供さんが、花びんをこわしたりしたら、どうするか。いつも不注意だからよ。そそっかしからよ、などと言って、自分は今まで皿も花びんも一切割ったこともなく、今後も一生割ることはないような顔つきで叱るのではないか。しかし、もし自分が割ったときはどうするか。ちょっと舌を出した程度で、自分の過失はゆるし、決して、子供を叱る時のようには、自分を叱らない。‥‥‥
 
 わたしたちは、何人か集まると、人の噂をする。‥‥わたしたちのする人の噂というのは‥‥人の悪口に始まり、悪口に終わる。‥‥とにかく、いとも楽しげに人の悪口を言い、且つ聞いているものなのだ。そして、「ああ、今日は楽しかったわ。またね」と帰っていく。‥‥だが、もし、自分の陰口を聞いた時、一体わたしたちはどうであろう。「ひどいわ、ひどいわ」と怒ったり、口惜(くや)しがったり、泣いたりして、夜も眠られないのではないだろうか。‥‥自分がそれほど、腹立つことならば、他の人も同様に腹が立つはずだ。‥‥それほど人を傷つける噂(うわさ)話を、いとも楽しげに語る。わたしたちは一体、どんな人間なのだろう。
 そんな実例を幾つか挙げて、三浦綾子さんは、私たちは“人のすることは大変悪い”“自分のすることは、そう悪くない”という二つの尺度を持っている。つまり、自己中心なのだ、と言われます。
 そのように、私たちは二つの秤を持っているために、人の粗や間違いは見えても、自分の欠点や過失には気づかない、認めないのです。


 ところで、もう一つ見えていないものがあると思います。
「偽善者よ。まず自分の目から丸太を取り除け。‥‥」(42節)とありました。
 「偽善者」とは何者でしょう? 今日の御言葉の内容から言えば、自分の目の中の大きな欠点や過失に気づかず、人の小さな粗や間違いを非難し、裁く人、相手を罪人だと決める人のことです。そのような「偽善者」に見えていないものが、「自分の目にある丸太」以外に、もう一つあります。
 「偽善者」という言葉はマタイによる福音書に数多く出て来ます。特に集中して使われているところが、6章の施し、祈り、断食の教えの部分です。そこで主イエスは、人にほめられようとして施しや祈り、断食をするのは偽善だ。人から隠れたところで、隠れたことを見ておられる神さまに喜ばれるようにしなさい、とお教えになりました。
 つまり、偽善者とは、人にほめられることばかりを意識して、神さまに喜ばれることを考えていない。つまり、人は見えても神が見えていない。神さまと自分の関係が見えていない人のことです。
 あの家来も、王さまに莫大な罪を赦していただいたことが見えず、つまり神さまが見えなかったために、友だちに貸した借金を赦さず、裁きました。
 もう一つ、ヨハネによる福音書8章の話を思い浮かべます。姦通の現場で捕らえられた女性が、主イエスの前に引き出され、人々は、“罪の女だ。石打ちの刑だ。イエスよ、どうするか?”と問い詰めました。そのとき、主イエスが言われた、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8章7節)との一言に、一人また一人と立ち去り、すべての人がいなくなってしまった、とあります。
 主イエスの一言によって、人々は自分の罪が見えたのです。自分の丸太が見えたのです。それは、神が見えたからです。目の前の人間ではなく、神さまに心を向けたからです。
 この話の結末、主イエスもまた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」(11節)と言われました。神さまに心を向けるとき、私たちは自分の罪に気づきます。人の粗や間違いを裁けなくなります。神さまに自分の罪を赦されている大きな恵みを思います。人を憐れみ、赦す者となります。
 その心でする、必要な注意や忠告ならば、神さまにも喜ばれ、相手にも通じるものになるかも知れません。「兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」(42節)かも知れません。


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