坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年3月4日 受難節第2主日・礼拝説教「心からあふれ出る言葉」  

聖書 ルカによる福音書6章43〜45節 
説教者 山岡創牧師

◆実によって木を知る
6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」


       「心からあふれ出る言葉」
 あの未曾有の東日本大震災から、もうすぐ1年が経とうとしています。
私たちに何ができたのでしょう?クリスチャンとして祈ることでした。被災された人々の悲しみ、苦しみ、労苦を思い、祈りのたびに心に留めることでした。また、献(ささ)げることでした。私たちの教会でも、毎月1度、東日本大震災で被災した人々と教会を支援するために献げる日を設けましたし、教会で昼食会を行うたびに、その一部を献げてきました。
もちろん、誇るようなことではなく、本当に小さな、小さな業(わざ)だったかも知れませんが、そのようにして被災した人々の苦しみに心を留めて来ました。
 ところで、東日本大震災を振り返ってみて、今日の聖書の御(み)言葉との関連から思い出したことがあります。それは、大震災が起こった当時、言われていた言葉、耳にした言葉です。“あの大震災は、神の罰ではないか”“罰が当たったのではないか”。そういった類(たぐい)の言葉を少なからず耳にしました。そういった言葉を聞くたびに、“心ない言葉だなあ”と胸が痛みました。
 私も決して想像力や感受性の豊かな人間だとは言えないかも知れませんが、それでも、それが言ってはならない言葉だということは分かります。それは、大震災の苦しみ、悲しみ、労苦を直接味わっていない人間が、それを味わった人々の痛みを想像せずに、まるっきり傍観者の立場から言う言葉です。大震災という目に見える現象だけを見て、目に見えない、被災した人々の心の痛みを思わず、“あのように未曾有の災害が、なぜ起こったのだろう?”と分析し、勝手な理由付けをし、それが、被災した人々の心をどんなに傷つけ、更に痛ませる言葉だとは思いもせずに言ってしまった言葉です。しかも、それを言う人の心には、無意識かも知れませんが、自分はそのような罰を受ける人間ではない、という驕(おご)りがあります。しかし、それは間違いです。
 主イエスも当時、塔が倒れて人が亡くなる災害が起こったとき、こう言われました。「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」(ルカ13章4節)。災害に遭った人が、遭わなかった人よりも罪が深くて罰が当たったのではない、と主イエスは言われます。皆、同じ罪を持った人間です。程度の差こそあれ、比べるようなものではない、神さまの前には同じ罪人です。でも、災害に遭う人もいれば、遭わない人もいる。だから、それは罪に対する神の罰ではないのです。
 また、主イエスは、生まれつき目が見えない苦しみを負った人を前にして、“なぜですか?”と、その苦しみの理由を尋ねる弟子たちにこう言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」(ヨハネ9章3節)。不条理な災害や苦しみがその人の人生に起こるのは、罪に対する罰ではないのです。理由など、だれにも分かりません。けれども、理由のない苦しみ、悲しみを癒(いや)そうとして、その人に寄り添おうとして、主イエスは、そこにもきっと目に見えない「神の業」がある。将来へとつながる何かがきっとあると言われるのです。
 そのように言われる主イエスの御(み)心を考えると、“神の罰だ”と言うことは、震災で苦しみ、悲しんでいる人々を傷つける言葉であると同時に、神さまの気持を知らず、神さまを侮辱する言葉でもある、ということが分かります。


 人の痛みに気づかない、神の気持を察しない鈍感さ、想像力の無さが、このような言葉を生みます。
今日の聖書箇所で、主イエスは語っています。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木もない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。‥‥‥善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(43〜45節)。
  私たちの心にあるものが、口をついて出ます。私たちの内にある、目には見えない思いが、形ある言葉となって現われます。優しさは、優しさのこもった言葉となり、憎しみは人を攻撃する言葉となります。愛は人をあたたかく包む言葉となって実を結び、無関心は相手の心を汲(く)まない言葉になります。
 そのような、心の結ぶ実としての言葉の一例が、今日の聖書箇所の直前にある「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」(42節)という言葉でしょう。この言葉は、37節から始まる〈人を裁くな〉というまとまりの中に出て来ました。そのタイトルとは反対に、42節は、人を裁く言葉です。それは、その人の心の中に“裁き”があるからです。人に対する非難があるからです。
 私たちは、他人の欠点や間違いはよく見ます。けれども、自分の失敗や短所はあまり見えません。そのために、自分の失敗や短所、間違いには気づかず、自分はさも正しい人間であるかのように、相手を裁き、非難します。それが、「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」という言葉となって現われるのです。
 気をつけなければなりません。私たちが無意識であっても、自分のことを正しい人間だと心の中で思っているときは、他人を非難し、裁きがちになります。自分が真面目に、一生懸命にやっていると、そういう自分を誇り、できない人、弱い人を思いやり、あたたかく包み、受け入れることができなくなることがあります。それが、非難や裁きの言葉となって、“ダメ出し”の言葉となって口から出ることがあります。
 そういうとき、私たちは神を忘れています。愛を忘れています。


 良い実を結ぶためには、良い木を育てる必要があります。心の倉に良いものを入れることが大事です。良い言葉を語るには、良い心を培(やしな)わねばなりません。
 私はふと、家庭菜園のことを思い起こしました。3月に入り、半ば過ぎにはジャガイモを植えます。また、5月の初め、ゴールデンウィークの頃には、夏物の野菜の苗を植えます。そのために、2月初めの頃から準備をしています。連作になりますから、連作障害にならないように、肥料不足、栄養不足にならないように、畑を耕します。土を掘り返し、堆肥や枯れ葉、油粕や米ぬかを入れ、土をかけて混ぜ返し、しばらく寝かせておきます。そうすると、土の中のものがバクテリアによって分解され、養分が補給されます。それが、良い実をならせる第一段階です。
 私も家庭菜園歴10年ぐらいになりました。偉そうなことは言えませんが、でも、経験からすると、畑を耕し、土を作ることもそうですし、途中のお世話もそうですが、手間をかけるほど良い実が成ります。手抜きをしたら、良い実はできません。皆さん、2年ほど前に、私がこの講壇で大きなキャベツをお見せしたのを覚えておられるでしょうか。あれは手間暇をかけました。けれども昨年の冬など、50本植えた玉ねぎを全滅させてしまいました。世話が足りませんでした。
 私たちの心もよく耕してやる。手間暇をかけ、心の倉に良いものを入れて蓄えてやると、心(人格)が培われ良い態度となり、良い言葉となって実を結びます。
 そのために、心を耕すにはどうすればよいか。一つは“経験”です。様々な経験が、私たちの心を耕します。特に、マイナスの経験が大切だと私は思います。苦しみ、悲しみ、失敗、挫折、落胆‥‥‥そういったマイナスの経験を、できればしたくないと私たちは思うでしょう。もっともなことです。けれども、そのような心の痛みが、私たちの心を深く掘り下げます。
 体育の授業中の事故で、首から下が麻痺して動かなくなるという障がいを負った星野富弘さんが作られた一つの詩を、とても印象深く記憶しています。
    わたしは傷を持っている。
    でも、その傷のところから
    あなたのやさしさがしみてくる。(『風の旅』より)
 障がいという傷、苦しみ、心の痛み。でも、それを味わったことで、健康で、強かったときには分からなかった人の優しさが心にしみるようになった。目には見えない神の優しさがしみるようになった。そして、きっと傷のある人に対してやさしくなることができたに違いありません。
 苦しみや挫折、失敗は、嫌なことですが、私たちの心を耕し、感受性や他人に対する想像力、優しさを育ててくれます。だから、私たちの人生にとって、それらは必ずしもマイナスでしかない、ということはありません。


 けれども、苦しみや悲しみ、失敗や挫折の経験は、自分から買って飛び込むようなものではありません。人生の歩みの中で出会うものです。味わおうとして味わえるものではありません。
 ですから、その意味で私たちは大なり小なり経験不足です。では、そのような経験不足を補ってくれるものは何か?それは、そういう経験をした人が語ってくれる言葉です。そして、私たちにとって、その最たるものが“聖書の御言葉”なのだと思います。
 苦しみや嘆(なげ)きの言葉を聴きながら、人の心の痛みを味わう。そして、主イエスの言葉に耳を傾けながら、愛とは何か、優しさとは何かを知る。
 今日の聖書箇所の一つ後ろの7章の最後に、主イエスが〈罪深い女を赦す〉という話があります。ファリサイ派の人シモンの家で、主イエスが食卓を共にしていた時、一つの罪深い女がやって来て、泣きながら主イエスの足を濡らし、自分の髪の毛で拭い、足に香油を塗りました。それを見ていたシモンは、心の中でこの女性のことを「罪深い女なのに」(39節)と非難しました。ファリサイ派というのは、自分たちは神の掟を守って正しく生きていると自負している人々でした。自分は正しいと思っていると、他人の間違いに優しくなれず、非難し、裁きたくなります。
 けれども、主イエスは、そのようなシモンの心を見抜いて、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(47節)と、この女性をかばうように言われました。
 別の場面、ヨハネによる福音書8章でも、姦淫(かんいん)の罪の現場で捕らえられた女性を、人々が裁こうとしたとき、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」(12節)と言われました。愛と赦しの言葉、人をあたたかく包み、立ち直らせる言葉です。
 このような御言葉に耳を傾けながら、自分の心の倉に蓄え、私たちも心からあふれ出る良い実を結んでいきたく思います。


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