坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年5月20日 礼拝説教  「光が見えるように」  

聖書 ルカによる福音書8章16〜21節 
説教者 山岡創牧師

◆「ともし火」のたとえ
8:16 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
◆イエスの母、兄弟
8:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
8:20 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
8:21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
    
     「光が見えるように」 
 今、日本国内は“金冠日食ブーム”に沸いています。明日5月21日、太陽に月が重なり、太陽の外側の部分が金の輪のように見える現象が、九州、四国、東海、そして関東地方でも見られる。これを逃すと、今度日本でも見られるのは300年以上先になるということで、世紀の瞬間に立ち会おうと、様々な企画やイベントが全国各地で計画されているようです。うちの子どもたちが通学している泉小学校でも、朝7時半〜8時、親子で金冠日食を見る会というのが企画されていて、私も行ってみようかな、と考えています。
 キリスト教がローマ帝国へ、そしてヨーロッパへと広がっていった頃のクリスチャンたちは、“イエス・キリストこそ我々の太陽だ”と言って、太陽の誕生を祝う異教の祭りを、キリストの誕生を祝うクリスマスに換えたと言われています。キリストはクリスチャンを照らす太陽、そしてクリスチャンは、その光を反射して輝く「世の光」(マタイ5章14節)です。その光を、ちゃんと燭(しょく)台の上に置いているか。自分が月のようになって、キリストという太陽の光を隠していないか。今日、私たちに投げかけられているのは、そういう御(み)言葉です。


「ともし火をともして、それを器(うつわ)で覆(おお)い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(16節)。
 そのとおりです。せっかく明かりをつけたのに、わざわざそれを覆ったり、何かの陰に置く人はいません。先ほど、クリスチャンは「世の光」だと言いましたが、それが書いてあるマタイによる福音書5章15節には、「家の中のものすべてを照らすのである」と記されています。すべてを照らし、入って来る人が見えるように。主イエスはこの御言葉によって、あなたがたには「ともし火」としての役目がある、と弟子たちに教えておられるのです。
 ともし火としての役目とは何でしょうか? 続く17節で、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公(おおやけ)にならないものはない」と語られています。「隠れているもの」「秘められたもの」とは何を指しているのでしょうか? それは、「神の言葉」「御言葉」(8章11、12節、他)のことです。
 4月29日の礼拝で、今日の聖書箇所の直前にある〈種を蒔(ま)く人のたとえ〉とその説明のところから説教をしました。神の言葉、御言葉という信仰の種が人の心に蒔かれる。その種を奪い去られる人もいれば、芽が出ても根がなくて枯れる人、茨(いばら)に覆われて伸びない人もいる。そういう中で、「忍耐して実を結ぶ人たち」(15節)もいる。そういうたとえ話を語られた最後に、主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)と言われました。この8節の言葉は明らかに、今日の18節「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」とつながっています。
 この一連の御言葉の中で、4月29日には特に触れませんでしたけれども、弟子たちが、「このたとえはどんな意味か」(9節)と尋ねたとき、主イエスが、「あなたがたには神の国の秘密を悟(さと)ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」(10節)とお答えになっている箇所があります。
 考えてみれば不思議な話です。“たとえ”っていうのは、物事を分かりやすくするために話すものでしょう。それなのに、どうして見ても見えず、聞いても理解できないようになるためなの?と言いたくなります。たぶん、これはイエスさまがそうしていると言うよりも、イエスさまが神の言葉を語ると、結果的にそうなっている、ということだと思います。
 御言葉が語られても、無関心だったり、常識に囚(とら)われていたりして、聞かない人、聞いても捨てる人がいる。御言葉を受け入れて信じるが、試練のために続かない人がいる。御言葉を聞くが、この世の価値観や楽しみに邪魔されて、御言葉が心の中で成熟して実を結ばない人がいる。だから、確かに、「見ても見えず、聞いても理解できない」という結果になっているということでしょう。
 そういう意味では、御言葉とはまさに「神の国の秘密」です。人の目に隠されています。人の心に隠されています。一部の人しか悟ることができない。そして、それを悟っている者がキリストの弟子、クリスチャンなのです。
 けれども、神の国の秘密が、隠され、秘められた御言葉による救いの恵みがあらわになり、公になる時が来る、と主イエスは言われるのです。その“時”というのは、神の国の完成の時です。世の終わりの時と言われる時です。そして、その時を目指して、クリスチャンは“世のともし火”であれ、と主イエスは、弟子たちに、私たちに使命を託しておられるのです。
 その時が来るまで、あなたが、御言葉という光を燭台の上に置いて輝かせなさい。あなたが、御言葉による救いの恵みを公にして生活しなさい。あなたが、神の国の秘密を言葉で、行動で、態度で証ししなさい。主イエスはそのように語りかけておられるのです。


 そこで、「ともし火」としての使命を果たすために、「どう聞くべきかに注意しなさい」(18節)という話になるわけです。前後の関連で言えば、忍耐して実を結べるように聞きなさい、ということです。御言葉を聞かず、捨て去ってしまうようでは「ともし火」になることはできない。御言葉を聞いても、続かなければ「ともし火」になることはできない。御言葉を聞いても、思い煩(わずら)いや富、快楽に覆いふさがれたら「ともし火」の役目を果たすことができない。忍耐して御言葉の実を結んでこそ、御言葉による救いの恵みを公にし、伝える「ともし火」となることができる。
 ここで主イエスは一つ、注意をなさいます。
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(18節)。
 ドキっとしました。自分は持っているつもりでいる。信仰を持っている。御言葉による救いの恵みを持っている。神の国の秘密を持っている。そういうつもりでいる。
 御言葉による救いの恵みを確かに持っているなら、その恵みは御言葉を聞くことで、さらに与えられ、増えていく。実を結んでいく。けれども、御言葉による救いの恵みを持っていなかったら、悟っていなかったら、聞いても聞いても与えられない。いつしか喜びを失い、感謝を失い、謙遜を失い、愛を失い、不平や愚痴ばかりになって、ついには信仰まで取り上げられるようなことになってしまいます。
 さて、自分はどうなのか? 今日は、イエスさまからそのことを問われた気がします。だから、信仰を持っている“つもり”になってはならない。神の国の秘密を持っている“つもり”になってはならない。御言葉の恵みと信仰は、18節にもあるように、“自分が持つ”ものではなく、与えられるもの、“神さまが与えてくださるもの”です。だからこそ、自分の思いに心を支配されないように、神の言葉に聞き続けることが必要です。
 健康チェックというのがありますが、簡単な信仰のチェック、信仰の健康状態をチェックするポイント項目があると思います。信仰に喜びがありますか?、信仰に感謝がありますか?、慰めがありますか?、励ましがありますか?、希望がありますか?、平安がありますか?、謙遜がありますか?、信仰に愛がありますか?‥‥‥ご自分の中に、これらが一つもないとすれば、信仰が不健康な状態、要注意かも知れません。
 けれども、御言葉に立ち帰り続ければ、そこに“信仰の復活”があります。先日のディボーションで、8章1〜15節を分かち合った際、ある方がお語りになりました。自分は今まで、御言葉を奪い去られることも、根がなくて枯れるようなことも、茨に覆いふさがれるようなことも経験してきた。けれども、そのような信仰、否、不信仰の経験を通して、神さまは私の心を耕し、「良い土地」、「立派な善い心」(15節)に育ててくださったのではないか、と。それを聞いて、本当にそうだなあ、と感動し、慰(なぐさ)められました。
 私たちの信仰は、くすぶることもあります。疑う時も、迷う時もあります。でも、忍耐して御言葉を聞き続ける。神の言葉に立ち帰り続ければ、マイナスのような経験を通しても、神さまが私たちの心を耕し続けてくださっている恵みが見えます。悟ります。


 「どう聞くべきかに注意しなさい」。そこで、もう一つ前後の関連で思うのは、イエスさまが喜ばれる御言葉の聞き方というのは、「神の言葉を聞いて行う」(21節)ということだと思います。主イエスの母と兄弟が訪ねて来て、その知らせがあったとき、主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(21節)と言われました。
 御言葉を自分の生活の中で、自分なりの仕方で行う。ただ、いつも目に見える行動が伴っていなければならないということではないと思います。御言葉が知識や教養としてではなく、命の営みに生かされることが聞いて行うということです。簡単に言えば、御言葉を聞いて、喜びがあるということ、感謝があるということ、慰め、励ましがあるということ、平安が、希望が、自分の魂にあるということです。それはきっと自分の生活ににじんで現れます。表情に、態度に、言葉に現れます。
 先日5月6日に発行された関東教区通信127号の巻頭言を、勝田教会の新しい主任牧師となられた鈴木光先生が書いておられました。勝田教会は、3年前に研修会にお迎えした二宮めぐみ先生の教会です。鈴木先生が、2005年に副牧師として赴任(ふにん)したとき、教会はすでに、神さまからビジョン(夢)を示されて、2003年から大幅な改革に取り組んでいました。ゴスペル、小グループ、弟子訓練、伝道のためにできることは何でも大胆にやろう、という心意気、チャレンジする熱気に教会が満ち溢れていたといいます。
 しかし当初、鈴木先生は、ビジョンという言葉に警戒心を感じ、二宮先生ご夫妻を、無謀な挑戦を大いにする方々だなあ、と思っていたそうです。けれども、ビジョンとは、主がなさるのでなければ到底なされるものではない、ということに気づかされ、二宮先生夫妻が、常に、主が実現してくださるビジョンを信仰の目で、それに従っている生きている。そのように生きる者を、主の栄光を見ることができる幸いな者と書いておられます。
 二宮先生は、そのような栄光のビジョンを、御言葉によっていつも示されている。御言葉に聞いて生きている、と改めて感じさせられました。
 私も、御言葉に聞いて生きる者となりたい。私たちの教会が、この坂戸の地で、御言葉の救いの恵みを公にして、伝える群れになりたい。御言葉から示される夢を、いつも掲(かか)げて歩む交わりとなりたい。強く願っています。


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