坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年6月24日  大人と子どもの礼拝 「隠れたことを見ておられる神」

聖書  マタイによる福音書6章1〜6節
説教者 山岡創牧師

6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
    
「隠れたことを見ておられる神」
 だれかに見てもらいたい、知ってもらいたい。そして、ほめられたい。そう思うことがありませんか? 自分のことを思い浮かべてみてください。
 例えば、良い成績を取ると、だれかに見て、知ってほしくなります。そして、“○○さん、頭いいねー”とほめられたいと思います。スポーツでも、学校で一番走るのが速いと、そのことを周りの人に知ってほしい、そして“○○くん、すごく速いんだね―”とほめてほしくなります。試合で活躍したら、それを知ってほしい。そして、“○○くん、うまいんだねー”とほめられたくなります。学歴の高い学校に入学したり、有名な会社に就職すると、だれかに知ってほしくなります。そして、“○○さん、すごいねー”とほめられたい気持になります。何か貴重な、高級な物を持っていると、やっぱりそれを人に見て、知らせたくなります。そして、“すごいねー。私もほしいなあ”とうらやましがらせたくなります。他にも色々ありますね。
 では、それをどうやって人に見せ、知らせようか? 自分で言う人もいます。でも、自分で言うと自慢になるから、だれかがみんなに言ってくれないかなあ‥‥‥。そんなことを期待する時がありますね。
 でも、だれかに言ってもらうにせよ、それを人に知らせたい、ほめられたいと思うのは“自慢の心”です。そして、そういう自慢の心を、神さまは喜ばないのです。


 イエスさまの時代にも、“見せたがり”の人がいました。例えば、「施(ほどこ)し」(2節)という行いがあります。貧しい人に食べ物をあげたり、お金を寄付したりすることです。その施しを、人前(ひとまえ)でする人がいました。わざわざ会堂や街角(まちかど)など、人がたくさん集まるところでする人がいました。周りの人に見せるためです。そして、“あの人は良い人だね、情け深いね”とほめてもらうためです。
 でも、イエスさまは、そういう人のことを「偽善者(ぎぜんしゃ)」(2節)と呼びました。周りの人に見せるために善い行いをしているからです。そして、人に見せて、人から褒(ほ)められる人は、神さまからはほめられないよ、と教えられました。
 また、祈りという行いがあります。祈りは、みんなも知っていますね。そのお祈りを、わざわざ人前でする人がいました。会堂や大通りの交差点といった、人がたくさん集まる場所でお祈りをするのです。大声を張り上げて祈る人もいたかも知れません。
 みんなは、“交差点で祈るなんって、恥ずかしくて、とてもできない”と思うかも知れません。でも、イエスさまの時代は、だれでも神さまに祈りました。祈ることがおかしくない、当たり前の時代でした。それを、わざわざ人前でやる。人に見てもらって、“あの人の信仰はすばらしいね”とほめてもらうためです。
 でも、イエスさまは、そういう人のことを「偽善者」(2節)と呼びました。周りの人に見せるために善い行いをしているからです。そして、人に見せて、人から褒められる人は、神さまからはほめられないよ、と教えられました。


 イエスさまは、何か善いことをする時は、人に見られないように、こっそり隠れて行いなさい、と言われました。自慢の心を捨てなさい、ということです。自慢の心って、何て言うか、純粋じゃない、汚い(さもしい)感じがします。周りの人を嫌な気持にさせることがあります。だから、神さまは喜びません。神さまに喜ばれるように、隠れてしなさい、とイエスさまは言われます。
 それでも、だれかに見せたいなあ、知らせたいなあ、ほめられたいなあ、認められたいなあ、と私たちは思いますね。
 イエスさまは、私たちのそういう気持をよく知っています。だから、100%だれにも見せてはいけない、とは言いません。一人だけ、この人には見せていいよ、という人がいます。それはだれでしょう?
 それは、神さまです。天の父なる神さまです。“神さまにだけは見せてもいいよ”とイエスさまは言われます。神さまに見てもらって、神さまにほめてもらいなさい、とイエスさまは言われます。では、神さまに見てもらうためにはどうしたらいいか。そのために、人に見られないように、隠れてするのです。神さまは、人がたくさん見ていることは見ていません。人が見ていない、隠れた場所で行われたことを見ています。だれも知らなくても、だれもほめてくれなくても、神さまはちゃんと見てくれています。人にほめられなくても、神さまに喜ばれるように生きる。それが、神さまを信じるということですね。


 幼い子どもは、自分がしていることをお母さんやお父さんに見ていてほしい、と強く願っています。そして、お母さんやお父さんから、“がんばったね”“すごいね”とほめられて嬉しくなり、自信を持ち、成長していきます。
 私たちがする行いは、100%人に見られず、隠れて行うのは難しい、無理ですね。私は、家族やとても親しい人になら、知ってもらい、ほめられても良いと思います。ほめられて、認められて、私たちは自信を持ち、成長していきます。
 そして、私たちのことをいつも見ておられる一番の方は、天の父なる神さまです。お母さんやお父さんが幼い我が子を見るような暖かいまなざしで、私たちのことを見守ってくださっています。その神さまから愛されて、認められていることを信じるとき、私たちの心は穏やかになります。自分に自信が持てます。そして、いつか人目を気にしないで生きられるように成長していきます。

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