坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年7月12日 主日礼拝説教

聖書  ルカによる福音書8章40〜48節
説教者 山岡 創
    
     「あなたの信仰があなたを救った」


  主イエスが帰って来ました。ガリラヤ湖の向こう岸、「ゲラサ人の地方」(8章26節)から帰って来ました。いつも教え、癒(いや)し、活動している場所へ、カファルナウムの町を中心としたガリラヤ地方に帰って来ました。大勢の人々が喜んで主イエスを迎えました。皆、待っていたのです。
 俗な話で申し訳ありませんが、私はふと、子どもの頃、テレビで見ていたウルトラマンを思い出しました。そのシリーズの中に、〈帰って来たウルトラマン〉というタイトルのものがありました。前のシリーズで、ウルトラマンは確かゼットンという怪獣にやられてしまうんです。けれども、地球を守るために、地球の人々を救うために、M78星雲から地球に帰って来る。人々は、そのヒーローを心待ちにしていました。
 イエスさまも、当時のガリラヤの人々にとって、ある意味でヒーローだったのだと思います。皆、主イエスを待っている。主イエスの救いの業(わざ)に期待している。帰って来た主イエスの周りに、群衆が押し寄せ、群がって来たのです。


 その大群衆の中に、一人の女性が紛れていました。「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」(43節)でした。何か女性に特有の病気であったのだろうと思われます。その病気を12年間抱(かか)え、患(わずら)って来た。悩んで来た。短い年月ではありません。
治りたい一心で多くの医者を訪ね歩いたことでしょう。治療に全財産をつぎ込んだ。けれども、だれにも治してもらえなかった。財産も使い果たしてしまった。絶望的な気持に、極端なことを言えば、“もう死ぬしかない”という気持になったとしても不思議ではありません。
しかも、彼女の苦しみはそれだけではありません。ユダヤ人は、律法という神の掟を奉じる民族です。その律法には、出血は汚(けが)れとして定められています。神さまは清いお方だから、信じる者も清くなければならないとして、ユダヤ人はあらゆる汚れを遠ざけました。だから、出血が止まるまで、その人は他の人と顔を合わせることが出来ないのです。汚れを伝染させないためです。もちろん神殿に行って礼拝することも、祈ることもできません。社会から隔離された状態に置かれます。それが12年も続いた。孤独の極みです。
そういう何重もの苦しみを抱えた女性が群衆の中に紛れていた。もちろん会堂長のヤイロのように名乗り出るわけにはいきません。本来なら、彼女はこんなところにいてはいけないのです。汚れた者として人々から離れていなければならない。もし見つかったら、皆、彼女からワッと遠のくでしょう。そして、遠巻きに、彼女を口々に責め、非難するでしょう。石の一つや二つ、飛んで来るかも知れません。だから、この女性は、だれにも分からないように、名乗りもせず、群衆に紛(まぎ)れて「後ろから」(44節)、主イエスの服の房に触れるのです。
全財産を使い果たし、病気は治らず、人と交わることすらできない孤独と絶望の中で、すべての望みを失った中で、“もしかしたら、この方なら治していただけるかもしれない”と、最後の望み、一縷(る)の希望を託して、後ろからそっと主イエスの服に触(ふ)れたのです。       
すると「ただちに出血が止まった」(44節)のです。彼女は病気が癒されたことを体に感じました。あとは見つからないように立ち去るだけです。彼女はそのまま群衆に紛れて、こっそり立ち去ろうとしました。


 「わたしに触れたのはだれか」(45節)。しかし、主イエスのその一言に、彼女はハッとして立ち止まらせられました。主イエスが、ご自分から癒しの力が出ていたことを感じて、こう言われたからです。
 周りにいた人々は、「自分ではない」(45節)と口々に答えました。と言うか、周りに群衆が押し寄せて、主イエスは揉みくちゃにされていたと思われます。有名な大スターの周りにファンが押し寄せて、一瞬でも手を出して、その体に触れようとしているのと同じような状況だったでしょう。触(さわ)るも触らないもないのです。揉みくちゃなのです。だから、弟子のペトロは、「群衆があなたを取り巻いて押し合っているのです」(45節)と、“だれが触れたかなんて、分かりっこありませんよ”と言ったのです。
 けれども、彼女自身には覚えがありました。主イエスが自分を探していることも分かりました。どうしようか。彼女は迷ったに違いありません。「女は隠しきれないと知って」(47節)とありますが、そのまま黙って立ち去れば、隠しきれたと思われます。主イエスも、もしこの女性だと分かったとしても、“待て、そこの女”と呼び止めてまで、触れた彼女を明らかにしようとはしなかったでしょう。
 だから、あとは、「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの言葉に応えるかどうか、彼女自身の心の問題です。明かさぬまま、こっそりと立ち去るか、それとも正直に申し出るか。そこで彼女は後者を選びました。「震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話し」(47節)ました。主イエスにとがめられることを覚悟して、人々から汚れた状態で出て来たことを非難されるのを覚悟して、それでも主イエスの言葉、主イエスの求めに応えなければならない。そうしなければ、自分の心が納まらないと誠実に思ったのでしょう。
 ところが、意に反して主イエスから返って来たのは、あたたかいいたわりの言葉、励ましのエールでした。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)。


 私は、今日の聖書の御言葉、特に最後の主イエスのひと言から、考えさせられ、示されたことが2つあります。一つは、どうして主イエスはこの女性をそのまま帰さずに探したのだろうか?ということです。そしてもう一つは、「信仰」って何だろう?、改めて信仰とは何かと考えさせられたことです。
 主イエスはなぜ、ご自分に触れた者を探されたのでしょうか?それは、言うまでもなく、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と彼女に告げるためです。注意すべきは、なぜ主イエスがそのひと言を彼女に告げたかったのか、という理由です。
 彼女にしてみれば、自分を癒したのは主イエスだと思っていたでしょう。そのとおりです。けれども、主イエスがご自分の意思で癒しをなさったわけではありません。彼女の信仰に反応して、癒しの力が、主イエスを通して、自動的に働いたところに、今日の癒しの物語の特徴があります。
 だから、どちらかと言えば、主イエスは言わば“脇役”のようなもので、主役は彼女自身、彼女の「信仰」なのです。彼女の信仰があったからこそ癒しの力が働いたのです。
 いや、ごめんなさい、彼女の「信仰」が主役だと言ったのは語弊(へい)があるかも知れません。主役は、そこで働いた神さまの癒しの力、神さまの救いのお働きです。あなたの信仰によって、父なる神があなたを救われた。その“救いの事実”を彼女の心に刻むために、主イエスは彼女を探し、呼び止めて、この言葉を告げられたのです。
 どういうことか。私たちは、2千年後に聖書を読みながら、この救いの物語に触れています。そこで、皆さんはたぶん、この女性を癒し救ったのは、主イエスだと言っても、父なる神だと言っても同じでしょう、と考えています。そう考えるのは間違いではありません。私たちは、父なる神と主イエス・キリスト聖霊は、三つで一つの神さまだと信じていますから、間違いではないのです。
 けれども、彼女にとっては、目の前にいる主イエスは“人間”イエスです。預言者とか救世主とは思われていても、まだ神だとは信じられていない“人間”のイエスです。だから、彼女は自分の病気が癒されたのは、目の前の人間のお陰だと思って、目に見えない神の救いのお働きを認めなかったかも知れません。けれども、彼女は人の力ではなく、神の御業(みわざ)によって救われたのです。この恵みを彼女に自覚させ、神さまに思いを向けさせるために、主イエスは彼女を探し、呼び止め、あの言葉を告げたのです。
 私たちも、人の力によって救われ、人との交わりに癒されていると思うところがあるでしょう。それは必ずしも間違いというわけではありません。また、最初はそのように考えてもかまいません。けれども、教会の交わりにおいて、目の前の人の言葉や行いや愛を通して、目に見えない神さまが働いておられることを信じるのでなければ、私たちの交わりは、人と結びつき、人を頼りにし、あてにした交わりになります。神と結びつき、神を信頼し、おゆだねする生き方にはなりません。それは、目の前の人によって左右される交わりであって、神さまを土台とする教会の交わり、信仰の生き方ではなくなる、ということを心に留めたいと思うのです。


 もう一つ、改めて考えさせられたことは、信仰って何だろう?ということです。この女性の取った行動は、神の掟である律法に違反していたわけで、その点からすれば、当時のユダヤ人たちは、彼女の思いを「信仰」とは認めなかったでしょう。
 また、現代の私たちの視点で考えても、罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の犠牲・贖(あがな)いによって罪の赦(ゆる)しを信じ、復活の命を信じる信仰を告白するということから言えば、彼女の思いを「信仰」ということは難しいでしょう。
 けれども、主イエスは、事もなげに「あなたの信仰」とお認めになるのです。そこには、小難しい律法も、教理的な正しさもありません。
そのとき、彼女の心にあったものは、人の力に行き詰まり、絶望し、もはや頼ることができず、ただ神さまにすがるしかないという必死の思い、一途(いちず)な求めだけだったでしょう。けれども、その思いこそが「信仰」だと主イエスは言ってくださるのです。信仰の生命は、律法を守るだとか、正しい教理的知識があるとか、そんなところにはありません。本気で、必死に、一途に神を求める心こそ、信仰の生命です。
皆さんの中には、自分の信仰はだめだと思っていらっしゃる方がいないでしょうか。その理由を、自分はまだまだ聖書のこと、教会のことをほとんど知らないから、だめだと思っておられないでしょうか。どっこい、そんなことないのです。あの女性の思いを、イエスさまは「あなたの信仰」と認め、「安心して行きなさい」と送り出してくださったのです。聖書のことをよく知らなくても、教会のことをよく知らなくても、“神さま、信じます。私をお救いください”との思いがあれば、それは信仰です。主イエスが認める「信仰」なのです。何も卑下(ひげ)する必要はありません。
信じて間もない方が、初めてお祈りをする時があります。まだ聖書のことも信仰のことも、あまり分かっていないかも知れない。何と祈って良いのかも分からないかも知れない。言葉に詰まり、たどたどしい言葉で、短いお祈りなさる。でも、私はそういう祈りに触れるたびに、涙が出るほど感動するのです。“ここに、神さまに向かう一途な心”があると思うからです。そして同時に、言葉は流暢(りゅうちょう)で、洗練されているけれども、果たして自分の祈りには、神さまに一途に向かう心があるだろうか、と省(かえり)みさせられるのです。
神さまに向かう心、神さまに求める思い、それは「あなたの信仰」です。何も恐れることはありません。安心して信仰生活、教会生活を営んでください。