坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年7月8日 主日礼拝説教

聖書  ルカによる福音書8章49〜56節
説教者 山岡 創
    
     「ただ信じなさい」


 「ヤイロ」という人がいました。ヤイロは、安息日(あんそくび)の土曜日にユダヤ人が集まって集会をする会堂を管理する「会堂長」(41節)でした。そして、彼には「十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていた」(42節)と書かれています。
 娘を助ける方法はないか、娘を癒(いや)してくれる医者はいないか、彼は方々を探し回ったに違いありません。けれども、何もない、だれもいない。あとはもうイエスさまにおすがりするしかない。だから、主イエスガリラヤ湖の向こう岸から戻って来るのを待つ気持には、切なるものがあったでしょう。
 その、待ちに待った主イエスが帰って来た。ヤイロは「イエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるように願」(41節)いました。主イエスは承知してくださいました。
 行く途中で事件が起こりました。主イエスの体から突然、“癒しの力”が出て行きました。主イエスは、「わたしに触れたのはだれか」(45節)と、触れた者を探し始めました。
 ヤイロは気が気ではなかったでしょう。“そんなことは後にしてください”と叫びたかったに違いありません。
 主イエスに触れた女性が人ごみの中から出て来て告白しました。主イエスは、その女性に励ましの言葉をおかけになりました。
ところが、そうしている間に、ヤイロの娘は死んでしまったのです。ヤイロの家から使いの人が来て言いました。
「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩(わずら)わすことはありません」(49節)。
 その知らせを聞いたとき、ヤイロはがっくりしたに違いありません。治るかも知れないと、一縷(いちる)の希望が湧きかけた時だけに、かえって落胆と悲しみは大きかったかも知れません。
 それと同時に、ヤイロは、主イエスを恨み、主イエスに怒りをぶつけたいような気持になったのではないかと想像します。イエスさまが途中で道草なんか食うからだ。あんな女に関わらなければ間に合ったかも知れないのに。娘が死んだのはイエスさまのせいだ!娘が死んだのは病気が原因であって、決して主イエスのせいではないのに、まるで主イエスが悪いかのように、怒りと恨みをぶつけたい気持になったのではないでしょうか。そんな気持でいるときに、
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(50節)。
と言われても、その言葉を素直に聴くことなどできない。娘はもう死んでしまったではないか。あなたのせいでしょう。いったい何を信じろというのか!そんな気持で、何も答えようとはしなかったのかも知れません。


 家族を亡くすのは、大きな悲しみに違いありません。特に、子どもを亡くした親の悲しみには辛いものがあると思います。私も、そのような方と幾人か向かい合いましたが、どんな原因や理由であれ、子どもを失うと“どうしてこんなことが起こるのか”という不条理感を免れることができません。納得ができないのです。そして、納得できないために、悲しみと共に、人生に対する不満や怒り、恨みが湧き上がって来ます。けれども、だれが悪いわけでもないので、怒りや恨みをぶつける対象がありません。それでも、悲しむ人にとっては、怒りと恨みのはけ口が必要なのです。だから、その人にとって、身近なだれかに、怒りと恨みがぶつけられることになります。ぶつけられた人は辛いのですが、それは、大切な人を亡くした人の悲しみが癒されるために必要な過程なのです。
 主イエスが「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけられた時、ヤイロは答えませんでした。別に不自然なことではないかも知れません。
 けれども、別の箇所では、悪霊にとりつかれた息子を癒してもらった父親が、主イエスから、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(マルコ9章23節)と言われて、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(同24節)と叫び、すぐさま答えている話もあります。だから、主イエスの言葉にヤイロが答えなかったのは、自然な成り行きではないかも知れません。主イエスに対して怒りと恨みを感じている。でも、それを吐き出し、主イエスにぶつけるのは、さすがに憚(はばかわ)られるわけです。だから、主イエスの言葉に応(こた)えず、無視をするという形で、ヤイロは、主イエスに対する不満と怒りを表しているのではないか。そんな気がします。
 けれども、そういう怒りと恨みを受け止めて、その元になっている大きな悲しみを受け止めて、主イエスはヤイロの家に向かいます。ヤイロと共に歩まれるのです。


 主イエスがヤイロの家に着いたとき、「人々は皆、娘のために泣き悲しんで」(52節)いました。それらの人々に、主イエスは言われます。
「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」(52節)。
それを聞いて、人々は主イエスを嘲笑(あざわら)った、と言います。当然ではないでしょうか。目の前のヤイロの娘は、確かに亡くなっているのです。「眠っているのだ」と言われても、信じられるわけがありません。
 そのような人々を後に残して、主イエスは、3人の弟子とヤイロ夫妻だけを連れて部屋に入り、「娘よ、起きなさい」(54節)と呼びかけて、娘を生き返らせたのです。その光景を目の当たりにしたヤイロ夫妻は、「非常に驚いた」(56節)と書かれています。
 と言うことは、ヤイロは、イエスさまが娘を生き返らせることができるとは、全く信じていなかった、ということになります。それは無理もないことですが、にもかかわらず、主イエスは、娘を生き返らせるという救いをヤイロに与えてくださいました。
 私は、ここで改めて、“信仰って何だろう?”と思います。直前の43節以下で、12年間出血の病を患った女性が癒されたとき、主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)と、主イエスに対して藁(わら)をもつかむような思いを信仰と認め、励まして送り出してくださいました。
 では、ヤイロの場合はどうだったでしょう?途中までは、主イエスにおすがりすれば‥‥という藁をもつかむような思いを持っていたでしょう。けれども、娘が亡くなった時、主イエスに期待する気持は失われました。それどころか、主イエスに対して怒りと恨みさえ抱いていたかも知れないのです。
 そこに信仰なんて、ありませんでした。それでも、主イエスはヤイロを救ってくださいました。その恵みにヤイロは驚いたのです。
 “信仰を持とう”とか、“信仰を養おう”とか、“信仰を深めよう”とか、“信仰を強めよう”とか私たちは言います。“信仰”を意識します。それはそうなのですが、確かに大切なことなのですが、たぶん私たちの信仰など、何か苦難や悲しみに出くわせば、一発で吹き飛んでしまうような程度のものではないでしょうか。あって、ないような信仰なのです。“私は信仰を持っている”と胸を張って言えないようなものなのです。
 にもかかわらず、神さまは、私たちのあってないような信仰に関係なく、恵みと救いの御業(みわざ)を現わしてくださるのです。それが“信仰の世界”だということです。信仰なんてあるとは言えない。けれども、私たちが常識的に、現実的に考えている以上の救いの出来事を味わって、神の恵みに気づいて、驚き、感謝し、“神さま、信じます”という気持に改めてさせられる。それが、“信仰”だということです。信仰の世界とは、“これが信仰、これしかない”と狭いものではなく、幅が広いなあと、つくづく感動させられます。その幅とは言い換えれば、不合理で、非論理で、自己中心的な私たちを包む、神さまの“愛の幅(はば)”だと言うことができるでしょう。


「恐れることはない。ただ信じなさい」。現代のクリスチャンである私たちが、今日の物語から、神が人を生き返らせる力を信じたからと言って、失った愛する家族が生き返り、戻って来るわけではありません。けれども、神さまが人を生き返らせる力を持っている、人に命を与える力を持っていることは信じたいと思います。
でも、その力を表すか表わさないかを決めるのは神さまです。神の御(み)心です。けれども、私たちは、神さまの力を信じられない。神さまの御心を信じられない。自分中心に、怒りや不満や恨みを神さまにぶつけるかも知れない。それでも、そんな私たちの心を抱きかかえて、恵みの業を推し進めてくださる。救いに気づかせてくださるのが、私たちの信じる主イエス・キリストとその父である神さまです。
「恐れることはない。ただ信じなさい」。恐れず、ただ信じる。何が救いなのか、まだ分からない。でも、ただ信じる。御(み)言葉に言われたように信じる。それは、苦しみ悲しみの中を生きる私たちに必要な生き方でありましょう。
『こころの友』6月号に掲載されていた、小林良裕さんという方の記事を読みました。大学を卒業した後、英語の教師として働いた。2年後、アメリカに1年間滞在したことがきっかけとなって献身を決意し、神学校で学んで牧師となった。卒業後、北海道で英語教師と牧師の働きを続けていたとき、フィリピンの飢餓救済のための活動に関わることになった。現地にも足を運び、いちばん役に立つのは医療だと感じ、医学部に入学し、43歳で医者になった。英語教師と医者と牧師、すごい方だなあ、と思います。
けれども、医者となって小林さんが携(たずさ)わることになったのは、フィリピンの飢餓救済活動ではなく、ホスピス病棟でのターミナル・ケアでした。年間200人もの死に接する小林さんは、その辛さ悲しみの中で、こう語っておられます。
だからこそ、医療者自身も癒されなくてはいけないのです。私にとって、それはやはり教会です。礼拝の中で、神さまの御言葉によってもう一度立たされて、そしてまた病院のホスピスの現場に行きなさい、と遣(つか)わされる。そうやって支えてくださる方がいることは本当に何にも代え難い恵みだと思っています。
 苦しみ悲しみの中で、御言葉によって神の支えを感じる。それが何よりの、ただ信じる者に与えられる救いの恵みなのだと思います。

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