坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年10月21日 礼拝説教「鋤に手をかけたなら」

説教者 ルカによる福音書9章57〜62節
説教者 山岡創牧師

◆弟子の覚悟
9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。


         「鋤に手をかけたなら」
今日読んだ聖書箇所に「従う」という言葉が3回出て来ました。57節、59節、61節です。そのことから言えば、今日の箇所には、イエスに従うということはどういうことか、ということが書かれています。
 また、今日の聖書箇所の見出しには、〈弟子の覚悟〉とありました。だから、イエスに従うということは、イエスの弟子になることだと言うこともできるでしょう。
 “弟子”と言うと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか? 私は真っ先に、“職人の世界”を思い浮かべました。大工であったり、伝統工芸であったり、何かを作る職人の世界では、それを始めようと思ったら、まずその道の棟梁(とうりょう)や師匠に弟子入りすることが多いと思います。そこで棟梁や師匠に、その道の技術と心を厳しくたたき込まれる。習い覚える。そうやって段々と成長し、一人前になって行く。そして、独り立ちしても、棟梁、師匠を仰ぎながら、その教えを心に刻(きざ)んで、その道を歩き続けていくのだと思います。そう言えば、茶道(さどう)や華道(かどう)でも、お弟子さんと言いますね。料理の世界で、どこかの店で修業することも“弟子”だと言って良いでしょう。
 ところで、私たちも“弟子”です。イエスの弟子です。今、この礼拝に出席しておられる皆さんのほとんどが、洗礼を受けている方々です。神さまと人の前で誓いを立てて、洗礼を受けた。
洗礼には様々な意味があります。イエス・キリストによって罪を清められ、赦(ゆる)されて、神に愛される神の子になる。復活の命と天国の約束をいただく。キリストの体である教会の一員になる。そのような恵みと意味の中の一つに、“イエス・キリストの弟子になる”ということがあります。洗礼をうけた者は、イエス・キリストの弟子になったのです。キリストに従う決心をし、誓いを立てたのです。弟子だから、イエス・キリストの教えを体得(たいとく)するために習い、学び続けます。だから、礼拝に出席します。キリストの体である教会を形造(かたちづく)るために、奉仕し、献(ささ)げます。御言葉に学び、黙想し、祈る時間を設けます。生活の中で御言葉を実践できるように努めます。このような信仰生活は、ある意味、弟子としての“修業”です。そのようにして、イエス・キリストの弟子として生きる恵みと幸いが分かって来るのです。
 今日の御言葉から、私たちも改めて、イエスの弟子になるということ、弟子として生きるということを自分に問い直してみましょう。


 当時、イエスさまの評判が上がれば上がるほど、弟子になりたいと願う人も増えていったことでしょう。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも参ります」(57節)。そう言って、弟子に志願する人が少なからずいたでしょう。
 けれども、そう言う人に、イエスさまはこう言われます。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)。
 イエスさまはご自分のことを「人の子」と言われますが、動物や鳥にさえ帰って眠る巣があるけれど、自分には帰って休む家もないのだ。私に従うとは、住まいもなく旅することだ。それでも、あなたは私に従って来るか、と覚悟を問われているのです。
 私たちここにいる者は、借家(しゃくや)にしろ持家にしろ、住む家がないという人はいないでしょう。ならば、私たちはイエスの弟子として覚悟が足りないのでしょうか。弟子失格なのでしょうか。そうではないと思うのです。
 私は、58節の御言葉から、ヘブライ人への手紙11章13節以下(415頁)の御言葉を思い起こしました。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷(こきょう)を探し求めていることを明らかに表しているのです。‥‥‥彼らは‥‥天の故郷を熱望していたのです」。
 これは、イスラエル民族のルーツであるアブラハム、イサク、ヤコブのことを言い表した御言葉ですが、神さまを信じて生きる者すべての本質を表しています。つまり、神を信じて生きる者は、地上では「仮住まいの者」だということです。自分の本当の家は天にある。天に故郷がある。だから、そこに帰るまでは、イエスの弟子である私たちも、この世では「仮住まいの者」なのです。イエスさまに従って、「枕する所もない」生き方をするということは、そのように受け取っても良いのではないでしょうか。
 では、この世で「仮住まいの者」として生きるとは、もう少し具体的に考えると、どういうことでしょうか? そこで、思い出したのがローマの信徒への手紙の御言葉です。
「あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)。
 この世での仮住まいとは、この世に倣わないことです。神に倣い、キリストに倣って生きること、天の基準で生きることです。それは、直前にある9章の内容からすれば、自分自身が「最も小さい者」となって、この世で小さいと見なされている人たちを愛して共に生きることです(48節)。自分を基準にして人を非難せず、裁かず、認めて、受け入れて生きることです(50節)。もっと簡単に言えば、だれかが人の悪口を言っても、自分も一緒になって言わない。自分が得をするためにズルをしない。相手の話を遮(さえぎ)らずによく聞く。見た目や能力でばかりで自分も人も評価せず、長所を見つける。そういった、身近な生活の中に、この世に倣わない弟子の道の第一歩があると思います。


 次の人は、イエスさまの方から「わたしに従いなさい」(59節)と招かれました。その人はイエスの招きを拒(こば)みませんでしたが、一つ注文を付けました。
「主よ、まず、父を葬(ほうむ)りに行かせてください」(59節)。
 父親が亡くなったのです。その葬りをするのは当然のことです。ユダヤ人の律法、その中心である十戒の中に「あなたの父母を敬え」とありますから、尚更のことです。
 ところが、イエスさまは言われました。
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)。
 この言葉はユダヤ人にとってはつまずきでした。十戒の中に“安息日を守れ”という戒(いまし)めがあり、その日は仕事をしたり、家事手伝いをしたりすることが禁じられていました。しかし、葬儀(そうぎ)の場合は、それらの禁止が全て免除されて、葬儀が優先されました。それほどに葬儀を大切にするユダヤ人には、この言葉はつまずきだったでしょう。否、私たちにとっても、この御言葉はそのままでは受け止めかねるものに違いありません。イエスさまは何を言おうとされたのでしょうか。
 ある説教集に、こんなことが書かれていました。今まであなたが知っている葬儀は死の悲しみと絶望に塗りつぶされた葬儀だった。けれども、あなたは神を信じて天を、つまり「神の国」を目指して生きる道を歩き始めた。それは、復活の命、神の国での永遠の命を信じて、希望と慰めに生きる道である。だから、死の悲しみと絶望に染められてしまうようなこの世の葬儀の中で、あなたは「神の国を言い広めなさい」。死は確かに悲しいことで、絶望的と言っても良いけれど、そこに「神の国」を、復活の命を信じる希望と慰めの道を、あなたが歩み、伝えなさい。そのように書かれていました。
 私は、それを読んで“なるほど、そのとおりだな”と思わされました。短絡的(たんらくてき)に葬儀を放棄(ほうき)するようなことではない。イエスの弟子になるということは、悲しみと絶望の中にも、神の国と復活を信じて、希望と慰めを自分の心に積み上げながら、人の心に伝えながら生きることなのです。


 第三の人は、従う前に家族に別れを告げることの許しを求めました。これももっともなことと思われます。ところが、イエスさまはこう言われました。
「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)。
 農作業を始めようと鋤をつかんだ後で、家のことが気になる。家族のことが気になる。それでは農作業に集中できません。そのように、イエスの弟子になると決意してから、別のことを気にしていたら、信仰が中途半端(はんぱ)になり、神の国を目指す生き方にふさわしくないと言われるのです。
 この62節から思い起こすのは、私の父のことです。父は、長野県の諏訪で、若い時に信仰を得ました。結核を患(わずら)った姉が教会に行くようになり、その姉に誘われたのがきっかけでした。やがて牧師として献身する志(こころざし)を与えられます。けれども、東京に出て、印刷業の仕事をしたりして、なかなか神学校に行く決心がつきませんでした。そのように過ごしていたある日、姉から言われたそうです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と。そう言われて、イエスの御言葉にハッと気づかされ、促されて、父はそれまでの仕事をやめ、神学校に入ったと聞いたことがあります。
 鋤に手をかける。もちろん、それは牧師だけのことではありません。牧師として献身することに限りません。私たち洗礼を受けた者は一人ひとり、信仰という「鋤」に手をかけたのです。
 リビング・バイブルという別訳の聖書を読むと、62節の御言葉は次のように訳されています。「ほんの片時でも、その人のために計画された仕事から目をそらす者は、神の国にふさわしくない」と。一人ひとり、その人のために神さまが計画してくださった仕事がある。とてもすばらしい訳文です。
 そこで私が思い出したのが、宗教改革者であるマルチン・ルターが言った職業召命感(しょくぎょうしょうめいかん)ということでした。牧師(聖職者)だけが神さまによってその働きに召されているのではなく、すべての人が自分の仕事に、神さまによって召されている。そういう信仰の意識を持って、神のために、人のために働きなさい、ということです。
 私は、ここで言われている仕事、職業というのは、いわゆる社会的な職業、お金を稼ぐ仕事に限らないと思います。家事であろうと、子育てであろうと、学業であろうと、人との付き合いであろうと、その人が置かれた人生の場所、していることが、「その人のために計画された仕事」なのだと思います。だから、自分はこの職場に、この家庭に、この学校に、“ここに”置かれた。神さまのご計画によって、この人生に召されたと信じて、自分の生活を引き受ける。自分の問題や悩みも引き受ける。目をそらさない。逃げない。投げ出さない。人のせいにしない。神さまが共にいて、私を支え、導いてくださると信じて生きる。それが、イエスさまに従う弟子の道だと思います。


 「わたしに従いなさい」。イエスさまは、私たちを弟子に招かれます。既に洗礼を受けている者も、繰り返し御言葉を通して招かれます。その声を心に受け止めて、“私はイエスさまの弟子だ”という感謝と誇りを持って、この道を歩いて行きましょう。

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