坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年11月18日 礼拝説教「幼子のような者に」

聖書 ルカによる福音書10章17〜24節
説教者 山岡創牧師

◆七十二人、帰って来る
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
◆喜びにあふれる
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


    「幼子のような者に」

 今日の聖書箇所を黙想していて、あることに気づきました。それは、“喜び”が2つ出てくる、ということです。一つは、72人の弟子たちの喜びです。17節に「七十二人は喜んで帰って来て」と書かれています。もう一つは、主イエスの喜びです。21節に「イエスは聖霊(せいれい)によって喜びにあふれて」とあるとおりです。そして、よく考えてみると、弟子たちの喜びと主イエスの喜びは、種類が違うのではないかと思いました。
 喜びの気持は、人生に必要な、とても大切なものです。私たちは、意識しないかも知れませんが、喜びのある生活をしたいと願っています。喜びがなければ、生活は苦しく、虚(むな)しいだけのものになってしまうでしょう。また、信仰にも喜びが必要です。喜びは信仰を生きるエネルギー源です。喜びがなければ、信仰も行き詰まってしまいます。
 そのように私たちの人生には喜びが必要ですが、どうやら喜びには2種類あるようなのです。


 72人の弟子たちは、10章の初めのところで、主イエスによって二人ずつ、町や村に遣(つか)わされました。病人を癒(いや)し、「神の国はあなたがたに近づいた」(9節)と宣べ伝えるためです。その72人が帰って来て、喜んで主イエスに報告しました。
「主よ、お名前を使うと、悪霊(あくれい)さえも私たちに屈服します」(17節)。
 当時、病気は悪霊が人に取りついて生じさせると考えられていました。そういった悪霊に打ち勝つ権威、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」(19節)を授けて、主イエスは72人を遣わしたのです。だから、72人は“悪霊よ、イエスの名によって命じる。この人から出ていけ”とやったのです。すると、その人から悪霊が出て行き、病気が癒されました。この現象は、弟子たちにとって嬉しい、喜ばしいことだったに違いありません。何だか自分に力が付いたようで、得意ですらあったかも知れません。それで、喜んで報告したのです。「お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」と。
 弟子たちのこの喜び、私も分かる気がします。つまり、宣教・伝道の働きがうまくいったのです。結果が出たのです。自分にとって都合良く事が運んだのです。どんなことであれ、それは喜ばしいに決まっています。
 私も、聖書の福音(ふくいん)を語り、伝道し、一人ひとりに関わって、そこから洗礼を受ける者が出れば嬉しい。礼拝(れいはい)に出席する人の数が増えれば喜ばしいのです。ところが、ここ1年ぐらい坂戸いずみ教会の礼拝出席は減っています。それを見ると不安を感じます。何とかしなければと焦りの気持も生まれるかも知れません。結果が出たか、願い通り、都合良く、うまくいっているか。そういう目に見える現実に心が左右されます。
 ところが主イエスは、悪霊が屈服することを喜んで報告する弟子たちに言われました。
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記(しる)されていることを喜びなさい」(20節)。
 自分のしていることがうまくいった。結果が出た。都合良く運んだ。それは人間の目から見れば喜ばしいことなのだけれど、神さまの目から見ると、ズレている。それとは違う喜びがあるのです。それは、自分の名前が天の名簿に書き記されている喜び、自分の名前が神さまに覚えられている喜びです。もっと端的に言えば、自分が神さまに愛されている喜びです。
 自分の名が天に書き記されている。それは、目に見える確かな現実ではありません。だから、分かりにくいのです。けれども、その喜びは、目に見える喜び、人生の表面的な喜びよりも、もっと必要なものです。私たちの魂を支える根源的な喜びです。その喜びと出会うとき、私たちは、人生うまく行っている、都合良く運んでいるといった喜びが得られなくて、不安なときでも、私たちの魂を支え、勇気を与える平安を得るのです。
 月刊誌『信徒の友』11月号には〈不安と向き合う〉という特集が組まれていました。その特集の一つに、〈学生たちとの対話から見えてくるもの〉という表題で、大学生の不安を取り上げている文書がありました。吉岡康子さんという、私も知り合いの青山学院女子短大の宗教主任の方が書いている文書ですが、ある日、リクルートスーツを着た女子学生が部屋に入ってきた。暗い顔をしているので、“どうしたの”と尋ねると、就職活動がまた不採用だった、私のどこが悪いのでしょうか、と言う。何社も続けて不採用という状態が続くと、自分の存在そのものが否定されているように思えて、心が折れてしまうのです。
 今の学生、若者は、多くの人がこういう経験をしています。不採用になる。それが何社も続く。自分がどこにも認められていないような不安を感じる。それは、言ってみれば、どの会社の採用者名簿にも自分の名前が書き記されていない、ということです。どの会社の社員名簿にも、自分の名前が載らない、ということです。
 けれども、自分の名前がどこの会社の名簿に載らなくとも、一つだけ、“私”を採用し、私のことを認め、私の名を大切に名簿に書き記してくれるところがあります。それは、目に見えない会社、魂の会社、株式会社でも有限会社でもない、“永遠会社・天国”です。そこには、どんな人も認められ、採用されます。神さまに愛されます。
 私はふと、マタイ福音書20章にある〈ぶどう園の労働者のたとえ〉を連想するのですが、永遠会社・天国には、朝一番にも、9時にも、12時にも、3時にも雇われず、不安の中に立ち尽くしていた人が5時になって採用されるのです。そして、5時から1時間しか働かなかった者にも、神さまの好意によって、朝から働いた人と同じ賃金が支払われます。変わらない愛が注がれます。
 自分の名前が天の名簿に書き記されている。神さまに認められ、愛されている。それを信じることによって、私たちは、人生逆風で、うまく行かず、結果が出ず、都合良く運ばない不安と落ち込みの中にあっても、“自分はだめじゃない”という魂の平安を得るのです。それが私たちに最も必要なもう一つの喜び、根源的な喜び、主イエスの喜びです。


 主イエスはこのように72人の弟子たちを諭(さと)した後で、聖霊によって喜びにあふれて言われました。主イエスの喜びとは、聖霊による喜び、すなわち信じる喜びです。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。これは御(み)心に適うことでした」
(21節)
 示された「これらのこと」とは何でしょう?それは、72人が「神の国はあなたがたに近づいた」と宣べ伝えて来た神の国の喜びです。そしてそれは、悪霊を追い出すことができたと喜び、得意になるような喜びではなく、自分の名が神の国に書き記されているという魂の喜びです。根源的な喜びです。そして、主イエスは、この喜びが知恵ある者や賢い者には隠されていて、幼子のような者に示された、と言うのです。
 どうして知恵ある者や賢い者は、この喜びを受け取ることができないのでしょうか。それは自分の知恵と賢さで、この喜びを受け取ろうとするからでしょう。つまり、“頭”で理解しようとするのです。しかし、頭で受け取ろうとすると、それは馬鹿らしい、愚かしいものに感じられて、信じることができなくなるのでしょう。
 コリントの信徒への手紙(一)1章18節以下にも、同じような内容が記されています。コリントで伝道したパウロは、この章で、コリント教会に神によって召された人々は、知恵や能力のある人、家柄の良い人ではなく、無学な者、無力な者、身分の卑しい、無に等しい者だったと言っています。そして、知恵のある人々は、主イエス・キリストが十字架にかかって自分の命を捨てるほどに、人を愛し、神の愛を示してくださったということを信じようとはしない、しかし、それを信じて救われる者には、主イエスの十字架の出来事は、私たちを生かす「神の力」(18節)だと言うのです。
 私たちは、あまりにもお人好しの人を見ると、“バカじゃないの”と言いたくなります。なんでそこまでするの?もっと自分の損得を考えるべきだ。そんな批判が頭に浮かぶのです。そのとき、私たちはその人を“愚か者”と見ています。私たちのその判断は賢く、正しいのかも知れません。しかし、そのとき私たち自身は、知恵のある者、賢い者になっているのです。愚かなほどにお人好し、それが人の心を温める時があります。命を捨てた愚かなまでの愛、それが人の魂を救うことがあるのです。だから、パウロは言うのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(1章25節)と。自分を捨てるほどに、命を捨てるほどに人を愛することが、人の魂を救うことを、人の心に平安を与えることを、神さまは知っておられるのです。
 無学な者、無力な者、無に等しい者が、愚かなまでの神の愛を信じて受け入れたとパウロは言います。“無”なのです。何も無い、持っていないのです。それが「幼子のような者」ということでしょう。知恵を持っていると思うと、何か誇るべきものを持っていると思うと、かえってそれが、神の愛を信じて受け入れることを邪魔します。
 幼子のようになる。何の知恵も力もない者と自分を自覚する。しかし、そういう者が、自分にも神の愛が注がれている、自分が認められ、肯定され、受け入れられている恵みをハートで感じるとき、喜びがあふれるのです。
 私たちは一人ひとり、何らかの悩みや悲しみ、問題を抱えています。そして、多少なりともそういう不安が、自分の知恵、自分の力だけでは解決できないことに気づいていることでしょう。だからこそ、私たちは教会に集まります。聖書の御言葉の下に、神の救いの下にやって来ます。信じて、胸の不安を神さまにゆだねようとします。
 自分の力で生きる「知恵ある者、賢い者」ではなく、無力な「幼子」として歩みましょう。そして、主イエスの喜び、魂の喜び、平安と出会いながら進みましょう。


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