坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年6月30日 礼拝説教  「神に付くか、人に付くか」

聖書 ルカによる福音書12章49〜53節
説教者 山岡創牧師

◆分裂をもたらす
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」  

             「神に付くか、人に付くか」
 今日の聖書の御(み)言葉を読んで、“どうしてイエスさまはこんなことを言うのか?”と疑問を感じた方もおられるかと思います。そのような疑問を感じさせた御言葉は、51節ではないでしょうか。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。
 この御言葉を読むと、確かに“あれ?”と思うのです。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5章9節)と語られた主イエスの教えには、平和を実現するための言葉があふれています。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈りなさい‥」(ルカ6章27節)、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章39節)、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。挙げていけば、まだまだ出るでしょう。そして、ご自身は、人を憎まず、争わず、ご自分を陥れ十字架に架ける人々の罪を背負って死なれました。十字架の上で、まさに敵、憎む者、悪口を言う者のために罪の赦しを祈って最期を遂げられたのです。そのように考えてみると、主イエスは地上に命懸けで平和をもたらすために来た、と言っても決して過言ではないでしょう。それなのに、どうして平和ではなく分裂をもたらすために来た、と言われるのでしょうか?


 主イエスは平和を大切になさり、愛と赦しと和解をお教えになりました。ご自分の命をささげて、神と人の間に平和を造り出してくださいました。けれども、その主イエスを信じるか、信じないか。それによって、結果として「分裂」が起こったのです。
 主イエスは、町や村を巡って、ご自分が父なる神さまから示された福音(ふくいん)を宣べ伝えました。病を癒(いや)しました。それを見聞きした人々は、その福音を信じる者と信じない者、イエスを神の子、救い主と信じる者と信じない者に分かれたでしょう。一つの家族の中でも、主イエスを信じる者と信じない者に分かれるケースが少なからずあったでしょう。また、漁師であったヤコブとヨハネは、主イエスから弟子となるように召されて、父を捨てて主イエスに従ったと記されていますし、主イエスご自身、活動している時は家族に理解されず、不仲であったと思われます。
 信じる者と信じない者、従う者と従わない者に分かれる。しかも、主イエスの福音が、ユダヤ教の指導者たちの律法主義の教えと違っており、彼らと対立するようになってからは、主イエスを信じるか信じないかは大きな問題になりました。
 この状況は、主イエスの死後、更に厳しいものになり、主イエスを救い主キリストと信じる者はユダヤ教の迫害を受けることになりました。更に、ユダヤ人を支配していたローマ帝国からも、ローマ皇帝を神として礼拝せずキリストを神として礼拝するクリスチャンたちは、激しい迫害を受けました。そのような中で最悪、家族が、クリスチャンである家族を売るようなケースもあったようです。主イエスに対する信仰をめぐって、「一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれる‥」(52節)ということが、様々な形で、現実に起こっていました。
 私たちは、現在の日本社会の中で、信教の自由を保障する憲法の下、国から迫害を受けることはありません。けれども、日本の宗教的な風土、慣習の下では、キリスト教信仰とその生き方が、家族や周りの人々に受け入れられない場合がしばしばあります。家族の中で、自分一人だけがクリスチャンという場合も少なからずあります。例えば、夫婦のどちらかがクリスチャンの場合、ノン・クリスチャンの連れ合いに反対されて、日曜日の礼拝になかなか出席できないことが多々あります。また、子どもが生まれれば、その子どもを教会に連れて行くかどうかで、また摩擦が生じたりします。そのような現実問題の中で、自分の信仰だけを押し通すことができるか。下手をすれば、離婚、勘当(かんどう)の原因にもなりかねません。
 確かに、何らかの「分裂」は免れないでしょう。けれども、その分裂を最小限にする努力が必要だと思います。自分が置かれた家族の中で、神さまが何を求めておられるか、御言葉に聴き、祈りながら考える。そして、家族と話し合い、理解してもらえるところは理解してもらい、譲るところは譲る。それは、私たちの信仰生活に必要な愛と忍耐だと思います。


 平和ではなく、分裂をもたらすために来た。主イエスはそう言われました。しかし、その分裂とは、ただ表面的に、家族の中での分裂という問題だけではありません。私は、主イエスが来られたことによって、一人ひとりの内側に分裂が起こる、自分自身の中に分裂が起こる。葛藤が起こる。そういう意味も含んでいると思うのです。なぜなら、主イエスが、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(49節)と言われているからです。
 主イエスの先駆者となった洗礼者ヨハネは、主イエスのことを人々に、次のように紹介しました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカ3章16〜17節)。
 主イエスがもたらす「火」とは、“裁きの火”です。その人の内にある罪を裁く火です。けれども、その火は、人の内側に問いかける火だと言うこともできます。そして、その問いかけにどう答えるかによっては、その人の内側を清める火にもなり得ます。
 主イエスは、神の国は近づいた、と宣べ伝え、その実質として人々の病を癒すと共に、徴税人や遊女、罪人(つみびと)と呼ばれ、神の国に入れないと見なされていた人々に寄り添いました。あなたも神に愛されている。神の国に入ることができる、と語りかけました。そうすることで、彼らのことを差別し、神の国は入れない、神に見放されていると軽んじていたユダヤ教の指導者たちや主流派のファリサイ派の人々の信仰に問いかけました。“それでいいのか”と。そして、その問いかけに彼らが反発して、主イエスを捕えて十字架刑にしたとき、神さまの御(み)心と信じて十字架にお架かりになった主イエスの姿に、今度は弟子たちが問われました。“それでいいのか”と。この問いかけを、弟子たちは受け止めることができませんでした。皆、主イエスを見捨てて、その場から逃げ去りました。ペトロは、問い詰められて、主イエスとは仲間ではない、知らないと3度否定しました。
 彼らは自分たちの取った行動で、自分自身を裁きました。でも、それは主イエスによって裁かれたことでもあったと思います。しかし、その弟子たちが、復活した主イエスによって赦(ゆる)され、立てられ、もう1度、福音を伝道することに遣(つか)わされました。彼らは試練を通して清められたのです。
 主イエスは私たちの信仰を問われます。私たちの生き方を問われます。それが、主イエスが、地上に「火」を投じるということだと受け止めています。


 今日の御言葉を読みながら、「火」と「分裂」というイメージから、1994年にルワンダの内戦で、1200人以上の人々を虐殺から救ったホテルマン、ポール・ルセサバギナ氏とのことを思い起こしました。
 昨日、子どもチャペルの子どもたちが、田中幸雄さんの菜園でジャガイモ掘りをしました。雨を心配していましたら、急に暑くなりまして、片付けを終えるころには非常に疲れを感じました。それで、1時間ほど昼寝をして、さあ仕事をしようと起きて来たら、リビングでテレビがついていました。〈世界で一番受けたい授業〉という番組の、宣伝アピールのような放送が流れています。その中で、ポールさんが招かれて、この番組でお話した際の放送が流れていました。後で調べましたら、4月27日に放送されたもののようでした。
 1990年頃からルワンダでは、フツ族とツチ族との間に内戦が起こりました。そして、1994年にフツ族の大統領が暗殺されたことをきっかけに、フツ族によるツチ族の大虐殺が始まりました。わずかな期間に100万人もの人々の命が奪われたと言います。ツチ族だけではなく、フツ族であってもツチ族の虐殺に参加しない者は“フツ族の裏切り者”として虐殺されたと言います。
 そのような状況の下で、ホテルのマネージャーであったポールさんは、フツ族の人もツチ族の人も合わせて、1200人以上の人々を連れてホテルに逃げ込みました。彼の妻はツチ族でした。
 そのホテルは、外国人宿泊者もたくさんおり、国連軍の兵士の保護もありました。ところが、その国連軍も外国人観光客を連れて去ってしまい、危険な状況になりました。そして、フツ族の兵士たちが乗り込んで来たとき、それを救ったのは、ポールさんが以前から懇意(こんい)にしていたフツ族の司令官だったということです。ポールさんは、以前からホテルでその司令官と酒を酌み交わしながら懇意にして来た関係を“信頼の貯金”という言葉で表しました。
 さて、この番組のゲストの一人が、“そんな危険な状況で、ホテルから逃げようとは思わなかったのですか?”と尋ねました。ポールさんは、こんなふうに答えました。
  私と私の家族だけなら、国連軍の保護の下に、逃げるチャンスは何度かありました。けれども、私は自分に“本当にそれでいいのか。お前は分かっているのだろう”と問いかけまた。ここでフツ族と交渉できるのは自分しかいない。1200人以上の人々の命を見捨てていくことは、一時の平安は得られても、その後ずっと後悔に追われる。一生の間、安らかに眠れなくなる。だから、私はたとえ死んでも、ここに残ることを決心したのです。
 私は、主イエスに問いかけられるということは、こういうことではないかと思うのです。ただ単に宗教の問題、信仰生活、教会生活の問題だけではなく、人間としてどう生きるか。人として、神の前にどう生きるかという問題だと思うのです。もちろん、ポール・ルセサバギナさんが体験したような、こんなに大きな「火」に私たちは燃やされ、問われることはないかも知れません。けれども、日常生活の1コマ1コマの中で、私たちは、“あなたは、私の前に、どう生きるか?”と主イエス・キリストから問われているのだと思うのです。その問いかけに応えて生きる。主イエス・キリストの御心と愛を思い、主に従って生きる。答えられなかったときは、祈り、悔い改めて生きる。その答えを、私たちは自分の人生において、主イエス・キリストに求められているのです。


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