坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年7月7日 礼拝説教「人生途中で仲直り」

聖書  ルカによる福音書12章54〜59節
聖書 山岡創牧師

◆時を見分ける
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
◆訴える人と仲直りする
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」


            
            「人生途中で仲直り」
 昨日から急に気温が上がり、蒸(む)し暑(あつ)くなりました。正直、気力体力、共に奪われるような感じでした。予報では今日も蒸し暑いと言われています。教会に連なる皆さんはだいじょうぶだろうか、体調を崩(くず)された方もいるのではないか、そんな心配をしました。梅雨もいよいよ明けるのでしょうか。
 私たちは、何気なく天気の心配をしながら生活しています。私も朝起きて、まず最初にすることは、(机に向かって聖書を読み、祈ることです‥‥と言えたら格好(かっこ)いいのですが)テレビをつけて、天気予報を見ることです。最近の天気予報は便利で、埼玉県の全体的な予報、さいたま市と熊谷市の予報だけではなく、自分が住んでいる町の予報も調べることができます。しかも、3時間ごとの予報が出る。私は、それで坂戸市の今日の天気を調べます。日中、雨の予報だと、テンション(やる気)が下がります。特に、洗濯(せんたく)をどうしようかと心配します。我が家はご存知のように、普段6人で生活していますので、1日でも洗濯できない日があると、次の日が大変です。子どものジャージや体育着などは、毎日使うので、どうしたって洗わなければなりませんが、そんなことで毎日、天気予報とにらめっこをしながら一喜一憂(いっきいちゆう)しています。


 そんな、極(きわ)めて日常的な天気の話を、主イエスは群衆に向かってなさいました。雲が西に出ると「にわか雨」(54節)、南風が吹くと「暑くなる」(55節)。これぐらいは、だれにでも分かるような、常識的(じょうしきてき)な予想だったでしょう。ベテランの漁師(りょううし)や農夫(のうふ)は、その日その日の微妙(びみょう)な天気を正しく判断しながら仕事をしていたと思われます。
 主イエスは何のために天気の話など始めたのでしょう。人と話をする時は、まず天気の話をすると、当(あ)たり障(さわ)りがなくて良い、と言います。主イエスもそういう意味で天気の話を始めたのでしょうか。そうではありません。空模様(そらもよう)は正しく見分けて判断することができるのに、「今の時」(56節)を正しく見分け判断することができない。その判断力の無さ、見分ける目の無さを、空模様の判断と比(くら)べて、指摘(してき)し、問いかけるためです。当たり障りがないどころか、めちゃめちゃ当たり障りのある話をしようとしているのです。その当たり障りの最たるものが「偽善者(ぎぜんしゃ)よ」(56節)という呼びかけでしょう。
 「偽善者」、嫌(いや)な言葉です。「偽善者よ」と言われて、カチンとせずに、素直(すなお)に受け止められる人など、まずいません。“何を!私のどこが偽善者だ!”と言い返したくなります。冷静(れいせい)に考えたら偽善者かも知れない。でも、言い返したくなります。そういう言葉です。
 偽善者とは何でしょうか。辞書的(じしょてき)には、本心からではなく、うわべをつくろって善(よ)い行いをする者のことです。けれども、主イエスがここで「偽善者」と言っている意味は少し違います。それは、57節にある「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断(はんだん)しないのか」という言葉と関係しています。つまり、何が正しいのか、人任(ひとまか)せで、自分で判断しようとしない者。それが、ここで言う「偽善者」です。何が正しいか、自分で主体的(しゅたいてき)に判断しない。人の判断に従って行動(こうどう)する。だから、自分の行動に責任(せきにん)を負(お)わない。責任から逃げる。他人や周(まわ)りのせいにする。そういう人のことです。
 では、主イエスの時代の群衆は、何が正しいかの判断を、だれに任(まか)せていたのでしょうか。それは、律法学者(りっぽうがくしゃ)や祭司長(さいしちょう)、長老(ちょうろう)など、宗教と社会の指導者たちに、だったと考えられます。彼らが、神の掟(おきて)である律法、神の御心を示す律法の指導をしました。それを厳格(げんかく)に守り、行うように指導しました。そうする者が神に選ばれ、神の国に入ることができる。そうでない者は神に見捨(みす)てられ、神の国からふるい落とされる。そう教えました。その判断によって、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、病や障(しょう)がいを抱(かか)えた人々など、社会の底辺に生きる人々が蔑(さげす)まれ、差別(さべつ)されました。しかし、そのような人間に対する価値判断(かちはんだん)を、だれも改めて考えてみようとはしませんでした。また、神殿では巡礼者(じゅんれいしゃ)が神さまに献(ささ)げるための動物が商売人によって売られていました。疵(きず)のないものを神さまに献げよ。その建前(たてまえ)の陰(かげ)で、商売人も神殿ももうけていました。しかし、その行為の善悪(ぜんあく)を、だれも判断しようとはしませんでした。いや、分かっていた群衆は少なくなかったかも知れません。けれども、彼らはその判断を口にしませんでした。行動に表しませんでした。言ってみれば、皆、分かっていたとしても“長いものに巻(ま)かれ”ていたのです。自分を守ることにいっぱいで、その判断の陰で傷(きず)ついている人、泣いている人に心が向かなかったのです。その結果、最後には指導者たちに従って、主イエスを十字架に架けることになりました。
 「偽善者よ」。私たちが今、主イエスからそう呼びかけられたらどうでしょう? 言い返せないかも知れません。主イエスの御言葉を、自分で主体的に判断し、従って行く。もちろん、それは自分勝手に判断することとは違うと思いますが、人から聞いたことであれ、人と話し合ったことであれ、最終的(さいしゅうてき)に責任を持つのは“自分”です。自分をかけて、神さまと向き合って、判断して生きていく。それが、主イエスから求められている私たちの信仰生活でありましょう。


 「今の時」を自分で見分け、何が正しいか判断せよ。それが、群衆に、そして私たちに、主イエスが求めておられることです。
 “じゃあ、いつやるのか? 今でしょう?!”。“今”という言葉を聞くとつい、この言葉を連想してしまいます。一世を風靡(ふうび)したと言ったらオーバーかも知れませんが、東進ハイスクールの講師、林修先生の言葉です。もう旬(しゅん)は過ぎたかな、という感じがしますが、企業のコマーシャルにも使われて、今年の流行語大賞を取るかも知れません。受験生にとっては、勉強をする時は後回(あとまわ)しではありません。今です。今こそ勉強すべき時だという信念(しんねん)が込められています。
 では、私たちクリスチャンにとって、「今の時」とはどんな時なのでしょうか? 自分が置かれた場所、人間関係、時代‥‥‥そういった要素(ようそ)を考え合わせると、一人ひとり、自分の判断と行動が生まれて来るでしょう。
 けれども、今日、主イエスが聖書を通して語られた言葉からすると、「今の時」とは“仲直(なかなお)りの時”だと言うことができます。
「あなたを訴(うった)える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」(58節)。
 まさにその通りです。そのままでは、自分は裁判官(さいばんかん)によって裁(さば)かれ、有罪の判決を下され、牢(ろう)に入れられるなり、処罰(しょばつ)されるかも知れません。まあ、仲直りすることができないから裁判に訴(うった)えて白黒つけることになるわけですが、そうなる前に、できることなら和解(わかい)をして示談(じだん)で済ませる方がベターな、平和的でありましょう。
 途中で仲直りをする。そのために大切なことは何でしょうか? 自分の非(ひ)を認(みと)めることです。自分の非を棚(たな)に上げて、相手の非ばかりを責(せ)めていたら、仲直りなどできません。自分の非を認めることで仲直りのきっかけが生まれるのではないでしょうか。
 裁判沙汰(さいばんざた)はともかくとして、私たちは一人ひとり、“仲直り”ということについて覚(おぼ)えがあると思います。どちらかと言えば、それができない方(ほう)に覚えがあるかと思います。ちょっとした食い違いや誤解(ごかい)で仲違(なかたがい)になる。つまらないことで意地を張(は)る。“相手が謝(あやま)るまで、口もきくものか!”そんなふうに思って、夫婦の間で何日も口をきかなかったなんてことが、1度や2度あるでしょう。親子関係が長い間、絶縁状態(ぜつえんじょうたい)になることもあるでしょう。親しかった友人と、ひびが入ったまま、元に戻れないこともあるでしょう。ともすれば、そのままで人生を終えることもままあります。
なぜ意地を張るのでしょう? それは自分の言い分があるからです。でも、一歩譲(ゆず)って、まず自分の非を認め、頭を下げてみる。悔(くや)しいかも知れません。しかし、相手も“いや私も悪かった”と素直に謝(あやま)って、仲直りすることができたら、爽(さわ)やかな気持になれる。こんなに幸せなことはないのです。それでも仲直りができないことだって、もちろんあります。でも、自分から非を認めて仲直りのきっかけを作ろうとしたことは無駄(むだ)ではありますまい。それを、祈ってやることです。神さまを見上げてやることです。きっとまだ、遅くはありません。“今”です。
人生途中でその人と仲直りする。何よりも神さま御自身が、私たち一人ひとりと仲直りを望んでおられるのです。本来ならば、私たち自身が自分の非を認めて悔い改めるべきところです。けれども、神さま御自身が下手(したて)に出て、我が独(ひと)り子イエスを、あなたの罪のために犠牲(ぎせい)にするから、これで仲直りをしようと手を差し伸(の)べてくださっているのです。独り子イエスを犠牲にする。それは、父なる神さまの勇気です。愛です。仲直りをするためには、愛と勇気が必要なのです。
私たちは皆、人生の途中を歩んでいます。そこで何よりもまず、神さまと仲直りをさせていただきましょう。絶えず悔い改めて、神さまの愛と勇気に感謝して、御言葉に聴(き)き従う生き方へと立ち帰りましょう。そして、神さまを見上げて祈り、人との仲直りを実現していきたいものです。まだ遅くはありません。今です。


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