坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年8月18日 礼拝説教「狭い戸口から入りなさい」

聖書  ルカによる福音書13章18〜30節
説教者 山岡創牧師

◆「からし種」と「パン種」のたとえ
13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。
13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
◆狭い戸口
13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


        「狭い戸口から入りなさい」
 夏の二つのキャンプが恵みのうちに終わりました。一つは、8つの教会によって行われた埼玉2区小学生合同キャンプ、もう一つは、一昨日終わった埼玉地区中学生KKS・青年キャンプです。私は、その二つともキャンプ・リーダーとして、教育委員長として全体の責任を負っていました。無事に終わって、ホッとしています。
 準備や責任を考えると、なかなか大変な務めです。けれども、大きな恵みの仕事でもあります。いちばんの恵みは、神さまによって子どもたちが成長していく姿、救われる姿を見守り続けることができる、間近で見ることができる、ということです。小学生キャンプは11回目、中学生KKSキャンプも7年関(かか)わってきました。何年も付き合っていると、自分の教会の子どもか、他の教会の子どもか、関係なくなって来ます。
 今回も、交わりの中で心を開いた子どもがいました。自分の心を勇気を出して語ってくれた子どもがいました。聞いて共感し、自分も話せば良かった、来年は話そうという子どもがいました。そういう言葉を聞き、そういう姿を見るのは、とても嬉しいことです。キリストが、聖霊が働いてくださっているとリアルに感じるときです。


 さて、小学生キャンプでは、旧約聖書・創世記の6章以下にあるノアの物語を扱いました。地上に増え広がった人間が悪いことばかりしているのを見て、神さまは人間をお造りになったことを後悔されます。そして、洪水によってすべての人間を、ほかの生き物もろともにぬぐい去る決心をなさいます。そのとき、救われるべき人間として神さまから選ばれたのがノアでした。ノアは神さまから命じられたとおり、洪水に耐えうる箱舟を造り始めます。キャンプではまず、この箱舟の大きさを体感してみようということで、ひもをつかって周囲の長さの分を測り、キャンプ場に広げてみました。縦135m、幅22.5mですから周囲315mになります。キャンプ場のすぐそばに川が流れています。315mのひもをみんなで持って、キャンプ場の広場から上流の川を渡り、川の向こう岸を進んで下流の橋を渡り、先頭が広場に戻って来ました。まだひもが緩んでいました。私自身、こんなに大きいのかと驚きました。
 ノアは造り上げた箱舟に家族と乗り込み、また、神さまに命じられたとおり一つがいの動物たちを乗せます。すべて選ばれたものが乗り込んで、洪水が起こったとき、印象深い一つの言葉が語られます。「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(創世記7章16節)と。これは、箱舟に入るための入口の戸でしょう。言わば、救いへの入口です。それが、閉ざされて、もう入れなくなったのです。
 私は、今日読んだ聖書の箇所にある「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」(26節)という言葉を読みながら、ノアの物語の先ほどの言葉を思い起こしていました。
 戸は開きっ放しではない。閉じられる時が来るのです。それは終末と呼ばれる時です。そうなってからでは入れない。神の国に、救いの中に入れなくなるのです。
 私は、この言葉にちょっと違和感を覚えます。私の信仰の感覚で言えば、救いの戸口はいつも開かれている。神さまは、私たち人間が悔い改めて、ご自分のもとに立ち帰って来るのを、いつでも待っておられるという思いがあるからです。
 では、戸が閉められるとはどういうことでしょうか。聖書の言葉というのは、合理的な言葉ではありません。矛盾していることがあります。反対のことを言うことがあります。それでいて、どちらも“その通り”とうなずかせる真理を含んでいます。
 戸が閉められるということは、その前に入りなさい、という呼びかけです。その前に、とはいつのことでしょう?今です。戸はいつ閉められるか分かりません。明日かも知れません。だから、キリストと出会った“今”、救いの戸口を入りなさい、信仰の道に入りなさいと、聖書は私たちを招いているのです。
 それで思い出したことがあります。マタイによる福音書20章に、主イエスが語られた〈ぶどう園の労働者のたとえ〉があります。ぶどう園の主人が、夜明けに、9時に、12時に、3時に、5時に、労働者を雇って働かせますが、どの労働者にも同じ1デナリオンの賃金を支払ってくれたという話です。私は、この話を聞いたとき、子ども心に、“じゃあ、ぼくは夕方5時から働くことにしよう”と思いました。打算です。
 この話は、救われるのに遅いということはないよ、いつになっても、人生の晩年、最後になっても救われるよ、救いの戸口は開いているよ、というメッセージです。
 しかし、だからと言って、じゃあ、後でいいやという打算的な考え方では、救われるとは思えません。その人にとって、夜明けが“今”かも知れないし、夕方5時が“今”かも知れません。今を大切にしなさい。今を生きなさい。今、救われなさい。それが、戸が閉められるという言葉に込められた神のメッセージだと私は思います。


 今、救いの戸口から入るように努めなさい。一昨日終わった中学生KKS・青年キャンプのテーマは〈聖書〉(3年サイクルで、聖書、イエス・キリスト、教会と巡ります)、この〈聖書〉というテーマに、講師のN牧師(N教会)にサブ・タイトルを付けていただきました。題して、〈聖書 〜 いつ読むの?、今でしょう!〉。お約束の東進ハイスクール・林先生の決めゼリフを使ってくださいました。聖書を読むのは今、キリストと出会い、救われるのも今、なのです。
 このタイトルの下で、N先生が3回のお話をしてくださいましたが、最初の講演はこうでした。先生の父親は牧師で、お母さんとお兄さんの4人家族でした。しかし、先生が3歳のとき、お母さんが亡くなりました。その時から、闇の時間が始まったと言います。お母さんの思い出は話せず、毎日家に帰るのが憂鬱(ゆううつ)で、我慢して、苦悩しながら生きて来た。やがて2歳上のお兄さんが大学に入って家を出て行った高校2年の時、それまで忍耐して生きて来た気持が崩れて、何をしようという気力も、生きようとする思いも失ってしまったと言います。そんなボロボロで、傷だらけで生きていたある時に、以前に父親が働き、自分が子どもの頃に行っていた教会の礼拝に出席する機会が与えられた。そこで、教会の人たちから暖かく迎えられると共に、1冊の記念文集を渡されたと言います。それは、亡き母親の追悼(ついとう)文集であり、教会の人々の追悼の言葉と共に、母親の最後の言葉も記されていた。それを読んだとき、母親は自分のことを見ていた、知っていた、支えようとしてくれた。また教会の多くの人々も自分のことを支えようとしてくれていた。そして神さまも、同じではないか、そういう方ではないかということに気づいたと言います。そして、傷だらけで、ボロボロで、弱さや欠けばかりの自分が、そのままで生きていいんだ、神さまは“生きよ”と言ってくださる、支えられ、支えながら生きよ、と言ってくださっているということに気づいたと言います。
 私は、N先生が、母親の、人々の愛に気づいた。それを通して神さまの愛に気づいた。その愛の下でご自分を受け止めて、そのまま生きていけるということに気づかれた。それが、今日の聖書の言葉で言えば、「狭い戸口」(24節)から救いに入った瞬間だったと思うのです。


「狭い戸口から入りなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」
(24節)
 どうして戸口は狭いのでしょうか。どうして入ろうとしても入れない人が多いのでしょうか。神さまが自ら戸口を狭くしているわけではありません。むしろ神さまには、私たち一人ひとり、すべての人間を迎え入れる用意がある。
 その戸口を狭くしているのは私たち自身ではないでしょうか。私たちは、自分が抱えた現実という闇の中で、目が見えなくなってしまう。人の支えが見えなくなってしまう。神の支えが見えなくなってしまう。神が自分を愛し、救いの手を差し伸べてくださっていることに気づかなくなってしまう。
 無理からぬことです。それほどに私たちを覆う苦しみ悲しみの闇は深い。否、苦しみ悲しみだけではなく、人の成功が、幸せが、喜びが闇となって、私たちの目を神の救いから覆ってしまうことだってあります。私たちにとって、この救いに気づくことは、まさに「狭い戸口」です。
 けれども、一人ひとりの人生にきっと、神さまの救いのご計画があります。神さまはきっと、救いに気づく“今”を一人ひとりに用意してくださっています。この深い闇の中で、迷いの中で、苦しみの中で、聖書を通して、愛の交わりを通して、神の愛に気づき、信仰をもって生きていこうと決心する時を用意してくださっているでしょう。
 今年の中学生KKS・青年キャンプでも、何人かが自分の心の苦しみを、弱さを、キャンプファイヤーでの分かち合いの時間に、心を開いて語ってくれました。それを可能にする、後押しする“神の空気”がそこにはあります。自分が自分でいていい。自分を出していい。子どもたちにとって、そのことに気づくことは「狭い戸口」を入ることだったかも知れません。そして、そういう救いがキャンプだけではなく、神さまによって自分の人生にはいつでも、どこでも備えられていることを信じてほしいのです。
 19節に、神の国は「からし種」に似ている。「人がこれを取って庭に蒔(ま)くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」とありました。神の国は成長して、大きな木になります。多くの人が来て、そこに巣を作る。つまり、自分の居場所を見出します。神に愛され、人に愛され、人を愛し、自分が自分で居られる場所を見出します。その木に、今年のキャンプでも、きっとだれかが自分の居場所を見つけたに違いないと思います。私たちも、神の国という木の枝に自分の安心の巣を作り、またこの枝を隣人に広げながら生きていきましょう。


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