坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年8月11日 平和聖日礼拝説教 「キリストの平和に招か」

聖書  コロサイの信徒への手紙3章12〜15節
説教者 山岡創牧師

3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。


             「キリストの平和に招かれて」
 一昨日の金曜日、車を走らせながらラジオ番組を聞いていましたら、8月9日の長崎が被爆した記念日だったからでしょう、“核兵器のない世界をつくることができるか?”というテーマで、リスナーの意見を求めていました。長崎出身の人で“できる”と答えた方がありました。核兵器が及ぼす悲惨な被害の現実を、唯一の被爆国として世界に訴え続けていく必要があると、強く語っておられました。他方で、“できない”と答えた人もいました。人間は禁止されたら、それを破りたくなる。自国の国益を図るために、必ず隠れて持つ国が出て来る。そんな意見もありました。
 私は、それを聞きながら、ふと旧約聖書・創世記のエデンの園の物語を連想しました。神さまによって天地創造の初めに造られた人間であるアダムとエヴァが、エデンの園で、神さまから、園のどの木の実を食べても良いと言われながら、一つだけ善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと禁じられます。その禁じられた木の実を、エヴァはへびにそそのかされて、アダムはエヴァに勧められて食べてしまい、神さまにエデンの園から追放される物語です。
 ほかに多くの自由があるのに、ただ一つだけ禁止されたことを破りたくなる。禁じられたことが魅力的に見えてしまう。それは、私たち人間の罪の性(さが)なのかも知れません。
 今、日本では、憲法改正が大きな政治的問題となっています。天皇を元首とし、日の丸、君が代を国旗、国歌と定め、第9条では、戦争を放棄し、武力を行使しないと言いながら、自衛権の発動を認め、国防軍を設けることを歌い、言論、出版、結社、信教の自由は、公益及び公の秩序に反するものは認められないとしています。これは、解釈と実施の仕方によって、言論や思想、活動が統制され、戦争を遂行するような、70年前の戦時中のような国家体制が可能になる、ということです。戦争の放棄、武力を行使しない。人間は、禁じられると、それを破りたくなり、持ちたくなるものなのでしょうか。
 このような日本の政治的な流れの中で、聖書は平和のために何を語っているのか、私たちは神を信じ、聞き従うキリスト者として、その御(み)言葉に改めて耳を傾ける必要があると思います。


「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」(15節)。
 神さまは「キリストの平和」へと招かれます。キリストの平和がどのようなものかを味わい、学ぶために、私たちを招き、教会の一員として、“キリストの体”と呼ばれる平和的な集まりを、平和を目指す集まりをお造りになったのです。
 キリストの平和とその平和を反映する集まりの中核となる教えは何でしょうか。それは、「憐れみの心」です。「慈愛」です。「謙遜、柔和、寛容」(12節)です。「赦し合い」(13節)です。「愛」(14節)です。戦いと力は、決して平和を生むことはありません。
 「憐れみの心」という言葉から、私は、「その人を見て憐れに思い‥」という、ルカによる福音書10章の〈善いサマリア人のたとえ〉の中に出て来る御言葉を思い起こします。追いはぎに襲われて半殺しにされたまま道端に倒れているユダヤ人を見て、同じユダヤ人の祭司とレビ人は、通り過ぎて行ってしまいます。ところが、3番目に通りかかったサマリア人は、「その人を見て憐れに思い」、手当をし、宿屋まで連れて行き、宿代まで支払って行った、というのです。祭司とレビ人は同じユダヤ人であり、また神の教えと信仰に最も通じた人々でした。他方、サマリア人はユダヤ人とは仲が悪く、ユダヤ人に言わせれば不信仰な人々でした。にもかかわらず、サマリア人が助けたと主イエスは語りました。両者の違いは何だったのでしょうか?
 それは、「その人を見た」か、“自分自身を見た”か、の違いだと思います。つまり、その人を見て、その人のことを考えたか、それとも自分を見て、自分の都合や事情、価値観や好き嫌いを優先したか、の違いです。自分ではなく、相手を見て、相手の気持や痛みを思った時に、通り過ぎるという傍観的(ぼうかんてき)な無関係ではなく、憐れみの心が生まれたのです。
 このたとえ話は、「隣人を自分のように愛しなさい」という愛の教えを主イエスが展開したものです。「憐れみの心」は「愛」の中心です。「すべてを完成させるきずな」(14節)、平和を完成させるきずなは、相手を見て、その人のことを考える愛なのです。


 もう一つ思い起こす主イエスのたとえがあります。それは、マタイによる福音書18章にある〈仲間を赦さない家来のたとえ〉です。王様から1万タラントンの借金をした家来がいました。今の日本円に換算したら、数千億円から1兆円ぐらいの、考えられないような金額です。しかし、その家来は返すことができなかったため、王様は憐れに思って、何と借金を帳消しにしてやったというのです。さて、その家来が城を出て、100デナリオン貸していた友だちにバッタリと出会います。そして、返すことのできない友だちを、その家来は赦さず、訴えて牢に入れたというのです。100デナリオンは、自分が帳消しにされた1万タラントンのわずか60万分の1金額です。王様は当然、この家来に対して怒りました。
 この家来は、どうして友だちに貸した借金を赦せなかったのでしょう?それは、自分が王様から1万タラントンを赦されたことを忘れていたか、棚に上げていたからです。このたとえの王様は神さまを、家来は私たちの姿を表しています。


 今日の御言葉にありました。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)。赦し合う関係は、私たち人間の持つ優しさや親切心から生まれるのではありません。内側に罪を抱えて生きている私たちが、神さまに赦された、主イエス・キリストが十字架の上で捨てた命の犠牲によって赦された恵みを知っているからこそ、信じているからこそ、生まれる関係です。神の赦しがあって、それを土台として私たちの赦し合う関係が成り立ちます。
 隣人を愛することも同じです。今日の御言葉の最初に、こうありました。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから‥‥」(12節)。神さまに愛されているからこそ、私たちは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけ」(12節)て、隣人を愛するのです。互いに愛し合うのです。神の愛があって、それを土台として私たちの愛し合う関係が生まれます。
 本当の平和は、戦いと力によっては生まれません。愛と赦しによってこそ生まれます。簡単なようですが、厳しい道です。しかし、その厳しい道の先頭を、私たちの主イエス・キリストが歩いています。私たち一人ひとりを赦しながら、愛しながら、歩いておられます。私たちを招きながら、歩いておられます。できるかできないかの問題ではありません。私たちは、このキリストの後ろ姿を見つめて歩くだけです。


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