坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年12月7日 待降節第2主日・礼拝説教「満ちあふれる豊かさ」

聖書 ヨハネによる福音書1章14〜18節
説教者 山岡創牧師

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 
          「満ちあふれる豊かさ」

 今、木曜日の聖書と祈りの会で、旧約聖書の創世記を学び、祈りを合わせています。先日5章を終え、次回から6章、ノアの方舟(はこぶね)の物語が始まります。共に学びながら、神さまを信じることを、人の罪とその歴史を、その中で生きるということを考えさせられ、とても深いものを感じています。
 この創世記の冒頭で、天地創造の物語を学びました。混沌(こんとん)として闇に覆(おお)われた世界を、神さまが言葉で命じることによって、光が造られ、天と地が造られ、そこに生きるものが造られ、最後に人が造られます。この天地創造の神の業に、「言(ことば)」が関わったとヨハネによる福音書(ふくいんしょ)は語ります。1章3節に、こう書かれています。
「万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。
 この「言」というのは、私たちが普段、話したり、聞いたり、書いたりしている言葉とはだいぶ違います。訳された日本語からして変わっている。“言の葉”で“言葉(ことば)”はなく、“言”一文字で“ことば”と読みます。1章1節から読んでみると、「言」とは、初めに神と共にあり、天地万物の創造の基(もと)になったものです。命を内蔵し、人とその闇を照らす光を放ちます。そして、「言は神であった」(1節)と言われます。聖書の原語で言えば、ギリシア語のロゴスが訳されたものです。正直言って、よく分からないものかも知れません。しかし、私たちの想像を超えた、何か偉大なるものだということは、おぼろげながら分かります。そして、天地創造のエンジンであり、命であり、光であり、神でさえある「言」が、人となって生まれた。それが「イエス・キリスト」(17節)だとヨハネによる福音書は証言するのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。
 言が肉となる。キリスト教の専門用語では、“肉を受ける”と書いて“受肉”と言います。つまり、天地創造のエンジンであり、命であり、光であり、神でさえあるものが肉をまとうものとなった。人となった。この“人となった神”こそイエス・キリストだと、ヨハネによる福音書は言うのです。そして、神が人となり、人間イエスとしてこの世にお生まれになった出来事、それがヨハネによる福音書が語るクリスマスなのです。


 人となった神イエス・キリストは、栄光ある方だとヨハネ福音書は語ります。
「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。
 この栄光は「恵みと真理とに満ちていた」と言います。そして、少し後16節を読むと、「この方の満ちあふれる豊かさ」と書かれています。つまり、イエス・キリストの豊かさとは、恵みと真理に満ちあふれている、ということです。お金や物に満ちあふれた豊かさではありません。だから、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(16節)と書かれていることは、イエス・キリストを信じることで、お金や物に満ちあふれる生活ができるようになったということではないのです。病気や障がいもなく、健康に満ちあふれた生活ができるようになったということでもないのです。家族が皆、安全で、家庭に何の問題もない生活ができるようになったということでもないのです。それは私たちの願いかも知れませんが、そのように、いわゆる家内安全、商売繁盛、無病息災といったご利益的な恵みが約束されているわけではないのです。私たちは、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストが、最後には十字架にお架かりになった方だということを見落としてはなりません。この世の栄光や豊かさとは無縁の死を遂げた方だということを忘れてはなりません。けれども、この方が、私たちの罪をすべて背負って死んだ方だということを、そしてその死から神の力によって復活されたということも見失ってはならないのです。そのことを見落とし、見失ったら、私たちは恵みと真理が分からなくなります。

 イエス・キリストは、恵みと真理とに満ちあふれていた、そして「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(17節)とヨハネによる福音書は証言します。では、私たちが受ける恵み、与えられる恵みと真理とは、いったいどんなものなのでしょうか。
 ヨハネによる福音書を調べてみると、不思議なことに、この1章14〜18節以外に、「恵み」という言葉は1度も出て来ないのです。つまり、“恵みとはこういうことですよ”とはっきりと示してくれている箇所は一つもないのです。反対に、「真理」という言葉は、ここ以外にも20ヵ所以上も出て来ます。ですが、“真理とはこういうことですよ”と簡明に説明されているかと言えば、どうもそうではない。象徴(しょうちょう)的なのが、「真理」という言葉が出てくる最後の箇所です。それは、ヨハネ福音書18章38節なのですが、そこでは、イエス・キリストを十字架に架ける判決を下したピラトという人物が、イエスとのやり取りの最後で、「真理とは何か」と、まるで独り言のように語っているのです。真理とは何なのか、決して簡単に分かるわけではない、つかめるわけではない、と言っているかのようです。
 「恵みと真理」とは何か。“それを知るためには、この福音書をよーく読んでごらん。探してごらん。そうすれば恵みと真理とが分かるから”。ヨハネによる福音書はそのように、私たちに語りかけているかのようです。私たちを生かす恵みと真理、私たちを喜びで満たす恵みと真理は、聖書を真剣に読むのでなければ分かりません。聖書の中に、本気で探し求めるのでなければ見つかりません。礼拝(れいはい)において、聖書の御(み)言葉の説教を聞く。しかし、それだけで足りるとは言い切れません。皆さん一人ひとりが、日常生活の中で聖書を読む。受け身ではなく、主体的に読む。神さまが自分に何を言おうとしているのかを考えながら読む。そうすることで、自分の心を満たす恵みと真理とが、きっと見えてくるはずです。
 2か月前ぐらいだったでしょうか、ある日の夜、見知らぬ壮年の男性が教会においでになりました。2時間ほどでしたか、ロビーでお話を伺いました。ご親族、ご兄弟の関係が、心の通わない、本当に冷たいものになっていると、その方は悩みを話されました。そんな時、何かのきっかけで聖書を読み始めた。最初は何が書いてあるのか、さっぱり分からなかった。けれども、2年ほど、繰り返し聖書を読んでいくうちに、だんだん聖書が言おうとしていることが分かるようになってきた、聖書の教えは本当にすばらしい、と言われました。そして、聖書の色々な箇所を挙げて、ここにはこういうことが書かれているのではないか、イエス・キリストとはこういう方ではないか、愛するとはこういうことではないか、と私に話したり、尋ねたりされました。クリスチャンでも何でもありません。教会に通っているわけでもありません。失礼な言い方かも知れませんが、学問のある方でもないと思われます。けれども、ご自分の生活や人生体験と照らし合わせながら、驚くほど聖書が言おうとしていることをよくつかんでいるのです。私が特に、聖書の恵みを話す必要もないほどでした。その方は大工職人でした。若いころ、弟子として、親方の大工仕事を見て、それを真似して技術を体得された。それと同じように、イエス様の真似して生きれば、愛することや大切なことが身について来るのですね。そう言って帰って行かれました。師匠と弟子という職人の世界を生きて来た人として、実感を持って、イエス・キリストと弟子という関係とその生き方がお分かりになるようでした。
 私はクリスチャン本来の生き方を、クリスチャンでない方に教えられたような気がしました。私たちは一人ひとり、様々な悩みや問題を抱えて生きています。疲れや重荷を負って生きています。そういう人生の中で、救いを探し求めて聖書を読む。読み続ける。そうすればきっと、「恵みと真理」が見えてくるでしょう。聖書のすばらしさが、イエス・キリストに従って生きることのすばらしが見えてくるでしょう。

 イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを、真理を受ける。それは、聖書の中に、神の救いを、イエス・キリストの恵みと真理を探し求めて来た者に、神によって、聖霊によって与えられるものです。
 この恵みと真理を与えられた人の姿を、日本基督(キリスト)教団が出版している『信徒の友』12月号からお二人、お話したいと思います。一人は、隠退教師である加藤常昭牧師です。私は、東京神学大学で、加藤先生の最後の講義を学びました。もう90歳前後におなりだと思います。加藤先生は、8月に癌(がん)でパートナーを失いました。最愛の妻を亡くされ、言わば喪(も)に服しているわけです。けれども、加藤先生は、“喪中につき、新年のご挨拶(あいさつ)を遠慮させていただきます”というハガキを出さないと言います。喪中の者は、“クリスマス、おめでとう!”と言ってはならないのか、と問うておられるのです。
 私も、日本社会の慣習として、喪中の者は悲しみに服し、死の不浄(ふじょう)さを伝搬(でんぱん)させてはならない。だから、年賀状を送らず、喪中ハガキを出すということが分からないわけではありません。けれども、クリスチャンとして、加藤先生が言われることもよく分かるのです。神が人となって、この世を生きてくださった。人の苦しみ、悲しみを味わい尽くしてくださった。その慰(なぐさ)めと喜びは、自分が悲しみ、苦しみの中にあるからこそ、むしろよく聴こえる、届いて来る、分かると言われるのです。クリスマスは健康な者たちだけの祝いではなく、苦しみ、悲しみの底にいる人でも、それに打ち勝つことのできる慰めを与えられた者の祝いだ、と言われるのです。その言葉は、イエス・キリストを通して、「恵みと真理」を与えられた人の証しだと思うのです。
 もう一人は、やはり隠退教師である大宮溥牧師です。先生は、東日本大震災を振り返りながら、その災害のために神を信じられなくなった、という人々が少なからずいることを知りながら、なおクリスマスの恵みを語られます。不条理な苦しみや悲しみは、人を虚無(きょむ)に陥れることがあります。先生も、ご自分の長女がまだ子どもだった時に、白血病で失うという悲しみを体験され、“どうしてよりによって私の子が‥”と疑問と煩悶(はんもん)を感じられたそうです。しかし、ある日ふと、“白血病が地上からなくならない限り、だれかがその病にかかる。そうだとすると、罹病(りびょう)している患者は、だれかがかかる病気を自分の身に引き受けているのではないか。だから、罹病患者は皆の身代りになって苦しんでいるのだ”と気づかれたそうです。イエス・キリストが私たちのすべての罪の身代わりとなって十字架の上で死なれたという信仰が、その思いを生みだし、先生は慰められ、ご長女の死を受け入れたのかも知れません。それもまた、イエス・キリストを通して、恵みと真理を与えられた人の姿ではないかと思うのです。
 イエス・キリストを通して、私たちの心を慰めと喜びで満たす「恵みと真理」を受け取る。その時、私たちは、イエス・キリストを「神を示された」(18節)方として、人となった神として、私たちの心に信じて迎えることができるのではないでしょうか。それが、私たちにとって本当のクリスマス、イエス・キリストの誕生なのです。

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