坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年7月5日 礼拝説教 〜 悔い改めと赦し(4)「必要なこと、耳を傾けること」

聖書 ルカによる福音書10章38〜42節
説教者 山岡創牧師

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


             「必要なこと、耳を傾けること」

 礼拝(れいはい)の中で、私たちは〈悔い改めと赦し〉を行います。私たちの罪を共同の言葉で告白し、主イエス・キリストから赦(ゆる)しの宣言をいただきます。ここ最近、この悔い改めと赦しを、聖書の言葉によって学んでいます。今日は、あなたが語りかけてくださったのに、わたしたちは耳を傾けませんでした、との悔い改めについて、考えてみましょう。

 〈マルタとマリア〉、そう呼ばれる聖書の箇所を取り上げました。伝道の旅を続ける主イエスとその一行を、マルタという女が、自宅に迎え入れました。主イエスには、一緒に旅をして、生活を支え、お世話をする婦人たちが数名いました(ルカ8章3節)。それとは別に、主イエスには、旅の途中で立ち寄る家、在宅で主イエスを支える人々がいたと思われます。その一人がマルタです。「ある村」(38節)というのは、エルサレムの近くのベタニアだろうと考えられます。
 マルタは、旅で疲れた主イエスと一行をもてなしました。「もてなし」(40節)と訳された言葉は、原語ではディアコニアと言い、これはしばしば“仕える、奉仕”と訳される言葉です。ここでは実際、食事の世話をすることがメインだったと思われます。
 余談になりますが、2013年9月に開かれた国際オリンピック委員会で、2020年のオリンピック開催地を決めるために行われたプレゼンテーションで、滝川クリステルさんが、日本を紹介するのに“おもてなし”という言葉を使いました。その言葉が、その年の流行語大賞にも選ばれました。
 おもてなしとは、お客様に対する扱い、待遇のことですが、“表(裏)無し”という意味、つまりその態度に表裏がない、という意味合いも込められているのだそうです。例えば、海外ではサービスに対して、任意ですがチップを渡すことがあります。けれども、日本にはそういう習慣がありません。見返りを求めず、それがあるかないかによって態度を変えない待遇こそ、おもてなしの心でしょう。
 ところで、サービスとおもてなしはちょっと違うと言います。サービスというのは、お客様が想定できる、当然の待遇であるのに対して、おもてなしとは想定外の気遣いを言うのだそうです。つまり、どうしたら相手が喜び、快い気持になれるかという配慮ですね。例えば、旅館の部屋に布団が敷いてあるのはサービスですが、そこに“どうぞごゆっくりお休みください”とメッセージ・カードが添えてあったら、それはおもてなしだということです。それで思い出したのですが、昨日、桜中学の廃品回収がありました。地域の方々に、自宅の前に新聞、雑誌、段ボール、アルミ缶等を出しておいていただき、PTA委員、教師、生徒が集めに行きます。妻と私も自動車に乗って割り当てられた区域を回りました。私たちの担当区域ではありませんが、ある家で、出してあった廃品の上に“回収、ご苦労さまです”と書いたメモが貼ってあったそうです。これなどは、まさに“おもてなし”の心と言えます。
 どうしたら相手が喜び、快い気持になれるか。それを考えながら配慮し、動くのが、まさに仕える心、奉仕の心です。そういう意味で、さて、この時のマルタには、仕える心、おもてなしの心があったでしょうか?

 マルタは、「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働き」(40節)、その結果、心を乱しました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。
 マルタのイライラの原因、それは妹のマリアが食事の準備から離れたことにありました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)とあります。そのために、マルタはてんてこ舞いするはめになりました。しかも、主イエスは知ってか知らずか何も言われません。そのために、遂にマルタのイライラが爆発しました。
 私たちは、この内容を読んで、マルタの苛立(いらだ)ちはもっともだ、手伝わないマリアが悪い、と思うかも知れません。確かに、主イエスがあまり空腹を感じないように、早く食事の準備をしようと思ったら、手伝いの手は多いほど良いわけです。それなのに、マリアが手を休めて話に聞き入ったらどうなるか。マルタは一人で準備することになったかも知れません。そんなマルタに、私たちは同情的になります。
 けれども、主イエスは話し始めたのです。ならば私たちは、主イエスの語りかけに配慮の焦点を、おもてなしの焦点を当てなければならないのではないでしょうか。
 マリアとて、最初は姉を手伝って、もてなしの準備をしていたと思われます。けれども、主イエスが語り始めたのです。そのまま準備を続けるか、それとも主のお言葉を聞くか、迷ったに違いありません。自分はもてなす側だから、話を聞く立場にはないと考えることもできたでしょう。しかし、主イエスが語っている近くをウロチョロしたら、話の邪魔になるとも思ったかも知れません。いろいろ考えた挙げ句、マリアは主イエスの言葉を聞くことを「選んだ」(42節)のです。
 主イエスが話しておられる。御(みあ)言葉を語りかけておられる。それが私たちの信仰生活の中心であり、スタートなのです。「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10章17節)。だから、私たちは、語りかける主イエスに応対して、それにふさわしく聴く姿勢、耳を傾ける態度を取る必要があります。
 マルタの気持が分からないではありません。けれども、主イエスのことを考え、主イエスのために配慮していたつもりだったのですが、いつの間にか自分が良かれと思う行動、態度に陥ってしまったのです。それはともすれば、信仰に名を借りた独善になる場合があります。そして、主イエスの御(み)心を見失い、マリアのことを非難したように、人と争う原因にさえなり得ます。主イエスのためにやっている。奉仕している。そう思い込んで、自分を正当化してはなりません。大切なことは、主イエスが自分に何を求めておられるか、その語りかけに耳を傾けることだからです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41〜42節)
 もちろん、私たちは主イエスのために奉仕します。救いの恵みに応え、主イエスに仕えてキリストの体なる教会を造り上げようとします。けれども、まずなすべきことは、主イエスの語りかける御言葉に耳を傾けることです。私たちが主イエスをもてなすのではなく、主イエスの言葉によって私たちがもてなされることです。それが信仰の始まりであり、奉仕の基本です。最良の奉仕とは、もてなす奉仕ではなく、聴く奉仕です。

 私たちの信仰生活、教会生活を考えて、少し具体的な場面を思い浮かべると、例えば、私たちは日曜日の礼拝の後の行事や活動のために準備をすることがあります。バザーがあるならば、その準備とセッティングをします。ランチや食事会があれば、台所で食事の準備をします。愛餐会(あいさんかい)があれば、持ち寄る料理を作ります。けれども、ともすると礼拝の時間に遅れることがあります。礼拝を守り、御言葉を聞くことをおろそかにしては、他の活動も準備も本末転倒です。もちろん、そんなつもりではないでしょう。致し方なく遅れてしまうこともあります。しかし、肝心なのは、礼拝を守り、御言葉を聞く奉仕が第一と心得、遅れた自分を正当化しないことです。それがまさに“悔い改め”です。
 あるいは、礼拝を守るために様々な当番奉仕があります。その奉仕によって礼拝の営みが支えられています。けれども、当番奉仕に当たっている人は、自分を特別視してはなりません。例えば、ロビーで受付・礼拝当番を担う人はなかなかご苦労です。来た人への対応や事務があります。礼拝に集中することは難しいでしょう。けれども、自分は特別な立場だから、そうしなくて良いと考えないようにしましょう。そういう中で、できるだけ礼拝に、御言葉に集中する。聖書朗読、説教中に、記録を付けていたりすることは控えましょう。
 私たちはともすれば、そういう考えと態度に陥ります。私が牧師になる前に、出席教会で教会学校の奉仕をしていた時のことです。教会学校の子ども礼拝と活動は、大人の礼拝前に行われます。私は、子どもたちの信仰を育てる大切な役割をしているのだから、礼拝にちょっとぐらい遅れても致し方ないと考えていました。5分、10分、礼拝に遅れることが少なからずありました。自分が礼拝を大切にしないで、どうして子どもたちの信仰を育てることができるでしょうか。性(しょう)もない信仰でした。
 日常生活の中で主イエスの語りかけを聞くこともそうです。私たちはそれぞれ忙しい毎日を過ごしているかも知れません。けれども、それを言い訳にして、聖書が読めない、祈れないことを正当化しないようにしましょう。“主よ、聖書を読み、祈る時間をお与えください”と祈りながら、悔い改めながら、心がけていきましょう。

 主の語りかけに耳を傾けることは、私たちの信仰の根本です。けれども、もう一歩突っ込んで言えば、私たちは、“聞く形”だけ整えるのではなく、自分に何が語りかけられているのか、その言葉の内に込められた意味を、主イエスの心を聴き取ることが大切でしょう。
 先週の月曜日から水曜日、佐渡教会で行われた開拓伝道協議会に参加しました。参加者は決して多くありませんが、毎年参加するたびに、自分の置かれた場所で伝道しようと、新たに元気と希望をいただくことができる、とても良い協議会です。
 そのプログラムの中に、非暴力コミュニケーション(NVC)の学びとロールプレイングの時間がありました。非暴力というのは、いわゆる手を出したりといった物理的な暴力のことではなく、相手の話を評価しない、批判しない、否定しないという意味での非暴力のことです。あまり詳しく話している時間がありませんが、このコミュニケーションの肝心なところは、相手の話の表面的な内容を聞くのではなく、その話に込められた相手のフィーリング(気持)を受け止め、相手のニード(原因、※NVCでは「ニード(必要)」を「原因」と訳す?ようです)を読み取ることです。つまり、相手が何を大切にしているのか、何が満たされていないのかを感じ取る、ということでした。そして、お互いに共通のニードを見つけることができれば、コミュニケーションの不調は解決に向かう、というものでした。
 けれども、このコミュニケーションを学びながら、私は、この協議会の最終日に、大きな?失敗をしました。思いがけない要求に、相手の気持を考え、相手のニードを聴き取る前に、“それはだめだよ、やめよう”と言ってしまったのです。相手の気持とニードを聴こうとする姿勢があれば、受け答えの言葉はもう少し違っていたでしょう。その失敗が、私にとって、今回の協議会のいちばんの“お土産”になりました。
 相手の言葉を聞くとは、相手の気持とニードを聴くことです。そして、主イエスが私たちに、何を語りかけ、求めておられるのか、その気持とニードを私たちは、聖書の御言葉から聴き取ることが信仰の大切な基本です。マルタのように、“自分”という“我”が先立ち、主イエスの御言葉の心とニードをなかなか、心を開いて素直に聴けない私たちかも知れません。そんな自分に気づかされ、主イエスの限りない憐れみと赦しのもとに、愛のもとに、悔い改めることを忘れずに信仰の道を歩いていきましょう。


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