坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年7月12日 礼拝説教 〜 悔い改めと赦し(5)「神を愛し、人を愛する」

聖書 ルカによる福音書10章25〜37節
説教者 山岡創牧師

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


       「神を愛し、人を愛する」

 礼拝において、私たちは〈悔い改めと赦し〉を行います。私たちの罪を共同の言葉で告白し、“あなたの罪は赦(ゆる)された”と主イエス・キリストから赦しの宣言をいただきます。
悔い改めのことを新約聖書の原語であるギリシア語で、メタノイアと言います。これは“心の方向転換”という意味です。今まで自分の心が自分の方ばかりを向いていた。つまり、自己中心と言うことです。その心を神さまの方に向け直す。神さまが求めていることは何かを考える。つまり、“神中心”に自分の心を方向転換するのです。すると、神さまの求めが隣人を愛することだということが見えて来ます。
もちろん、私たちクリスチャンの生き方は、ただ単に“隣人中心”の生き方ではありません。神中心です。それは、まず自分が神に愛され、神に生かされていることを知ることです。信じることです。だから、自分を大切にするのです。けれども、愛されているのは自分だけではありません。“この人”も“あの人”も愛されています。つまり、自分以外の人、聖書が言う“隣人”も神さまに愛されています。だから、私たちは隣人を自分のように愛し、大切にするのです。
とかく自己中心な私たちが、神の求めに耳を傾け、隣人を愛する。そこに、私たちの方向転換、悔い改めがあります。けれども、実際にはそう簡単にできることではありません。できるのであれば悔い改めなど必要ないわけで、むしろそれができない自分に気づかされることがしばしばあります。だから私たちは“あなたと隣人を愛することのできない私たちをお赦しください”と神さまに向かって告白し、祈ります。この告白と祈りこそが私たちの悔い改め、悔い改めの第一歩だと言うことができるでしょう。
今日は、この“あなたと隣人を愛することのできない私たちをお赦しください”との悔い改めについて、聖書の語りかけに耳を傾け、考えてみましょう。

 今日はルカによる福音書(ふくいんしょ)10章にある〈善いサマリア人〉のたとえを読みました。主イエスがなさった、サマリア人が追いはぎに襲われたユダヤ人を助けるたとえ話です。
 このたとえ話に先立って、主イエスと律法の専門家とのやり取りがあります。律法とは、ざっくり言えば旧約聖書のことです。その旧約聖書・律法に、主である神さまの求めが示されていると、主イエスも、律法の専門家も、当時のユダヤ人は皆、考えていました。専門家は主イエスを試そうとして問いかけます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。この問いかけは、別の言い方で言えば、“律法の中で最も重要な教えは何ですか?”という問いかけだと言うことができます。
 マタイによる福音書22章34節以下の箇所では、この問いかけに主イエスご自身が答えています。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
 けれども、今日の聖書箇所では、主イエスは直接お答えにならず、逆に律法の専門家に問いかけています。すると、彼も主イエスと全く同じ答えをします。その答えに対して、主イエスは「正しい答えだ」(28節)と言われました。つまり、主イエスはもちろんのこと、律法の専門家も、律法の中で最も重要な教えは何か、何が神さまの求めておられることかを分かっているわけです。けれども、主イエスと律法の専門家では、この教えについて明らかに違うところがあります。それは、この教えを、自分の生き方に、自分の人間関係に、具体的にどのように適用し、活かしているか、という点です。
 律法の専門家の答えを聞いて、主イエスは言われました。
「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(28節)
 主イエスは律法の専門家の答えを、正しいとお認めになりました。しかし、その後で「それを実行しなさい」と言われました。それは、裏返して言えば“あなたは実行できていないよ”と言われたということです。あなたの答えは正しい。あなたは律法の中で何が重要か分かっている。だけど、その教えを実行していないよ、と主イエスは指摘したことになります。
 すると、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)と聞き返しました。主イエスから“実行できていない”と言われて、その指摘を素直に認めず、“自分はできている”と正当化しようとしたのです。だれだって自分の間違いや難点を指摘されれば、なかなか素直には認められないものです。まして彼は律法の専門家です。専門家なのに律法について“有言不実行”だと言われれば、これは正当化せずにはいられないでしょう。その正当化が、“自分はしています”という素直な自己弁護の言葉にはならず、“では、私の愛すべき隣人とはだれのことですか?もし私が愛していない隣人がいるなら言ってみなさい”という格好付けた言い返しになったわけです。

 話の流れが少し変わりますが、今日の聖書箇所には、神を愛することと、隣人を愛するという二つの大きなテーマがあります。二つは表裏一体、二つで一つだとも言えるのですが、別々のこととして考えるべき内容でもあります。そこで、隣人を愛することについては、この後、〈善いサマリア人〉のたとえ話があります。しかし、神を愛することについては、具体的な話はありません。では、神を愛することについては考えなくて良いのでしょうか?律法の専門家も、隣人を愛することはできていないけれど、神を愛することはできているから、その点は問題にしないで良いということでしょうか?そうではありません。
 先週の礼拝説教で、この直後にある〈マルタとマリア〉の箇所を取り上げました。ここに、神を愛するということの具体的な話、答えがあります。マリアは主イエスの話(御言葉)に耳を傾けました。それが、神を愛するということです。神さまが自分に何を求めておられるかを聴こうとする姿勢、生き方です。ところが、マルタは、主イエスをもてなしたいという、善意ではあるけれど、自分の思いが先だったため、主イエスの求めに応じることができませんでした。神を愛することができませんでした。
 律法の専門家も同じです。主イエスの言葉を聞いて、それを受け入れることができない。その言葉に言い訳し、反抗し、自分を正当化してしまう。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽して」(27節)ということは、自分の主張、価値観、自分の願いや求めを全力で廃して、つまり自己中心を廃して聴く、という意味なのかも知れません。つまり、神を愛することができないという悔い改めは、神の言葉、主イエスの言葉に耳を傾けることができないことと直結している、ということを、ここで理解しておいでいただきたいのです。

 話の流れを元に戻しますが、律法の専門家は、自分を正当化しようとして主イエスに逆襲しました。その問いかけに対する答えとして、主イエスは〈善いサマリア人〉のたとえを語ります。
 当時、ユダヤ人は同胞のユダヤ人だけを愛せば良いと考えていました。ユダヤ人以外の異邦人は、神を知らない民族、神に逆らう人々なので愛する対象ではなかったのです。そのように考えて自分を正当化しようとする律法の専門家に、主イエスは、サマリア人という異邦人が追いはぎに襲われたユダヤ人を助けるというたとえを話されました。祭司とレビ人というのはユダヤ人です。神殿での礼拝、儀式を司る人とそれを補助する役割を担っている人です。つまり、礼拝と宗教信仰の専門家です。しかし、専門家なのに、同胞のユダヤ人を見て見ぬふりをして通り過ぎて行きました。“専門家だからと言って、できるわけではないのだよ”という律法の専門家への反省を求めるメッセージです。サマリア人は、宗教的な対立によりユダヤ人とは犬猿の仲でした。倒れているユダヤ人を見て“ざまあ見ろ!”と思ったとしても不思議ではありません。ところが、サマリア人は倒れているユダヤ人を見ると、「憐れに思い」(33節)、手当し、宿屋に連れて行き、宿代まで支払ったというのです。“これが隣人を愛する、ということだよ。あなたはどうする?”と律法の専門家は、主イエスから自分の隣人愛を問われたのです。
 隣人を愛することについて、主イエスと律法の専門家と何が違うのでしょうか?その違いが両者の言葉にはっきりと現われています。彼は、「わたしの隣人とはだれですか」と言いました。これは、自分にとって、つまり自分の立場や価値観、好みから見て、愛すべき隣人とはだれかと考えています。つまり、自分中心な考え方です。他方、主イエスは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)と問うています。つまり、相手の立場や気持、必要性から見て、自分がその相手を愛する隣人になる、という考え方です。つまり、相手中心です。単なる相手中心ではなく、神の求めが何かを思うが故に、相手の求めを考えるということです。隣人を愛するとは、そのように考えて相手のために尽くすこと、自分が隣人になることだと、主イエスはお教えになったのです。

 けれども、そういう意味で、隣人を愛することができない自分であることを、やはり思わずにはいられません。自分の立場や気持、考えが先立ちます。相手のことを考えようと思っても、自分本位な善意になっていて、相手の気持や必要を受け止めることができない言葉や行動が少なからずあります。
 思い出すのは、阪神淡路大震災の時のことです。〈サマリタン〉、つまり良いサマリア人と名前を付けたボランティアチームをつくり、神戸の教会に瓦礫(がれき)の撤去や物の整理、掃除に出かけました。しかし、木曜日になると、早く戻って礼拝と説教の準備をしたいと思い、被災した人々のことを思えない自分がいました。サマリア人失格です。
 私は、相手の気持と必要を受け取ることができなかった、考えることができなかったという意味で、決定的に大きな失敗を、今までに少なくとも3回はしたと思っています。小さな失敗を数えたら、数え切れないでしょうし、自分では気づいていないこともきっとあるに違いありません。
 先日の開拓伝道協議会でもそうでした。先週の説教でもお話しましたが、そのプログラムの中で、非暴力コミュニケーションの学びをしました。相手の話を評価し、批判し、否定せず、相手の話の表面を聞くのではなく、相手の気持と必要を聴き取るというコミュニケーションです。けれども、これを学びながら、私は、この協議会の最終日に、失敗をしました。思いがけなかったということもありますが、相手の要求に、その気持と必要を聴き取る前に、“それはだめだよ、やめよう”と否定してしまったのです。相手の方から、“どうして先生がそれを決めるの?”と言われて、ハッとしました。隣人を愛することができない自分に気づかされた一つの経験でした。

 あなたと隣人を愛することのできない私たちをお赦しください。この悔い改めと祈りを忘れずに進む以外に、私たちは信仰の道を歩めないと思います。けれども、この悔い改めのあるところに、神の愛と赦しもまた、豊かに私たちに注がれるのです。


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