坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年8月30日 大人と子どもの礼拝説教「憐れんでください」

聖書 マタイによる福音書20章29〜34節
説教者 山岡創牧師

20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。


      「憐れんでください」

 「エリコの町」(29節)、どこかで聞いたことがある、と思いだす町の名前です。そう、この町は、先日みなかみで行われた埼玉地区中学生KKS青年キャンプで考え、みんなで劇にして演じた徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイが住んでいた町です。イエス様はザアカイの家に泊まって、翌日、弟子たちと一緒に町を出ようとしておられたところだったかも知れません。
エリコの町を出て、どこに行かれるのでしょう?エルサレムです。エルサレムはエリコから登って行った山の上にありました。ユダヤ人の首都です。「大勢の群衆がイエスに従った」(29節)とありました。たくさんの人々が弟子たちと一緒にエルサレムまでついて行ったのでしょう。そして、イエス様がエルサレムの街にお入りになるとき、“王様(ダビデの子)、万歳(ホサナ)!”と叫んだことが21章に出て来ます。

ところで、イエス様は何をするためにエルサレムに向かったのでしょうか?それは、捕まっている人々を取り返すためです。今日読んだ聖書箇所の直前28節に、
「人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(28節)
と書かれています。「人の子」というのはイエス様のことです。イエス様は、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」と言うのです。アニメの〈名探偵コナン〉や、刑事ドラマの〈相棒〉とかが好きな人は、「身代金」って何だか分かりますね?犯人がだれかを誘拐(ゆうかい)して、“こいつを返してほしかったら、○○○円用意しろ!”って言うお金のことです。そのお金を犯人に渡したら、代わりにその人を無事に返してもらえる。
 イエス様が犯人に支払うのはお金ではありません。お金よりももっと大切なもの、「自分の命」です。自分の命を支払って、犠牲にして、どんな犯人から、だれを取り戻そうというのでしょうか?
実は犯人は“人”ではありません。その犯人につかまった人は、恐れや不安、絶望を感じています。でも、犯人が人ではないから、お金以外の何かでないと取り戻すことができない。それで、イエス様は自分の命を支払うのです。自分の命を支払うって、ものすごいことです。普通はできない。その人を、ものすご〜く愛していなかったら、できない。例えば、生まれつき腎臓の悪い子どもに、お母さんが自分の腎臓をあげるとしたら、それってすごい愛だよね。それは、自分の子だから、ものすごく愛しているからできることです。イエス様も、ぼくらのことをものすご〜く愛しています。それは、ぼくらが神さまの子どもだから、そしてイエス様が神さまだからです。だからイエス様は自分の命を、エルサレムで、十字架にかかって支払うのです。
そして、ぼくらをつかまえている犯人は、愛にいちばん弱い。愛を渡されると無力になって、つかまえているぼくらを放してしまう。そうやってぼくらは、イエス様のもとに返って来ることができる。神さまの愛の中に帰って来ることができる。神さまのところで、愛されていると感じるとき、ぼくらには恐れも不安も絶望も薄らいでいく、なくなっていくでしょう。

 そんな神さまの愛、イエス様の愛で愛された二人の盲人(もうじん)の物語が、今日の話です。エリコの道端に二人の盲人が座っていました。盲人とは、目が見えない人のことです。目が見えないからできないことがいっぱいある。仕事もできない。だから、道端に連れて来られて、通りかかった人にお金を恵んでもらっていたのです。たくさんの人々からバカにされました。あれは悪い人間だから、罪を犯した人間だから、神さまから罰を与えられて目が見えないんだと差別されました。そんなふうに言われて、扱われて、とても自分が愛されているなんて感じることはできなかったに違いありません。
 そこにイエス様が通りかかった。それを聞いた二人は、必死で叫びました。
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(30節)。
これって、愛してくださいってことじゃないか?愛に飢えた人の心が、“わたしたちを愛してください。愛されていると感じさせてください”と絞り出す叫びじゃないかと思いました。
 愛されたい。愛してほしい。愛されてホッとしたい。あたたかい気持になりたい。自分は生きていていいんだ。自分は自分のままでいいんだ。そう感じて安心したい。そんな気持をだれもが持っています。でも、その気持を、その叫びを邪魔するものがあります。私たちを恐れと不安と絶望の中につかまえる“犯人”です。
 目の見えない二人の人が叫んだとき、「群衆は叱りつけて黙らせようとした」(31節)とあります。“みんなの迷惑だ!”“お前たちのような奴らに、イエス様に願う資格なんかない!”“どうせイエス様は聞いてなんかくれないよ!”。そんなことを言われたのかも知れません。それでもひるまずに、必死で叫び続けました。「わたしたちを憐れんでください」。“わたしたちを愛してください”。その声は、イエス様に届くのです。
 ザアカイの物語を扱った埼玉地区のキャンプで、2日目の夜に行われたキャンプ・ファイヤー。私は、必死で叫ぶ二人の盲人の姿から、そのシーンを思い起こしました。ゲームで盛り上がった後、後半は、自分の心を語る証しの時間になります。最初に証しする人を一人だけ、事前に頼んでおきます。その後は、参加者の自主性にお任せです。でも、最初の人の証しに触発(しょくはつ)されて、中学生・高校生が、青年が、次々と手を挙げて、自分の心の内を語り始めます。決して格好良い話ではありません。自分の悩みを、苦しさを、コンプレックスを、弱さを、罪を語り始めるのです。次々と、と言ったのは語弊(ごへい)があるかも知れません。みんな、自分の心を語ろうか語るまいかと迷います。“こんなことを言ったら、みんなからどう思われるだろう?きもい奴、うざい奴‥‥そう思われて、もう相手にされなくなるんじゃないか”。そんな気持と、つまり自分を捕まえている“犯人”と闘っているのです。でも、勇気を出して語り始める。それは、“自分はこんな人間だけれど、こんな自分を、神さま、憐れんでください。みんな、こんな自分を愛してください”という気持がほとばしり出るのだと思うのです。そして、そういう自分の心の思いを明かすことのできる空気が、このキャンプにはある。そういう愛に包まれている。だから、語ることができるのだと思うのです。

 目の見えない二人の人も、イエス様なら私たちの声を聞いてくださる、愛してくだると信じて、叫び続けたのでしょう。その思いは確かにイエス様に届き、イエス様は「深く憐れんで」(34節)二人の目を見えるようにしてくださいました。
何が見えるようになったのでしょう?目の前にいるイエス様や人々の姿でしょうか?周りの景色でしょうか?いいえ、いちばん見えるようになったものは“愛”だと思うのです。だから、二人は「イエスに従った」(34節)のだと思うのです。目が見えるようになって、“やったーっ!”と喜んで、それでどこかに行ってしまうのではない。自分たちも、この愛にとどまり、愛に従うのです。それは、自分も愛を造る一員になるためです。愛を必要としている多くの人々に、今度は自分が、この愛をとどける人間に、伝える人間になるためです。そうやって家族は続いて行きます。社会は続いて行きます。何よりもイエス様の教会が続いて行きます。イエス様に愛されていることを感じて、信じて、私たち皆、一人ひとり、感謝して、喜んで、イエス様の愛を生み出し、とどける教会の一員になっていきましょう。


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