坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年9月6日 礼拝説教〜 悔い改めと赦し(9)「復活 〜 罪の清算」

聖書 ヨハネによる福音書20章19〜29節
説教者 山岡創牧師

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
◆イエスとトマス
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


      「復活 〜 罪の清算

 主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、神はわたしたちを赦し、愛してくださいます。
 ご存じのとおり、今言った言葉は、礼拝のプログラムの中にある〈悔い改めと赦し〉において、牧師がイエス・キリストの代理として宣言する赦しの言葉の一部です。毎週の礼拝において、私たちは、この赦(ゆる)しの言葉を聞いています。
 信仰とは基本、“神さまと私”の関係ですが、その関係とはある面で、自分の罪の問題をどうするか、ということです。神さまを意識するということは、神さまに見られている自分の内側(内面性)を意識する、自分の心の内を見つめるということです。その時、私たちは、自分の内にある罪の問題に気づかされます。この罪の問題が自分の力では解決することができないことを感じるとき、イエス・キリストによって罪が赦されているということが大きな恵みになります。私たちは、毎週の礼拝のたびに、この赦しの宣言をいただいて、安心して神さまを礼拝し、それぞれの生活へと送り出されていくのです。
 けれども、皆さんの中に、“どうして主イエス・キリストの復活の御業(みわざ)が、私たちの赦しとつながるのだろう?”と疑問を感じた方はおられないでしょうか? キリストの十字架の出来事が、罪の赦しの根拠となっていることは、私たちは比較的よく知っています。私たちの信仰を言い表している日本基督教団信仰告白の中で、私たちは、
 御子(=イエス・キリスト)は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまえり。
と告白します。イエス・キリストが、十字架にかかり、ご自分の命を犠牲として、私たちを罪による滅びの宿命から救い出してくださったということです。この内容は、悔い改めと赦しシリーズの前回の礼拝で、ローマの信徒への手紙3章21節以下からも学びました。
 だから、イエス・キリストの十字架が私たちの罪の赦しの根拠となっていることは分かる。けれども、どうして、十字架と復活の御業によって、なのだろう?復活は、私たちの死の恐れに永遠の命の希望を与えるものであって、罪の赦しとは関係がないのではないか?復活の御業によって赦される、という意味がよく分からない‥‥‥と、こう思っている方がいらっしゃるのではないかと思うのです。
 さて、復活と罪の赦しとは、どんな関係にあるのでしょうか。

 キリスト教信仰は、イエス・キリストの復活の出来事から始まりました。弟子たちが、復活したキリストと出会ったということが、この信仰の最大の根拠となったのです。だから、弟子たちとその教会は“復活の証人”と呼ばれました。礼拝が、それまではユダヤ教の伝統では土曜日に行われていましたが、教会では日曜日に行われるようになりました。それは、日曜日がイエス・キリストが復活した日だったからです。
 弟子たちが、復活したイエス・キリストと出会い、復活の証人となったという話は、4つの福音書の中に数多く出て来ます。今日読んだ聖書の箇所もその一つです。そして、弟子たちが復活したイエス・キリストと出会って、しばしば体験したことは、自分の罪が赦されたという恵みの体験でした。
 今日の聖書箇所において、復活したイエス・キリストが弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(19節)と2度言われています。これは、主イエスが十字架に架けられ、弟子である自分たちにも類が及ぶのではないかとユダヤ人を恐れていた弟子たちに、“安心しなさい”と言われたのです。しかし、それだけの意味ではないと私は思います。深い意味で、神さまとの間の平和を宣言するものです。“あなたがたの罪は神さまに赦されたから、安心しなさい”という赦しと平和の宣言です。
 主イエスが捕らえられ、でっち上げの裁判によって裁かれ、十字架にかけられた時、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げ去りました。ある弟子は、主イエスを敵に売り渡す手引きさえし、また、ある弟子は“イエスなんて知らない、関係ない”と人々の前で宣言しました。様々な形で弟子たちは主イエスを裏切り、見捨てました。その罪を弟子たちは強く感じていたでしょう。だから、彼らが恐れていたのはユダヤ人だけではなかった。別の意味で主イエスを恐れ、神を恐れていたと思うのです。
 そういう弟子たちのもとに、主イエスが復活して現れた。平和を宣言され、もう一度、弟子として遣わす、と言われた。これは、弟子たちにとって、自分(たち)が主イエスによって赦していただいたということ以外の何ものでもなかったと思います。

 このような罪の赦しを、極めて個人的に体験した弟子もいました。その一人がトマスです。トマスは、復活した主イエスが弟子たちのもとにおいでになった時、彼らと一緒にいませんでした。そのためトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と啖呵(たんか)を切ってしまいます。以前にもお話したことがありましたが、トマスは他の弟子たちと比べて、疑り深い性格だったというのではないと思います。そうではなくて、依怙地(いこじ)になって、こう言ってしまったのだと思います。ほかの弟子たちが皆、「わたしたちは主を見た」(25節)と言って喜んでいるのです。でも、自分一人だけが、その喜びの輪の中に入れない。さびしかったと思います。悔しかったと思います。その気持から、「信じない」と言ってしまったのではないでしょうか。後できっとトマスは後悔したに違いない。でも、今更それを撤回することもできず、モヤモヤした気持が心にわだかまっていたでしょう。
 そのようなトマスのもとに、復活した主イエスが来てくださいました。そして、ご自分の手の釘跡、わき腹の槍の跡に手を入れてでも良いから、「信じる者になりなさい」(27節)と言われた時、トマスは、復活した主イエスの深い愛を感じたでしょう。そして同時に、意地を張って「信じない」と、とんでもないことを言ってしまった自分が赦されたと感じたに違いありません。
 復活した主イエスと出会うことで、弟子たちは罪の赦しを体験しました。それが、罪の赦しの原点だと言うことができます。イエス・キリストの十字架刑が、罪の贖いという救いの意味を持つことも、復活したイエスと出会う体験から見直され、示されたものだと考えられます。
 主イエスが十字架に架けられ、処刑された時、それは、弟子たちから見れば、主イエスの宣教活動の挫折(ざせつ)であり、対立していたユダヤ教の指導者たちの手で政治的に陥れられた敗北の出来事でした。主イエスの死は“犬死に”であり、今までの苦労は無駄に終わったと感じたに違いありません。
 けれども、復活した主イエスと出会ったことによって、彼らは、主イエスが十字架にかけられた出来事を考え直してみる気持になったのです。生前の主イエスの教えを思い出しながら、積極的な意味で、神さまの救いのご計画という視点で、捉え直してみたのです。その結果、主イエスが言われたように、「人の子は‥‥多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)という意味に、またローマの信徒への手紙3章25節でパウロがまとめているように、「神は、このキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」という救いの意味を見出したのです。

 復活した主イエスと出会ったこと、それが弟子たちにとって罪の赦しの原体験でした。そして、赦された弟子たち、愛された弟子たちは、「父がわたしをお遣(つか)わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と、イエス・キリストによって神の救いを宣べ伝えるために遣わされるのです。何を宣べ伝えるのでしょうか?「あなたがたに平和があるように」とキリストが言われた神の平和です。神との平和な関係です。赦され、愛されているという恵みです。
聖霊(せいれい)を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(22〜23節)。
と復活したキリストは諭されました。人間には考えられないような、非常に大きな権威を弟子たちは与えられたことになります。でも、これは、自分の身勝手な考えで赦さなくてもいい、ということではなくて、神の大きな愛によって赦された者として、神の愛と赦しを宣べ伝えなさい、人を赦しなさい、という語りかけです。
 キリストの教会の一員として、私たちも神さまに愛され、キリストに赦され、そして遣わされます。神の平和、神の愛と赦しを証しし、伝えていきましょう。


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