坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年9月13日 礼拝説教 〜 悔い改めと赦し(10)「体を献げる、生活を献げる」

説教者  ローマの信徒への手紙12章1〜2節
説教者 山岡創牧師

12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。


      「体を献げる、生活を献げる」

 礼拝(れいはい)での説教を通して、礼拝で私たちが行う〈悔い改めと赦し〉について学んで来ました。今日でこのシリーズの10回目、そして今日の説教がこのシリーズの最後の説教になります。
 自分の罪を告白し、神の赦(ゆる)しを祈り求める私たちに、主イエス・キリストは、「あなたの罪は赦された」(ルカ7章48節)と宣言してくださいます。ご自分の十字架の犠牲と復活を根拠として、「あなたの罪は赦された」「安心して行きなさい」(7章50節)と、キリストは、私たちを、“安心して生きる人生”へと送り出してくださるのです。
 ところで、何回か前の礼拝で取り上げましたが、罪を赦され、「安心して行きなさい」と送り出された女性は、その後、どのように生きたのでしょうか?実は、この赦しの言葉が宣言されているルカによる福音書7章36節以下の物語では、その後、この女性がどのように生きたかということは何も書かれてはいません。キリストが送り出すところで、物語は終わっています。福音書の中にある救いの物語はほとんどがそうです。救われた人が、その後どのように生きたか、ということは書かれていないものがほとんどです。罪を赦されて、安心して生きたのだ。そう考えて良いのでしょう。

 けれども、私たちが一つ、心に留めておくべきことは、キリストによって安心の生活へと送り出されて、それで終わったのではない。福音書(ふいんしょ)の物語は終わっても、その人の人生が終わったのではない、ということです。そこが“ゴール”ではないのです。つまり、そこは始まりです。“スタート”です。安心して生きる人生のスタート、罪を赦され、神の愛に包まれ、神と共に歩む新しい人生の始まりなのです。そこから新たな生き方が、新たな神との関わりが始まるのです。
 では、安心して生きるために、何を心がけ、どのように神さまと関わりながら生きていけば良いのでしょうか?パウロという人が、ローマの信徒への手紙12章で、ズバリと言っています。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献(ささ)げなさい」(12章1節)
この聖書の言葉を、〈悔い改めと赦し〉の最後の言葉として用いました。
 「いけにえ」などと言われると、私たちはびっくりしてしまいますが、ユダヤ人には、自分の感謝や悔い改めの気持を神さまに表わすのに、動物をいけにえとして献げるという習慣があったので、こういう言い方がされているのです。要は、献身的な生き方をしなさい、ということです。例えば“献身的な看護”などと言いますが、“献身的”という言葉は、私たちもよく知っています。相手のために自分の身を献げて、その人の思いを汲(く)んで、その人の役に立つように振る舞う、ということです。そういう生き方を、「何が神の御心であるか」(2節)を汲んで、神さまに対してしよう、ということです。
 けれども、献身的に生きるというのは、その相手を愛しているのでなければ難しい、できないことだと思います。神さまのために献身的に生きるということは、私たちが神さまを愛していて初めてできることでしょう。
 私たちは、だれかにプレゼントをすることがあります。それは、その人に好意を持っているからです。その人に仲良くしてもらっているからでしょう。あるいは、とてもお世話になっているからでしょう。お中元やお歳暮なども、本当にお世話になったと感じている人には、何かお返しをしたいと心からのものを贈りたくなります。献身もそうです。そういう気持で自分の体を神さまにプレゼントするのです。
 神さまは、私たちに、ご自分の独り子イス・キリストをプレゼントしてくださいました。イエス・キリストを通して、私たちへの愛を表わしてくださいました。イエス・キリストの十字架の犠牲と復活によって、私たちへの赦しを示されました。その愛と赦しによって、自分はこうして生かされてある身だと信じているなら、感じているなら、自ずと神さまに何かお返しをしたい、神さまのために何かをしたいと思うでしょう。それが、献身的な生き方となって現われるのです。

 では、神さまに対する献身的な生き方とは、どのように生きることでしょうか?もう少し具体的に考えてみましょう。
 ローマの信徒への手紙12章1節で、私が特に注意を引かれたのは、「神に喜ばれる」という言葉でした。ただ我が身を献げ、時間と労力を献げても、それが自己本位な生き方になっていたのでは仕方がない。神さまに喜ばれるような献身、生き方があるはずです。そこで思い出したのが、旧約聖書詩編51編18〜19節の御(み)言葉でした。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨(みぬね)にかなうのなら、
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮(あなど)られません」
 神さまが喜ばれる献げ物とは何か?必ずしも、動物のいけにえではない。焼き尽くす動物の献げ物ではない。神さまが喜ばれる献げ物は「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれ悔いる心」だと、この詩編の作者は捉(とら)え、言い表わしています。この御言葉はやはり〈悔い改めと赦し〉の中に用いています。
 やはり何回か前の礼拝でお話しましたが、この詩編51編は、イスラエルダビデ王が作者だと言われています。サムエル記下11章の話で、詳細は略しますが、ダビデ王は、自分の部下であるウリヤの妻に手を出し、その罪をもみ消そうとして、ウリヤを戦場で意図的に戦死させ、未亡人となったその妻を我がものにしました。彼は自分の権力で罪をもみ消し、自分を正当化しようとしました。その何重にも上塗りした罪の所業(しょぎょう)を、預言者ナタンにずばりと指摘され、ダビデ王は、自己正当化の心を打ち砕かれたのです。打ち砕かれ、自分の罪を悔い、赦しを求めて祈ったのが詩編51編だと言われています。
 けれども、私たちは権力者ではありませんからこれほどではなくとも、自分自身の生活の中で、“小さな自己正当化”を繰り返しながら、“自分は正しい、罪などない”と自分を立てながら生きているのではないでしょうか。その正当化が打ち砕かれることこそ、神さまが喜ばれる生き方なのです。
 既に天に召されましたが、藤木正三牧師という方が、『系図のないもの』という著書の中で、主イエスと対立したユダヤ教ファリサイ派の自己正当化を取り上げ、こんなことを書いておられました。それはまるで“空き家”のような空しい生き方だというのです。ファリサイ派の人々は、神の掟を熱心に守り行う人々でした。しかし、そのために自分たちは正しいとうぬぼれ、他人を見下し、差別するような心と生き方に陥りました。自分の心という家を、自分の行いで熱心に整え、掃除し、飾るけれども、その家には神さまが住んでいない。空き家なのです。きれいな空き家だから、これは良いと悪霊(あくれい)が住み込んで来る。自己正当化という名の悪霊です。
 自分が正しい、立派な行いをして、自分の力で生きていると思っているうちは、私たちの心は打ち砕かれません。むしろ、自分の内には罪がある、正しく生きられないところがある。ダメ人間だ。そう感じている時ほど、自分の罪を告白し、神さまの前に悔い改めたいと思うときほど、私たちの心は砕かれたものとされるのではないでしょうか。
 藤木先生はこう言います。
 私たちは自分の姿を省(かえり)みて、これでは駄目だ、もっと正しく、もっと忍耐強く、もっと清く、きちんと生きなくちゃならないと、焦りを感じることがよくあります。これでクリスチャンと言えるのだろうか、と恥ずかしく思うことがあります。やるべきことがやれず、やってはならないことをやってしまう、情けない姿に自己嫌悪(けんお)を感じることがあります。しかし、敢(あ)えて言えば、そんな焦りも、そんな恥ずかしさも、そんな自己嫌悪も必要ないのです。それよりもそんな駄目人間にも、駄目なままで、そのままで共にいてくださる神への感謝で、まず心を静めたいと思います。すべてはそこから始まるのですから。そうでないと、いつの間にか、ファリサイ派の人々が誤ったように、自分の力で何とか正しく、何とかきちんと生きようとして、内に満ちて寄り添っていてくださる神の働きを見落とし、「空き家」になってしまうからです。‥‥‥感謝で人生を整えるべきであって、正しさで人生を整えるべきではないのです。感謝のない正しさは、励めば励むほど人間を貧しくします。人生を砂漠のようにします。(前掲書39〜40頁)

 自分の体を神さまに喜ばれるように献げる生き方。それは、自分の力で何とか正しく、何とかきちんと生きようとすることではありません。そのように考え、そのように生きてしまう、そして自分を正しいと思い、人を非難する自分を打ち砕かれ、謙遜にされることなのです。あるいは、そのように生きられない自分とそのままで共にいてくださる神の優しさに感謝することです。一言で言うなら、砕かれて、赦されて、愛されて生きている、“生かされている”ことに感謝して生きること。それが、神さまに喜ばれる献身的な生き方ではないかと思うのです。
 とかく私たちは、“何かをしなければ‥”と考えがちです。けれども、そうではなくて、神さまに赦され、愛されている恵への感謝から始めましょう。感謝によって心を静め、整えていきましょう。感謝こそ、私たちの生活に謙遜と愛を生むのですから。


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