坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年1月10日 礼拝説教「驚くべき光の中へ」

聖書 ペトロの手紙(一)2章9〜10節
説教者 山岡 創牧師

2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。


      「驚くべき光の中へ」
 昨年のクリスマス、12月25日の夜、我が家では、家族のクリスマス会を行いました。その際、妻の発案で、初めて家族7人でプレゼント交換というイベントをしました。事前にくじ引きをして、だれがだれにプレゼントをするかを決めておきます。もちろん、本人以外はだれがだれにプレゼントするかは分からない。交換する時のお楽しみです。そして、それぞれ千円のプレゼントを買って用意しました。(子どもたちの資金は妻が出したようですが、私はもらえず自己資金でした)そして交換当日、それは思っていた以上に、とても楽しい時間になりました。それぞれが、自分がプレゼントする相手のことを考えて選んだ気持が伝わって来ました。ちなみに私は、ドリップ・コーヒーとクッキーのセットをもらいました。いちばんおもしろかったプレゼントは、『明日死んでもいい片付け』という本でした。これは年末の大掃除にも役立ちました。

 選ぶ、ということには何かしら理由があるものです。今日読んだ聖書の御(み)言葉に、こうありました。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(9節)。
 あなたがたは「選ばれた民」だ。神さまがあなたがたを選んだ。ペトロは、小アジアの教会に属する人々に、このように語りかけました。
あなたがたは選ばれて、「神のものとなった」。コリントの信徒への手紙(一)6章20節に、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」という御言葉があります。あなたがたは罪のものだった。罪に支配され、罪に従う奴隷のような存在だった。それを、神さまが代価を払って罪から買い取ってくださった。神の独り子イエス・キリストの命という代価を、神さまは、十字架の上で支払って買い取られた。私たちは、罪のものから「神のものとなった」のです。それが、選ばれたということです。
 あなたがたは選ばれて、「聖なる国民」となった。この世の国に属する国民ではなく、神の国に属する国民とされた。この手紙の1章4節にあったように、「天に蓄えられている、朽(く)ちず、汚(けが)れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」としていただいたのです。そのような聖なる国の国民にしていただいたのです。それは、私たち自身が“清い人間”“聖なる人間”だからではありません。私たちは、自分の清い行いで、聖なる人間になったのではありません。イエス・キリストの命の犠牲、その血によって罪を清められ、ゆるされ、聖なる者、聖なる国民にしていただいたのです。
 あなたがたは選ばれて、「王の系統を引く祭司」となった。聖なる国、神の国の王とはだれでしょうか?もちろん、イエス・キリストです。その王であるイエス・キリストの系統を引くとは、どういうことでしょうか?
 旧約聖書において、神の民として選ばれたイスラエル民族は、ユダ族、ルベン族、ベニヤミン族など12の部族から成っていました。イスラエル民族でない者は、そのどの部族にも属していません。けれども、ここに、言わば“新しい部族”ができました。イエス・キリスト族です。これは、血筋ではなく、イエス・キリストの救いを信じる信仰によって、新しい部族の一員となった人々です。だから、イエス・キリストという王の系統、救いの系統を引いているのです。
 「祭司」とは、神殿で礼拝をささげる者、犠牲をささげる者です。ローマの信徒への手紙12章1節に、こうあります。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。イエス・キリストによって救われ、“イエス族”となり、イエス・キリストのために、自分の体を献げる者、それが「王の系統を引く祭司」ということです。

 あなたがたは選ばれて、「王の系統を引く祭司」「聖なる国民」「神のものとなった民」とされた。それが、「選ばれた民」の内容です。そして、小アジアの教会の人々だけではなく、現代の教会に属する私たちも、「あなたがたは、選ばれた民」だとペトロによって語りかけられているのです。
 ところで、先ほども申しましたが、選ばれるということには何かしら理由があるものです。私たちが選ばれたのはどうしてでしょうか?それは、私たちが清い人間だからとか、立派な行いをしているからとか、それが神さまに認められ、評価されて、という理由ではありません。そうであるならば、神の掟を守って立派な行いをするファリサイ派の人々が、イエス・キリストによって選ばれていたはずです。ところが、イエス・キリストは彼らを選ばずに、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)をお選びになって、こう言われました。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章32節)。
 イエス・キリストは、「正しい人」ではなく、「罪人を招いて悔い改めさせるために」罪人を招き、選ばれるのです。であるならば、私たちが選ばれた理由、それは私たちが「罪人」だからです。これ以外の何ものでもありません。
 ところで、「罪人」というのは、どういう人のことでしょうか?聖書の中には至るところに、罪、罪人という言葉が出て来ます。けれども、罪というのは、私たちがしばしばイメージするような倫理性(りんりせい)の問題ではないと思います。つまり、単純に、“悪い人” “悪いことをする人”“悪い思いを抱いている人”が、聖書が語る罪人ではないということです。そうではなくて、私は、イエス・キリストが語る「罪人」という内容を、少し深く考えてみるならば、それは“アイデンティティーを失った人”と言って良いのではないかと思います。
 アイデンティティー。難しい言葉ですが、時々耳にすることがあると思います。簡単に言うと、“自分は何者なのか”ということです。自分は何者なのかを表わす位置付けや立場、身分、関係等のことです。例えば、坂戸いずみ教会の牧師、これは私の職業的立場であると同時に、私のアイデンティティーです。皆さんであれば、坂戸いずみ教会の教会員、坂戸いずみ教会の求道者、坂戸いずみ教会に関わる者ということが、皆さんのアイデンティティーの一つであるわけです。
 自分は何者なのか?人生がうまく行っている時は、そんなことは考えません。うまく行かなくなった時、人から認められず、否定される時、私たちは、その現実や原因に悩むと同時に、うまく行かず、認められない自分自身に悩むようになります。自分には価値があるのか?自分は周りの役に立っているのか?自分は正しいのか?自分は愛されているのか?深いところで悩むようになります。深いところ、つまり“自分は何者なのか”という問題で悩むようになります。
 このような深いところでの悩み苦しみを克服するには、自分は何者なのかということをもう一度、再発見する必要があります。近年、“自分探し”という言葉を、割と耳にするようになりました。“当事者研究”という言葉で言われたりもします。それは、失いかけている“自分は何者なのか”ということを考え、その答えを探し当てる作業なのです。言い換えれば、“自分はこれでいい”“自分は自分でいい”ともう一度、自分を受け入れ、肯定し、自分を愛せるようになるということです。
 逆に言えば、自分を認め、愛することができなければ、私たちは、自分を否定し、また自分が属する世界を否定し、拒絶することになります。その結果、あきらめ、投げやり、延(ひ)いては破壊願望が生まれて来ます。自分を破壊するか、世界を、相手を破壊するかです。その思いが、形となって、態度となって、行動となって、罪が生まれ、罪人と呼ばれるわけです。徴税人も遊女も皆、そうです。だから、罪人の根っこは、自分が何者であるかというアイデンティティーを失っている、ということです。
 そのような罪人を招いて悔い改めさせるために来た、と主イエスは言われました。悔い改める。それは見失った自分のアイデンティティーを、もう一度見つけるということです。自分は何者であるかを探し当て、“自分はこれでいい”“自分は自分でいい”と、自分を受け入れ、肯定し、自分を愛せるようになるということです。
 そのために、主イエスは私たちに、あなたのアイデンティティーはこれだよ!と示してくださいました。それが、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」ということです。これを簡単に言えば、あなたは、神さまに愛されている存在だ、ということです。自分が神さまに認められ、愛されていることを知る時、私たちは究極的なアイデンティティーを与えられ、安心し、自分を受け入れ、世界を受け入れて生きていくことができるようになります。それはまさに、「暗闇の中から驚くべき光の中へ」(9節)と招き入れられる出来事です。自分が何者なのかを見失った暗闇から、自分は神に認められ、愛されている、“自分は自分でいい”と自分を愛し、肯定できる驚くべき光の中へと招き入れられる救いの出来事です。この出来事を味わった人は実感できる、神の驚くべき「力ある業」です。そして、この「驚くべき光」の体験、神の「力ある業」を広く伝えるために、私たちは選ばれたとペトロは語ります。神さまは私を愛しておられる。私は私でいい。私たちはこれでいい。そう伝えることのできる“祝福のモデル”、世界の祝福のモデルになるようにと召されているのです。

 祝福のモデルとはどのようなクリスチャンのことでしょうか?坂戸いずみ教会の教会員であったEさんが天に召されて1年になります。今日の聖書の御言葉を黙想しながら、Eさんがいつも、“自分のような者をお選びくださり、感謝します”と祈っていたことを思い出しました。8年に及ぶ入院生活の中で、私は、Eさんから愚痴や不満を聞いたことがありませんでした。いつもニコニコして、感謝していました。“自分のような者を覚えて、皆さんが祈っていてくださることを感謝します。よろしくお伝えください”と、帰り際にいつも言われました。
そんなEさんの姿を思い出すと、私は一つの御言葉を連想します。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」
テサロニケの信徒への手紙(一)5章16〜18節
 神の力ある業を私たちが広く伝えるということは、私たちが何か特別なことするのではないと思います。大きな伝道活動をすることではないと思います。正しい行い、立派な行い、すばらしい行いをして、だから神さまはすばらしく力がある方だと広めるのではないのです。そうではなくて、自分のような者を、自分が何者かを失って、自分と世界を受け入れられず、否定する暗闇の中にあった者を、イエス・キリストがお選びくださった。神さまが愛してくださった。救ってくださった。ただただ、その恵みと憐れみを感謝して生きることです。喜んで、感謝を祈り、隣人のために祈りつつ生きることです。その生活こそ、自分の体を神に献げる祭司の生活として、神の力ある愛のみ業を、世界に、人々に、身近な家族や友人に、身をもって伝えることになるでしょう。
 選ばれた民、愛されている一人、この信仰を胸に歩みましょう。


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