坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年1月17日 埼玉地区講壇交換礼拝説教(毛呂教会)「魂の大掃除」

聖書 ルカによる福音書11章24〜26節
聖書 山岡 創牧師

11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」


      「魂の大掃除」
 皆さんは、年末に大掃除をされたでしょうか?普段から家を片付け、整えているので、大掃除をする必要はありません、という暮らし上手な、うらやましい方も、皆さんの中にはいるかも知れません。
 我が家では年末に恒例の大掃除をしました。自分の部屋や場所は自分でするとして、その他に風呂場、トイレ、洗面所、玄関、台所、またリビング等みんなが集まる場所の窓ふきは、家族7人で分担しました。その中で、私の分担は庭の掃除、整理でした。坂戸いずみ教会には、会堂の南側に車を4台止められるスペースがあります。そのいちばん奥がちょっとした庭になっています。そこが足の踏み場もないぐらいゴチャゴチャでした。4年ほど前に、隣の家との境に造ったキッチン・ガーデン(料理用のハーブやパセリ、紫蘇などを作る)は荒れ放題になって、そこからつる草が伸び放題になっています。また、その前は大小様々なプランターが土の入ったまま置きっ放し。物置にモノを取りに行くのも、ヨイショッとプランターをまたいで行かないと通る場所がないような状態でした。まず大量の土を何とかしなければなりません。私は家庭菜園が趣味で、近くに畑を10坪ほど借りてやっています。まず、そこに土を持って行きました。一人ではとてもできないので、長男、次男に“ガッテン寿司を食わしてやる”と言って手伝わせ、運びました。プランターもほとんど捨てて、大変スッキリしました。
 スッキリついでに自転車置き場を造ることにしました。6台の自転車が駐車スペースに雨ざらしになっていたので、何とかしたいと思っていました。私は日曜大工も好きなものですから、カインズホームでコンクリートの土台と木材とプラスティックの波板を買って来て、横幅約3.6m、畳2間幅の駐輪場を組み立てました。教会の白い壁に合わせて白いペンキを塗って出来上がり。我ながら大満足で正月を過ごしました。

 それにしても今回の大掃除は、とても大量のゴミが出ました。庭のゴミはもちろん、家族がそれぞれ今まで片付けられなかったものを思い切って捨てました。それに一役貢献したのが、『あした死んでもいい片づけ 〜 実践・覚悟の生前整理』という本です。
 我が家では12月25日の夜にファミリー・クリスマスをしたのですが、その際、妻の発案で初めて、プレゼント交換をしました。事前にくじ引きをして、だれがだれに贈るかを決め、一人1,000円前後のプレゼントを、妻が子どもたちの分を出費して(私は自腹でした)、用意し、交換しました。その際に、次男が、いつも部屋が散らかっている兄弟のだれかに(名誉のためだれとは言いませんが)プレゼントしたのが、この本でした。みんな大笑いでした。しかし、なかなかおもしく、ためになります。片付けのポイントは3つ。?一日30分だけの片付け、?することは抜くだけ(家から外に出す)、?人のモノにはけっして手を付けません、ということです。
これが最後と思えば本当に残すものは必要最小限。一度不用品と判定したモノには未練を残さない。‥‥最後は金額ではなく自分にとって使いやすくずっと愛(め)でていきたい、そんなものをほんの少し残します。もちろん生前整理が終わったらすぐに死ぬ、というわけではありません。この後の人生はきっと今より何倍も暮らしやすく穏やかな生き方になるはずです。‥‥(前掲書25頁)
 別に本の宣伝をしているわけではありませんが、我が家はこれで、思い切って不要なモノを捨て、年末の大掃除をしました。
 とは言え、私もモノに愛着を感じる性質(たち)です。先日も、“これ、何かに使えそう”と取っておいて、後で“そうだ、あの本に、「何かに使えるかも」がゴミになる」と書いてあったっけ”と思い返したばかりです。ある意味で、人生は生涯、片付けかも知れません。

 考えてみると、聖書というのは、私たちにとって〈あした死んでもいい“心の”片づけ〉とでも言うべき本ではないでしょうか?冗談ではなく、私たちはあした死ぬかも知れません。先日も軽井沢の碓氷峠でバスの大事故があり、10数名の尊い命が失われました。そういう突然の死が、私たちに起こらないとも限らないのです。そんな私たちに、常に心を片づけて、天国への入り方を教え、希望と安心を与えてくれる。この後の人生を、まさに何倍も暮らしやすく穏やかな生き方にしてくれるのが、聖書という本だと言っても良いでしょう。
 聖書に書かれている心の片付け・掃除のポイントは2つ。?自分で掃除をしてはなりません、?掃除はイエス様にお任せしましょう、ということです。この大切なポイントに関わる内容が、今日読んだ聖書箇所にも出てきます。
 今日の聖書箇所は、まさに片づけ、掃除の話です。ここでは、人が「家」(25節)にたとえられています。その家、つまり人の内側が掃除をされている、という話です。ところが、掃除をして整えられた家に、一度は出て行った「汚(けが)れた霊」(24節)が仲間を連れて戻って来て、以前よりももっと荒屋敷(あれやしき)になってしまう、というのが今日の聖書の話です。
 ところで、汚れた霊は自分から家出をしたのでしょうか?そうではありません。追い出されたのです。主イエスによって追い出されたのです。
 今日の聖書の箇所は、直前にある〈ベルゼブル論争〉とタイトルの付いた箇所とのつながりで読むことができます。当時の人々は、原因不明の病気や障がい、また人が罪を犯すのは、汚れた霊(悪霊)がその人に取りついて引き起こしていると考えました。だから、主イエスが障がいや病気を癒(いや)したり、罪の赦(ゆる)しの宣言をしたりするのは、主が人の内から悪霊を追い出すことだと考えられていました。ところが、それを、心ない人は、“イエスは悪霊の王様ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているだけだ。イエス自身が悪霊の王様に取りつかれているのだ”と悪口を言いました。しかし、主イエスはその非難中傷に反論し、自分は「神の指」(20節)で悪霊を追い出していると言われました。それはつまり、神の力で、更に直前の13節に書かれている「聖霊」の力で悪霊を追い出しているということです。主イエスによって悪霊は追い出され、代わって聖霊が住んでくださるのです。
 ところが、追い出された悪霊がウロウロして、再び戻って来ると、その家は「掃除をして、整えられて」(25節)いました。それだけなら何の問題もないのですが、肝心なことは、その家が“空き家”になっていた、という点です。空き家になっていたから悪霊は、自分の仲間の悪霊まで連れて来て、いとも簡単に入り込むことができたのです。どうして聖霊は、その人の中から出て行ってしまったのでしょうか?そして、聖霊のいない空き家なのに、どうして掃除がしてあったのでしょう。

 その理由を考える材料として、この話を主イエスがだれに向かって語っているかを考えてみましょう。主イエスが語っているのは、直前の箇所で主イエスのことをベルゼブルだと非難した人々だと思われます。だれとは書かれていませんが、ルカによる福音書の文脈からすると、これはファリサイ派の人々だと考えられます。
 ユダヤ教ファリサイ派は、神の掟である律法を熱心に守る人々でした。律法が命じる善い行いをして、また悪い行いはしないことで、自分を整え、心を掃除し、神さまに認められようとしました。その志は立派なものです。
 けれども、彼らに決定的に欠けているものがありました。それは、神への感謝であり、信仰の謙遜さでした。彼らは、自分の行いで自分の内側を掃除し、整えようとしました。つまり、自分の力で神に救われようとしたのです。だから、自分の行い、自分の力を誇り、それを神さまに認めさせたい、認めてほしいという気持はあっても、神の力で、聖霊の働きによって自分が救われたという感謝がないのです。そして、自分の行いを誇るあまり、謙遜さを失い、行いの足らない人を非難しました。徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)ら律法を行えない人々を裁き、病気や障がいを負った人々を差別し、神から見捨てられていると軽蔑しました。だから、ファリサイ派の人々の心には聖霊が住み着かなかったのです。彼らは、掃除をしているつもりで、“行い”というゴミを貯め込み、そのため“思い上がり”と“非難・差別”という悪霊がいよいよたくさん住み着くようになっていったのです。

 さて、私たちも“現代のファリサイ派”になりがちです。自分を省みることは大切ですが、ともすれば“こんな自分では救われない”と自分にダメ出しをしたり、だから“もっと、もっとやらなくちゃ”と自分で何かを行って、自分を整え、掃除しようとします。けれども、そんなことをすれば、“まだまだ足りない。これではダメだ”と余計に落ち込むか、“自分はこんなにやった。神さまにふさわしい”と驕(おご)り高ぶり、他人を見下すのが落ちです。それはまさに、「その人の後の状態は前よりも悪く」(26節)なっているということです。
 神さまは、“お前が自分の内を掃除して、整えたら、救ってやろう”と言われる方ではありません。そうではなくて、神さま御(ご)自身が私たちの内を掃除し、整えてくださいます。神の独り子イエス・キリストという、言わば“掃除用具”を使って、私たちの内を掃除し、整えてくださいます。イエス・キリストの命と血によって、私たちの内を清めてくださいます。それが、イエス・キリストが十字架の上で死なれたことの意味です。私たちの内にある罪の心を清め、悪霊を追い出してくださるために、イエス・キリストがその命を犠牲として献げられたのです。
 だから、私たちは、イエス様を信じてお任せすればいいのです。自分にダメ出しをして、だめな自分を自分の行いで変えて、神の救いにふさわしく掃除し、整えようとしなくてよいのです。必要なのは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈り続けること。罪人の自分、だめなままの自分が、イエス・キリストの十字架によって掃除され、整えられ、救われていることを感謝すること。そのイエス・キリスト聖霊となって今、自分の内に住み、自分を愛し、生かしてくださることを喜ぶだけで良いのです。つまり、自分で自分の心の掃除をせず、イエス様にお任せする。それが、魂の大掃除です。

 そのために、一日30分の片付け‥‥とは言いません。一日5分、聖書を読んで祈る時間を設けることをお勧(すす)めします。朝起きた時でも、夜寝る前でも、電車の中でも、家族を送り出した後でも、いつでも良い。一日5分だけの片づけです。
 “一日5分、一日の288分の1の時間を神さまに献げなさい。3分、聖書を読み、2分祈りなさい。そうすれば、あなたの生活は必ず変わります”。と、私は20歳過ぎの頃、アーサー・ホーランドという学生伝道者から教えられました。やってみたら、本当に変わりました。
 けれども、私はこの5分をさぼります。片付け下手です。ダメ牧師と落ち込むこともあります。でも、そんな自分を省みることはあっても、責めない。開き直るのとは違う、自分はイエス様に愛されている罪人だと確認し続ける。感謝し続ける。そして、思い直し続ける。生涯、この信仰の道を、イエス様に任せて歩みたいと願います。


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