坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年4月10日 礼拝説教 「愛は多くの罪を覆う」

聖書 ペトロの手紙(一)4章7〜11節
説教者 山岡 創牧師

4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

      「愛は多くの罪を覆う」

 「万物の終わりが迫っています」(7節)とペトロは語ります。2千年前のキリスト者には相当リアルなことだったのでしょうが、現代人である私たちには、どうもピンと来ないところがあります。けれども、今、自分が生きている、置かれている日常生活が終わる時、失う時が来ると考えれば、私たちも想像ができますし、何が求められているのかも何となく見えて来るでしょう。
 今、木曜日の聖書と祈りの会では、旧約聖書の創世記を読んでいます。この前は、ヤコブという人が、シケムという町で大失敗をし、その時ハッと神の語りかける言葉を聞いて、ベテルの町に移り、そこに祭壇を築いて神を礼拝するという35章の内容を学びました。自分のことを憎み、殺意さえいだいていた兄エサウと和解し、シケムの町に落ち着いて交易がうまく行き始めたヤコブは、慢心していたように思われます。神の言葉を聴かず、自分の考えで生活を押し進めていたヤコブは、それが元になって大きな失敗をし、それまでの日常生活を失うのです。
 人は、失敗や挫折(ざせつ)、苦難に遭(あ)って、日常性を失った時、それまで聞こえなかった神の言葉にハッと気づくことがあります。けれども、できることなら普段から、謙虚な信仰を持って神の言葉に耳を傾けることが大切でしょう。この生活にも終わりが来るかも知れない、その意識を持って、神の言葉に耳を傾けるのです。その姿勢が、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)ということでしょう。
 主イエスが弟子たちに、目を覚まして祈りなさい、と言われたことを連想しました。それはつまり、神の言葉に目を覚ましていなさい、謙虚に聴きなさい、という教えでありましょう。今日の聖書の御(み)言葉で言えば、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」(8節)との神の言葉を聴くことではないでしょうか。

 愛し合うという教えは、今日の聖書箇所で、様々な言葉に言い換えられています。「その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)という言葉もそうです。
 4月1〜2日にサムエル・ナイトを行いました。中学高校生や青年が教会で一泊し、交流し、黙想と奉仕を共にするプログラムです。今回は、〈教会の働きと奉仕〉というテーマで黙想し、考えてみました。まず、自分の得意なこと、好きなことを考え、書いてもらいました。今日の聖書の言葉で言えば、10節に書かれている「賜物(たまもの)」を考える、ということです。次に、教会にはどんな働きや役割があるかを考え、書いてもらいました。みんな、結構よく知っていました。教会に来続けて、教会の様子、大人が何をしているかを、よく見ているのです。その後、教会にはこんな役割と奉仕があるということをプリントにまとめてお話し、自分ができること、やりたいことを選んで書いてもらいました。そして最後に、教会で奉仕をする上で大切なことを、コリントの信徒への手紙(一)12〜13章を読んで学びました。
 手紙の中でパウロは、「あなたがた(教会)はキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です」(12章17節)と語ります。けれども、信徒たちは自分の賜物を比べ合い、奉仕に優劣を付けていました。それでは、キリストの体である教会はできない。一人ひとりがキリストの体の部分として奉仕をする時、大切なことは何か?それは「愛」だ、とパウロは教えます。それこそが最高の賜物、「最高の道」です。そして13章で
愛の何たるかを語り、「愛を追い求めなさい」(14章1節)と勧(すす)めるのです。

 今日読みましたペトロの手紙(一)4章10節で、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい」と記されていました。自分の賜物は何か?それを考え、提供し、比べるのではなく、生かして、互いに仕え合う。そこにキリストの体である教会ができて来ます。そのように互いに仕え合う上で、最も大切なこと、要となるものは何か?「愛」です。信仰における「愛」です。
 「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」とペトロは勧めます。その後に続く、「不平を言わずにもてなし合いなさい」(9節)ということも、「その賜物を生かして仕え合いなさい」(10節)ということも、最初の「心を込めて愛し合いなさい」という教えの焼き直しだと言えます。愛し合うということを具体的に言い換えたのです。だから、今日の聖書箇所でペトロが語ろうとしている内容の中心は何かと言えば、愛し合うということだと言って良いでしょう。
 何よりもまず、心を込めて愛し合うこと。なぜなら、「愛は多くの罪を覆(おお)うからです」(8節)とパウロは語ります。おもしろい表現だなぁ、と感じます。と言うのは、私たちは、罪を“赦(ゆる)す”とは言ったり聞いたりしますが、罪を“覆う”とは通常、言わないからです。想像をかき立てられる、ユニークな表現です。
 「多くの罪を覆う」。ともすれば、それは悪事を“覆い隠す”、というイメージになるかも知れません。悪事と罪を覆い隠し、人から見えないようにし、その責任を逃れようとする行為です。隠蔽工作(いんぺいこうさく)というやつです。
 もし覆い隠すものが、自分の罪であるならば、それはまさに罪の隠蔽工作でしょう。けれども、それが相手の罪であるならばどうでしょう?しかも、自分に損害や迷惑を与える相手の罪だとしたら?‥‥もしそうだとしたら、覆うということは、隠すというよりも、“匿(かくま)う”とか “かばう”というニュアンスになります。相手をスッポリと包み込み、“守る”というニュアンスになります。私は、覆うというのはそっちだと思うのです。
 もう一つ、「覆う」という言葉は、英語ではカバーと言います。英訳の聖書でも、8節にはカバーという言葉が使われています。それで、ふと思い浮かべたのですが、私は金曜日の夜、バスケットボールのサークル活動をしています。ここ2年余り、我が家の子どもたちの友だちつながりで、小中学生とその保護者、高校生、青年が毎回10〜20名集まります。教会のメンバーもたくさん参加しています。バスケットボールは年配の方もご存知かと思いますが、5人対5人で、高いところにあるリングにシュートしてボールを入れ合うチーム・スポーツです。バレーボール等のようにネットで隔てられていないので、守備(ディフェンス)の時は相手を直接マークします。相手のそばにくっ付いて、好きなようにプレーさせないということです。でも、攻撃している側は、そのマークを振り切ろうとします。例えば、だれかがドリブルで自分をマークしている相手を抜き去ります。そうすると、その人がフリーになって、楽にプレーできるようになり、得点されてしまいます。だから、そういう場合は、抜かれてしまった人に代わって、だれか別の人がマークをします。そういう守備のことを“カバー”と言います。つまり、味方のミスを覆って、そのミスから得点されないように防ぐことをカバーと言います。もし信仰をバスケットボールにたとえるとしたら、私たちがミスをした時に、それをカバーしてくれる人がイエス様でしょう。
 この手紙を書いたイエス・キリストの弟子のペトロは、自分のミスをイエス様にカバーしていただいたと強く感じていたに違いありません。どの福音書(ふくいんしょ)にも記されていますが、ペトロは、何があってもイエス様のことを知らないなどとは決して言わない、死んでも言わないと豪語していました。けれども、イエス様が捕らえられ、裁かれ、十字架につけられることになった時、ペトロは、弟子の自分も同じ目に遭わされることを恐れて、イエスなど知らないと3度もその関係を否定してしまいました。ずっと従って来た、愛してくださった主イエスを見捨ててしまったのです。決定的なミス、大きな罪です。けれども、イエス様は、このことあるを予想しておられました。ペトロのミスが起きる前から祈っていました。赦していました。そして、復活してペトロに現れ、信頼して、再び宣教の使命を託してくださいました。ペトロは、自分の決定的なミスがカバーされたと深く感じたに違いありません。自分の大きな罪を、多くの罪を、イエス様に覆っていただいた、スッポリと包んで匿(かくま)っていただいた、かばっていただいたと感謝したに違いありません。そして、ペトロと同じように、私たちも自分の罪を、ミスをイエス様にカバーされ、覆っていただいていると信じるのが、信仰の世界です。
 ところで、イエス様はペトロを、私たちを、だれから匿い、だれに対してかばったのでしょうか?それは、父なる神さまから、父なる神さまに対して、です。「万物の終わりが迫っています」(7節)とありました。それは言い換えれば、神の裁きの時が迫っているということです。けれども、罪のために裁かれるはずの私たち一人ひとりを、主イエス・キリストが、父なる神に対してかばってくださる、その裁きから匿ってくださる。十字架の上でご自分の命を犠牲にして、その愛で私たちを覆ってくださる。そのように信じるのが、キリスト教信仰です。別の言い方をすれば、私たちの人生は、その多くの罪とミスを、人の愛と神の愛によって覆われながら生きている、生かされているという真理を、聖書は示しているのです。

 そのように、主イエス・キリストによって愛されているのだから、あなたがたも神の前に立つ者同士、「何よりもまず、心を込めて互いに愛し合いなさい」とペトロは言うのです。愛によって多くの罪を覆いなさいと勧めるのです。
 私たちが、愛によってだれかの罪を覆う。それで思ったのですが、先週6日の敬和学園高校での入学式での事です。我が家の次男が新潟市の敬和学園高校に入学して、高校生活、寮生活をすることになりまして、私と妻と二人で、5日に次男を寮に送り届け、6日の入学式に出席しました。その際、校長の小西二巳夫先生が、式辞の中で、今年3月に卒業した一人の卒業生の成長と変化を語ってくださいました。その生徒は、中学時代、ひどいいじめに遭って不登校になりました。やっとの思いで敬和学園に入学し、でも当初は、自分をいじめた相手を恨み、絶対に赦せないと考えていたそうです。けれども、敬和学園で高校生活を送るうちに、自分が先生方から、周りの友だちから、深く愛されていることを感じるようになった。そして、そのような人の愛を通して、神に愛されているという聖書の教えも分かるようになった。その愛によって自分を受け入れられるようになった。改めて振り返ってみると、もしあの時いじめられていなかったら、自分は敬和学園に入学しなかっただろう。そして、人に愛されている喜びも、神に愛されているすばらしさも知ることはなかっただろう。だから、これから先、あの時、自分をいじめた同級生に会う機会があったら、こう言いたい。“ありがとう”と。そう言って、この生徒は卒業して行ったそうです。
 なかなか思えること、言えることではありません。この生徒の成長と敬和学園の教育に感動しながら帰って来た私は、「愛は多くの罪を覆う」というのは、こういうことではなかろうかと思いました。自分が人から、神から深く愛されている恵みを知って感動する。だからこそ、自分も人を愛する。自分に対して嫌なことをした相手でも愛そうとする。その心が、お互いの多くの罪を覆い合って、この世を愛と平和な世界にしていくのだと思います。
 万物の終わりの時まで、命ある限り、生かされてある限り、私たちは、多くの罪を覆い合い、互いに愛し合うイエス・キリストの道を歩いて行きたいと願います。


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