坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年4月30日 礼拝説教「舟の右側に網を打ちなさい」

聖書 ヨハネによる福音書21章1〜14節
説教者 山岡 創牧師

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。



「舟の右側に網を打ちなさい」
“継続は力なり”という言葉があります。同じことでも繰り返し繰り返し続けていくと、それは良い習慣となり、身につき、力が蓄積されて実力になっていきます。特に、基礎の繰り返しはとても大事だと思います。
 新年度に入り、1ヶ月が過ぎました。今年度は私たちの教会に、高校生になった子どもたちがたくさんいます。中学の時とは違う、全く新しい部活動を始めた子たちもだいぶいます。最初は特に基礎練習の繰り返しだと思います。基礎技術、基礎体力をつけるための練習を繰り返すことは、決しておもしろくないかも知れない。けれども、その繰り返しが、大切な土台となり、実力の基になっていきます。
 神さまを信じる信仰も同じです。繰り返すことで信仰の土台が形づくられ、実力が蓄積されていきます。信仰生活も最後まで繰り返しの歩みです。
 今、イエス・キリストを信じて、生涯、共に生きていく誓いをし、洗礼を受けようと志しておられる方が二人おられます。嬉しいことです。私は、洗礼を受けたいと願われる方にいつも、“洗礼はゴールではなく、スタートですよ”とお話します。
 洗礼は、聖書と信仰のすべてを身に着けて、試験に合格し、免許皆伝になる、というようなことではありません。むしろ、そこからイエス様を心の内に置いて、一緒に生きていく生活が始まるのです。分からないこと、身についていないことがいっぱいです。だから繰り返します。最後まで基礎トレーニングを繰り返します。
 信仰の基礎とは何でしょう?それは、イエス・キリストの言葉を聞くことです。聖書を通して、イエス様が、私たちに何を語りかけているのかを聞いて受け取ることです。そして、その言葉に私たちも応える。祈ることで応え、また自分の生活の中で、その言葉に従って生きることで応えるのです。信仰生活とは、イエス・キリストとの、そのようなコミュニケーションの繰り返しです。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。
 ペトロをはじめ7人の弟子たちは、復活したイエス・キリストから、このように言葉をかけられました。それは、ガリラヤにあるティベリアス湖畔での出来事でした。彼らは、エルサレムから故郷のガリラヤに帰っていました。私たちは、失敗したり、挫折(ざせつ)したりすると、一度、生まれ故郷に帰ろうと考えることがあります。それは、自分をリセットするためです。7人の弟子たちも、そんな気持だったのでしょう。主イエスと一緒に旅をし、活動して来た。その主イエスが十字架に架けられて死んでしまった。弟子たちは絶望し、挫折をしたのです。
 ただし、弟子たちは、もう既に復活した主イエスにお会いしたはずなのです。直前の20章19節以下を読むと、主イエスが復活して弟子たちに現れてくださったことが描かれています。「あなたがたに平和があるように」(20章21節)と祝福の祈りをしてくださり、もう一度、弟子として立たせてくださったのです。信じられずにいたトマスを励ましてくださったのです。
 そして、主イエスは「また弟子たちに御自身を現わされ」(1節)ました。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(14節)と書かれているように、既に二度、彼らは復活した主イエスにお会いしているのです。喜びにあふれたのです。勇気と希望をいただいたはずです。
 にもかかわらず、彼らは故郷ガリラヤに帰りました。喜びと希望にあふれて帰ったようには見えません。彼らの漁の様子を見る限り、何だか気が抜けている感じがします。他にやることがないので、仕方なく漁に出て、時間をつぶしているように見えます。復活した主イエスと出会ったのに、いったいどうしてなのでしょうか?
 一言で言えば、私たち人間は“弱い”ということではないでしょうか。何か良いことがあって、喜びや希望を感じることがあります。勇気が湧いて来ることがあります。弟子たちも、復活した主イエスとお会いして、そう感じたに違いありません。けれども、日常生活に戻って、色んなことがあって、仕事がうまく行かなかったり、人間関係に疲れたりすると、あの時感じた喜びや希望が、勇気が、まるで“夢”だったかのように儚(はかな)く感じてしまうことがあるのではないでしょうか。
 主イエスは、そういう私たちの“弱さ”をご存じだと思います。だからこそ、三度、主イエスは、気力を失っている弟子たちのもとに来てくださったのです。聖書の中で“三”という数字は完全数と言われています。特別な意味を持つ数字です。だから、文字通り三度、ということではありません。三度というのは、繰り返し何度も、ということです。信仰の弱い弟子たちのもとに、私たちのもとに、繰り返し何度も、主イエスは来てくださいます。疲れて、弱り果てた私たちの心の内に来てくださるのです。聖書の言葉によって語りかけてくださるのです。もう一度、勇気を持って「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」と慰め、励ましてくださるのです。その声によって、沈んだ私たちは復活します。勇気を取り戻します。繰り返し立ちあがることができます。それが、神さまを信じるということです。主イエス・キリストと生涯を共に生きる、私たちの信仰生活です。

 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。疲れて沈んでいる私たちに、主イエスは声をかけてくださいます。道を示してくださいます。その言葉を受け止め、その言葉に従って生きてみる。その心で生きてみる。実際に生きてみることで、その言葉の持つ力を味わう。もちろん、特効薬のようにその効果がいつも出るわけではないかも知れません。でも、主イエスの言葉で与えられる喜びを、希望を、勇気を味わったとき、私たちはトマスのように、主イエスを信じて、「わたしの主よ、わたしの神よ」(20章28節)と告白することができます。繰り返し味わう時、私たちは、あれは「主だ」(7節)と信仰の喜びを確認することができます。それは、主イエスの言葉と、自分がピタッと一つになる感覚、主イエスの言葉に共感し、共鳴するような体験だと言ってもよいかもしれません。

 先週、一つのマンガにはまりました。週刊『少年マガジン』に連載されていた『聲の形』というマンガです。三女が1、2巻を買って来て、私にも読め、と勧(すす)めました。最初はその気がなく、1巻の最初の方だけ読んで“ちょっと読んだよ”と言って済まそうと思っていました。ところが、ちょっと読んだら引き込まれました。
 小学校6年生の時に、自分のクラスに転校して来た耳の聞こえない少女を、面白半分でからかい、いじめ、ついには転校させてしまった男の子が主人公です。その後、彼は友だちとうまくいかなくなり、高校3年になった時、死のうと決心します。しかし、その前に、かつての自分のいじめを後悔し、彼女に会って謝ってから死のうと考えます。けれども、その少女と再会して、主人公は、もう一度、その少女との関係をやり直したい、彼女の幸せのために自分の命を使いたいと願うようになるのです。
 私は、この主人公の気持、考え方がものすごく分かる気がしました。決して同じような学校生活、人間関係だったわけではありません。けれども、かつての自分がシンクロするのです。そして、人間関係がドロドロし、ごちゃごちゃしながらも、その主人公と耳の聞こえない少女との間に、“愛”がある。お互いを思う誠実さがあり、いたわりがあり、やさしさがあり、勇気がある。その姿に何だか泣けてくるのです。
 こういうシンクロ体験を、私は、主イエスとの間にも持ったことがあります。そして、主イエスのもとにある愛の真実さに共感し、感動し、涙を流したことが何度もあります。そういう体験を、主イエスの言葉を繰り返し聞き続けることを継続していれば、私たちは、いつか必ず持つことができます。そして、心から「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白する者にされます。
 今回、『聲の形』を読んで、一つ発見しました。自分が共感し、感動したことは、だれかに話したいということです。そして、それをだれかと分かち合えたら、それはとても幸せなことだということです。そういう意味で、主イエスの御(み)言葉に感動し、それを語ることができる説教とは、とても幸せな営みなのだと思いました。ある意味で、礼拝説教は“産みの苦しみ”です。いつもそれを感じています。けれども、私の中で、苦しみよりも、幸せなのだと思う気持が今回強くなったような気がします。
 今日はこの礼拝の後、教会総会があります。今年度の方針として、月に1回、礼拝後、聖書を読んで黙想し、感じたことを分かち合う会を計画しています。そこからお互いを知りあい、信仰と交流を深める機会にしたいと願っています。聖書を読んで話すなんて、大変だ、できないよ、と思う方もおられるでしょう。けれども、最初はだれかが話すことを聞くだけでも良い。だんだん話せるようになります。そして、それがきっと喜びに変わっていきます。聖書の言葉に何かを感じて、それを話し、その喜びをみんなと分かち合えることが幸せだと感じる時がきっと来ます。そのために教会はあります。
 主イエスの言葉を聞き、その愛に触れ、“喜びの大漁(たいりょう)”を味わうことを願って、私たちは、信仰生活、教会生活を継続していきましょう。


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