坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年5月7日 礼拝説教「愛を還元する」

聖書 ヨハネによる福音書21章15〜19節
説教者 山岡 創牧師

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。



「愛を還元する」
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。
 復活した主イエスは、湖に漁に出た弟子たちを迎え、朝の食事を一緒にした後で、ペトロに、このように問いかけました。もし食事の途中で何かをほおばっていたら、驚いて、思わずブッと口の中のものを吹き出してしまいそうな質問です。“この場で、それを聞く?”と言いたくなるような質問です。
以前の主イエスは、このような問いかけはしませんでした。せいぜい、あなたたちはわたしのことを何者だと思っているか?(マルコ8章29節、他)と尋ねるぐらいでした。ところが、復活した主イエスは直球勝負、どストレートにグイグイ押してくる感じです。
もちろん、イエス様とてTPOをわきまえられず、空気が読めないわけではないでしょう。むしろ、復活者として弟子たちと接する数少ないチャンスだからこそ、敢えてストレートに問いかけたのだと思います。
 ペトロはもちろん、弟子たち全員の間に緊張が走ったことでしょう。ペトロ一人が問われているのではない。自分も問われている、と他の弟子たちも感じたに違いありません。だから、ゴクリと固唾(かたず)を飲んで、ペトロが何と答えるか、耳をそばだてたに違いありません。そして、この問いかけは、私たちもまた、ある種の緊張感を持って聞くべきものです。主イエスを信じ、従って行こうと志している私たち一人ひとりが、主イエスから問いかけられていることです。「わたしを愛しているか」と。私たち一人ひとりが、この問いかけと真剣に向き合う必要があるのです。

 ペトロが答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)。主イエスの問いかけに、ペトロも臆することなく、すぐに答えました。ペトロもまた、何か重大なお言葉があるに違いない、と構えていたのかも知れません。
 それにしても、奥歯に物が挟まっているかのような、含みのある答えだとお感じにならないでしょうか?主イエスの直球に対して、こちらは変化球でかわそうとするかのような答え方です。“愛してるの?愛してないの?どっちなの?”と聞き返したくなるような答えではないでしょうか。もしこれが、結婚を考えている二人の会話だったとして、“ねー、私のこと、愛している?”と女性が尋ねた時、“ぼくが君のことを愛しているかどうか、君は知ってるはずだ”などと男性が答えたら、場合によっては、恋愛の熱が冷めてしまうかも知れないような答えです。“はい、主よ、わたしはあなたを愛しています”と、なぜペトロは答えなかったのでしょうか?
 それは、ペトロが、主イエスの弟子であることを打ち消した過去があるからではないでしょうか。主イエスが捕らえられ、大祭司の官邸に連行され、尋問されている時、ペトロは様子を見るために、官邸の庭に忍び込みました。けれども、そこにいた女中や大祭司の手下から、おまえは主イエスの弟子だろう、と言われ、それを3度打ち消したのです。一緒に死ぬことになってもついて行く、と最後の晩餐(ばんさん)の席上で豪語したペトロにしてみれば、それは“裏切り”も同然であり、心に刺さったとげだったに違いありません。
 復活した主イエスと既にお目にかかり、そのことを赦(ゆる)されたとは言え、思い出すと、とても“わたしはあなたを愛しています”とは言えない申し訳なさがペトロの心にはあったのだと思います。確かに、ペトロの思いとしては、主イエスを愛しているのです。こんな自分が赦され、愛されていることに、どんなに感謝してもし足りないと思っていたに違いありません。けれども、同時に、主イエスの弟子であることを打ち消してしまうような弱い自分が同居していることも否(いな)めない。裏切り、見捨ててしまような自分がいることから目を背けるわけにはいかない。果たして、それで愛していると言えるのだろうか?ペトロの中で、そんな自問自答が波のように繰り返されていたことでしょう。そのような思いが、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という答えとなって現れたのではないでしょうか。

 その問答が3度繰り返されます。ペトロは、3度目も同じことを聞かれたので、「悲しくなった」(17節)と書かれています。愛している。でも、そうは言えない。この心情を分かってもらえないのか?愛していることを認めてもらえないのか?と感じて、悲しくなったのかも知れません。
 けれども、もし主イエスがペトロの愛を認めていなかったら、“はっきりしなさい”と言われたかも知れません。「わたしの羊の世話をしなさい」(16節)という重大な委託(いたく)をされなかったかも知れません。ペトロがご自分を愛していることを認めているからこそ、主イエスの羊の世話をすること、つまり主イエスを信じる人々の信仰の世話をすること、教会に仕える使命を託されたのです。主イエスへの愛を、教会の信徒たちに、隣人に還元(かんげん)することを求めたのです。
 主イエスはかつて、ご自分を羊飼いにたとえて、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章11節)と語りました。ご自分を信じ、従おうとする人々のために、命を使い、命を捨てさえする者だということを、羊と羊飼いの関係にたとえて教えられたのです。その羊飼いに、今度はあなたがなってほしい。私は復活して天に帰る。地上にとどまることはできない。だから、この大切な働きをあなたに託す。あなたがたに託す。私に代わって良い羊飼いとなり、信徒たちを愛し、隣人を愛し、互いに愛し合う教会を、人間関係を築き上げてほしい、とペトロにお求めになったのです。その思いを伝え、ペトロ自身にはっきりと自覚させるために、主イエスは3度、「愛しているか」と確認し、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのでしょう。

 「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。自分の胸に手を当てて考えれば、私たちも、このように答える以外にないのではないでしょうか?疑いもある。迷いもある。従えないことも少なからずある。人を愛さず、裁くこともある。そのくせ、そんな自分に気づかずに、自分は正しいと自己主張することもしばしばある。それが自分だと気づいたら、とても“わたしはあなたを愛しています”と自信を持って言うことなどできないでしょう。
 けれども、それでよいのです。そういった一切のことを主イエス(神)はご存じです。その上で、主イエスは私たちを愛してくださっています。そして、欠点や弱さを持ちながらも、私たちが主イエスを愛して従おうとしていることもご存じです。そんな私たちの思いを、信仰と認め、喜んでくださっておられます。
 神さまへの信仰とは、私たちが自分の力や行いで、自信を持って、“わたしはあなたを愛しています”と告白することではありません。疑い迷い、弱く、欠けの多い私たちが、それでも神さまに愛されていることを知り、“主よ、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします”と、私たちのすべてをご存じであるお方に、自分を預け、おゆだねするところにあるのでしょう。

 その感謝と喜びを、隣人に愛することに還元して生きるように、と私たちは求められています。家族に、知人に、職場の同僚に、学校の友だちに、教会の仲間に、そして見たことのない世界の人々を愛する愛に還元することを求められています。
 それは必ずしも、自分にとって都合の良い環境や人間関係ばかりではありません。ペトロは、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)と、主イエスから示されました。私たちの人生は、自分の行きたいところばかりではなく、不都合な人間関係や、本意ではない重荷や問題を負って生きなければなりません。そこから逃げられません。だからこそ、その場で、主イエスを愛し、人を愛して生きることが求められるのです。
 既に天に召されましたが、カトリックのシスターであった渡辺和子さんは、「行きたくないところ」を、“神が置いてくださった場所”として受け止めることを教えてくれます。
神が置いてくださったところで咲きなさい。
仕方がないとあきらめてではなく、「咲く」のです。
  「咲く」ということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです。
  「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、
  私はしあわせなのだということを、示して生きることです。
  神が、ここに置いてくださった。
  それはすばらしいことであり、ありがたいことだと、
  あなたのすべてが語っていることなのです。
  置かれているところで精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。
  神が置いてくださったところで咲きなさい。
ラインホールド・ニーバー(渡辺和子・訳)
 シスターであっても、キレそうになる日もあれば、眠れない夜もある。30代半ばで、思いがけず岡山のノートルダム清心女子大学に派遣され、翌年、学長に任命されて、心乱れることも多かった時、一人の宣教師が、この、短い英語の詩を手渡してくれたとそうです。
 「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と続いた詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず「見守っていてくださる方がいる」という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです。
 咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう。
(『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎〈はじめに〉)
 主イエスを愛し、人を愛することは、置かれた場所で、人生に花を咲かせるような生き方なのだと、改めて教えられます。置かれた場所が受け入れられない時もあります。その場所で、人を愛せない時もあります。主イエスは、それではだめだとは言われません。主イエスはわたしたちをご存じです。そういう時は、下へ下へと根を下ろす。そういう自分であることを忘れずに、でも愛されていることを感謝して、主イエスの言葉を聞き続け、蓄え続けるのです。そうすれば、いつかきっと自分の場所を受け入れられる。人を愛する花を咲かせることができる。神の栄光を表わす一輪の花になれる。そのように信じていきましょう。


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