坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年9月10日 礼拝説教「光か、闇か」

聖書 ヨハネによる福音書3章16〜21節
説教者 山岡創牧師

3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

    「光か、闇か」
 ニコデモという人が主イエスのもとにやってきました。彼は、エルサレム神殿で行われていた商売や両替という悪しき慣習をたたき壊した主イエスの行動を認め、「神が共におられる」(3章2節)と称賛しました。その時、主イエスは、ニコデモの言葉を受け止めるのでもなく、彼に向って「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言われます。そこから、主イエスとニコデモの間に、“新たに生まれるとは?”という問答が始まります。今日読んだところは、その問答の続きです。

 ニコデモと主イエスの問答は、どうしてもかみ合いませんでした。「新たに生まれなければ」という必要性を、ニコデモがまだ受け止められなかったからです。そのため、この問答の後半は、主イエスの独り言とも言えるようなメッセージが続きます。その最初に語られているのが、聖書の中でとても重要な御(み)言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。
 今年は、宗教改革500周年記念の年です。マルチン・ルターが、カトリック教会の誤りを指摘する95カ条の意見書を提出した1517年より500年、そのことを記念して日本基督(きりスト)教団でも様々な記念行事が行われています。
 そのルターが、3章16節の御言葉を、“小さな聖書”“聖書の中の聖書”と呼びました。聖書が私たちに伝えたいことをギュッと凝縮すると、この一言に集約される。たとえ聖書のすべての言葉が失われても、この御言葉があれば、神の御心は分かる。ルターをして、そう言わしめた御言葉です。
 この御言葉の中心は、神の愛です。神さまがどれほど世の人々を、私たちを愛しているか、ということです。この愛を表わすために、神さまは、ご自分の独り子イエス・キリストを、世の人々にお与えになりました。この世に人として天から遣わし、人々を罪による滅びから救うために、ご自分の独り子を犠牲になさったのです。主イエスがお受けになった十字架刑が、この救いのための犠牲だと、私たちクリスチャンは信じます。
 自分の愛する子どもを与えるということ、失うということが、どんなに苦しい痛みであるか、どんなに大きな愛の勇気であるか、想像するだけでも辛い想いがします。
あるクリスチャンの母親がいました。その方は、神がイエス・キリストをこの世に与えたこと、世の人々の罪のために犠牲にされたことを、頭では分かっていました。ある時、この方の一人息子が殺されるという事件が起こります。辛く、悲しい日々が続きました。けれども、この体験によって、この方は、神さまがイエス・キリストを犠牲にし、失った痛みと愛の大きさが初めて分かった、それが“自分”の救いのためだと初めて分かったと、後に告白されました。
自分の独り子を失ってまでも、この世に愛を届ける。私たちに、“私”に届ける。この愛は、一つのプレゼントとして届けられます。それは「永遠の命」と呼ばれる救いの恵みです。

 「永遠の命」というものを、その言葉だけで考えると、ともすれば永久に生きること、と考えてしまいます。そして、常識から言ってそんなことはあり得ない、という結論になります。けれども、永遠の命とはそういう意味ではありません。
 ニコデモと主イエスの問答の中に、「神の国」という言葉が出て来ました。神の国を見、神の国に入ることが救いであると二人は考えていました。「永遠の命」とは、この「神の国」を言い換えたものだと考えられます。
 しかし、神の国という言葉も、私たちが普通、日本とかアメリカとか、そういう常識で捉える概念ではありません。空間的な場所があるとか、整えられた法や制度があるとか、そういったこととは違うのです。
 神の国とは、“神の愛が行き届いている”ということです。そういう場所、と言うよりは、そういう関係の中で生きること。それが永遠の命です。だから、永遠の命というものは、死んで「神の国」、“天国”と呼ばれるあの世に行ってから初めて与えられるものではなく、神の愛を信じたら、今既に、この世で与えられる命なのです。神の愛のもとに、神さまに愛されて生きること、その喜びこそ永遠の命です。永遠の命とは、もう既に、この世で始まっているのです。神の愛を信じることによって、イエスを神の愛を届ける救い主と信じることによって始まっているのです。
 この命を強烈に経験した人として思い浮かぶのは、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイです。彼はこの世で、だれからも愛されず、相手にされず、孤独でした。その虚(むな)しさを逆にバネにして、彼は徴税という仕事に精を出し、多少あくどい方法で金を儲け続けました。ところが、自分の町にやって来た主イエスを興味本位で見物しようと思っていたザアカイに、主イエスは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と声をかけました。そんなことを言われるのは、ザアカイにとって初めての経験だったでしょう。その晩の食事の席で、彼は、持っている財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)し、残りの半分で税をだまし取った人には4倍にして返す、と主イエスに宣言します。あれほどこだわっていた財産を、ザアカイにあっさりと捨てさせたものは、彼の心の内に湧き起こった喜びでした。愛されているということ、主イエスから認められていることの喜びでした。主イエスは、このザアカイの喜びを「救い」(10節)と言いました。
 この喜びこそ、言い換えれば「永遠の命」です。この世で与えられた「永遠の命」です。永遠の命とは、主イエスとの関係において、神との関係において与えられる恵み、神の愛のもとに、神に愛されて生きる喜びです。

 この神との関係が、今日の聖書箇所では、主イエスという「光」のもとに来るか来ないか、という関係性で表わされています。
 ヨハネによる福音書の冒頭で、イエス・キリストは「光」として紹介されています。また8章では、主イエスがご自分のことを、「わたしは世の光である」(8章12節)と語っています。主イエスとは、どのような光なのでしょう?ザアカイに対してそうであったように、人の命を優しく、あたたかく包む光という面があります。けれども、今日の箇所では、その人の行いを照らし、明るみに出す光として語られています。
 神殿で行われていた商売や両替を、神と礼拝を利用した悪しき慣習として、主イエスは明るみに出しました。また、その思い切った行動をほめたニコデモを、「新たに生まれなければ」という言葉で、彼の“律法の行いがすべて”的な信仰の間違いを明るみに出されました。
 自分の欲望、自分の間違い、自分の秘密を明るみに出されることは、だれしも嫌なものです。そういう人がいると、私たちは煙たがるか、逆に攻撃します。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(20節)と言われているとおりです。例えば、学校で掃除の時間に、まじめに掃除している人がいると、自分がさぼっていることがはっきりして、その人がうとましくなったりします。しっかりと子育てしている人を見ると、自分の子育てが非難されているような気分になったりします。まっすぐ、正しく生きることはなかなか難しい。だから、自分が逆の立場になれば、人に煙たがられないようにと、正論や正しい行動を控えたりすることもあるでしょう。
 けれども、主イエスがなさっていることは、単に正論ではないように思います。むしろ、正論の裏にある人のエゴを明らかにし、ハッとさせ、悔い改めへと導くのではないでしょうか。
 それがはっきりと示されている聖書の箇所があります。それは、主イエスが「わたしは世の光である」(8章12節)と言われた言葉の直前、ヨハネによる福音書8章にある〈わたしもあなたを罪に定めない〉という話です。
 姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女性が、主イエスの前に引っ張り出されました。神の律法では、姦通の罪を犯した者は死刑だと定められています。律法学者やファリサイ派の人々は、“律法によれば、この女は石打の刑だ。あなたはどう思うか?”と主イエスに詰め寄りました。彼らは、この女性の罪を明るみに出しました。その意味では、彼らは光であり、正しいのです。しかし、その正しさは“冷たい正論”ではないでしょうか。
 主イエスは黙っていましたが、しつこく詰め寄る彼らに、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8章7節)と言われました。その一言によって、彼らが正論の裏に秘めていた罪の心を明るみに出されたのです。もちろん、人前にさらされたわけではありません。ただ、彼らは、自分の心の中で強烈に意識させられたのです。彼らは一人、また一人と、すべての人が石を投げずに立ち去って行きました。彼らは、主イエスという光によって明るみに出された、正論の裏にある自分の罪を認めずにはおられなかったのです。そこに、一人ひとりの、自覚的な悔い改めが起こりました。一方で、主イエスは姦通の罪を犯した女性を咎(とが)めずに、やさしく諭(さと)して送り出す。永遠の命へと送り出すのです。いや、一人ひとりを“永遠の命の入口”へと送り出すのです。

 私たちは、主イエスという光を憎むこともあります。けれども、この光に照らされて、自分の内側の、正論で覆った奥にあるものを見つめ直すとき、命を本当に生きることができるのではないでしょうか。
 2章の終わりの説教でもお話しましたが、20世紀に生きた森有正というフランス文学者で、クリスチャンだった人がいました。この方が『土の器に』という著書の中で、次のように書いています。
人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神さまにお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。
 正しさ、正論の奥にある心の一隅を意識させられる時、私たちは、認められずに怒るか、認めて憐れみを願うか、どちらかでしょう。神殿で、自分の胸を打ちながら、「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈った徴税人は、まさに自分の心の一隅を認めて、憐れみを願わずにはおられなかったのです。
 けれども、この徴税人は、この心の一隅を、神さまに明け渡した時、そこで神さまと出会ったのです。自分の心の一隅を冷たく裁く神ではなく、その一隅を受け止める神と、愛で満たす神と、救う神と出会ったのです。
「神が御子(みこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、世を救うためである」
(17節)
 神の御心は、世の人々を、私たちを救うことです。ご自分の愛と赦(ゆる)しのもとで生かすことです。自分を隠さず、誤魔化さない勇気と素直さこそ、私たちの心に、神の救いを呼び寄せるのです。



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