坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年9月17日 慶老礼拝説教 「信仰のアスリート」

聖書  コリントの信徒への手紙(一)9章19〜27節

9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。


    「信仰のアスリート」
 ほとんどの方がニュースで聞かれたことと思いますが、陸上100m走で、日本人が初めて“10秒の壁”を突破しました。9月9日に行われた日本学生対校選手権大会で、桐生祥秀(きりゅうよしひで、東洋大4年)選手が、100m/9秒98というタイムをたたき出しました。
 それまでの日本記録は、伊東浩司選手が出した10秒00。桐生選手が2013年、高校3年生の時に10秒01を出して、夢の9秒台が期待され続けました。その後、ケンブリッジ飛鳥選手、サニブラウン選手、多田修平選手らが、10秒一桁台の記録を出して、リオ・オリンピックの400mリレーでも、日本が銀メダルを取って、日本の短距離走は盛り上がっていました。そして遂に、桐生選手が日本人初の9秒台をマークしたわけです。
 インターネットでちょっと調べてみましたが、日本人が100メートル10秒を突破する夢を、日本の中学、高校の陸上指導者、大学の研究者等、誰もが追い求め、それぞれに「人生をかける」ほど日々の努力を重ねてきた、とありました。その集大成が、今回の桐生祥秀選手の記録だというのです。また、記録が伸びた背景にはトレーニングの進化や、何十台ものビデオカメラで撮影してフォーム分析するなどの技術研究の成果、加えて、シューズやトラックの開発も挙げられる、とのことでした。
 まさに「やみくもに走る」(26節)のではなく、研究し、努力して、この結果を出した。それは、今日の聖書の言葉で言えば「節制」という言葉に言い換えられるでしょう。桐生選手がテレビ番組でインタビューを受けていましたが、100m走は10センチの違いで、タイムが0.01秒変わるそうです。桐生選手は100mを47歩で走るそうですが、1歩の歩幅を1センチ伸ばす努力をする。それだけでタイムがものすごく違って来る。また、スタートダッシュの速い選手のビデオを見て、スタートの仕方を変えたりもしたそうです。記録の陰には、そんな努力、「節制」があることを知りました。

 さて、今日の聖書箇所において、パウロは、クリスチャンを「競技場で走る者」(24節)にたとえました。陸上選手、アスリートです。そして、「あなたがたも賞を得るように走りなさい」(24節)と、コリントの信徒たちを励ましています。当時、優勝すると、名誉のしるしとして「冠(かんむり)」が与えられたようです。今でもオリンピックでは、月桂樹の冠が優勝者に与えられます。
 クリスチャンが、信仰の道を走り抜いて与えられる「賞」、「冠」とは何でしょうか?それは、聖書の中で「神の国」、「永遠の命」と呼ばれるものです。先週の礼拝で、ヨハネによる福音書3章16節以下を説教した時に、「神の国」、「永遠の命」についてお話しました。この二つはイコールなのですが、それは、この世においても、また“あの世”においても、神さまの愛の下で、喜んで、安心して生きる恵みのことです。それを得るために、私たちも信仰の道を走るのです。走っているのです。その意味で、私たちも“信仰のアスリート”です。
 ところで、陸上競技にも“走り方”があるように、信仰の道にも走り方があります。陸上競技で、やみくもに走っても記録は出ないように、信仰の道も、やみくみに走っても勝利にはつながりません。陸上選手は、“どうやって走ればいいか”、トレーニングを工夫したり、ビデオ映像でフォームを研究して、理にかなった、より良い走り方で努力を続けます。同じように、信仰の道にも、神さまの御心(みこころ)にかなった走り方があります。その走り方を、私たちは聖書から学び、主イエス・キリストを模範として実践し、努力する必要があります。パウロは、そのことを、「わたしとしては、やみくもに走ったり、空を打つような拳闘もしません」(16節)と表現します。「自分の体を打ちたたいて服従させ」(27節)、「節制する」(25節)と言います。
 クリスチャンの走り方、その節制とは、どんなものなのでしょうか?少し話が逸れますが、パウロは、コリント教会の信徒たちのことを“不節制”だと感じていたようです。言い換えれば、走り方がおかしい、その信仰生活が神の御心にかなっていない、と見なしていたのです。なぜなら、コリントの信徒たちのかなりの人が、放縦な、勝手気ままな生活をしていたからです。彼らは、洗礼を受けて、神の霊をいただいたなら、それは信仰の完成だ、ゴールだと考えていたようです。だから、その後の地上の生活はどんなふうにしたってかまわない。もう信仰的にはゴールに到達し、完成しているのだから。だからこそ自由に振る舞おう。そう言って、彼らは、勝手気まま、時には度を越した放縦な生活をしました。その信仰生活は、パウロに言わせれば、走り方がなっていないのです。自分勝手に信仰を解釈した、やみくもな走りであり、節制ができていないのです。
 確かに、聖書の教えによれば、神さまか与えられる「賞」は、自分の力で、自分の行いで勝ち取るものではありません。神さまの愛のお陰で、キリストの命の犠牲のお陰で、それを信じることによって、私たちに与えられる恵みです。それを信じる信仰を、形で表したものが洗礼です。洗礼は、信仰によって、神さまが私たちに「賞」をくださるという契約のしるしです。その意味で、洗礼はゴールであり、完成だと考えたとしても不思議ではありません。救いに行いは関係ない、と考えたとしても不思議ではありません。
 けれども、その後の人生を、勝手気ままに、放縦に生きることは、信仰にふさわしくない、洗礼にふさわしくない、とパウロは考えたのではないでしょうか。神の愛に感動し、キリストの恵みに感謝して生きる生活にふさわしくない。“クリスチャンらしくない”のです。その意味で、洗礼とはスタートなのです。信仰のトラックを、感謝と喜びをエネルギーにして、愛をエネルギーにして、ゴールを目指して走ることこそ、信仰生活です。

では、改めて走り方の問題、どう走れば、どう生きればよいのでしょうか。そのヒントが19節以下にあります。一言で言うならば、「すべての人の奴隷」(19節)になるような生き方です。“えーっ!?”と思うかも知れません。けれども、誤解せずに聞いて、考えてみてください。
 クリスチャンとは本来、「だれに対しても自由な者」(19節)だとパウロは言います。自分は、ありのままで神さまに愛され、認められている。それがいちばん大切なことと信じている。だから、ビクビクと人目を気にせず、人にしばられなくなる。こうしなければ人から愛されないと考えなくなる。“自分らしく”生きられるようになる。それが、クリスチャンの自由ということです。
 けれども、その自由を、勝手気ままな生き方に使うのではない。人のために使う。自分が神さまに愛されて、自分らしく生きられるようになったように、今度は自分が人を愛して、その人が自分らしく生きられるように支援する。それが、「人を得る」ということです。自分が得をするために、利用するために「人を得る」のではなく、その人がその人らしく生きられるように接していく。それが、「人を得る」ということです。それは、主イエスが弟子たちに、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20章26〜27節)と教えられたことと同じです。それが、「すべての人の奴隷」になる、ということです。キリストに倣って、神に仕え、愛に仕え、人に仕える走り方、生き方です。
 それを、もう少し具体的に語っているのが20節以下です。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように」(20節)、「律法に支配されている人に対しては‥‥律法に支配されている人のように」(20節)、「律法を持たない人に対しては‥‥律法を持たない人のように」(21節)、「弱い人に対しては、弱い人のように」(22節)、「すべての人に対してすべてのものになりました」(22節)。パウロはこのように語っています。
 “自分”がないわけではありません。パウロは、自分はこういう者だが‥‥と言っています。けれども、自分の主張や価値観、立場等にこだわらない。相手の考え、価値観、立場、生活スタイルを非難しない。否定しない。認める。受け入れる。そのようにして相手が自分らしく生きられるように配慮する。
 口で言うのは簡単ですが、実際には本当に難しいことです。私たちは、腹を立てます。決めつけます。自分を押し通したくなります。自分が正しいと主張したくなります。表面は認めたようで、心の中では否定していることもあります。ある意味で、“自分を捨てる”という自己規制が、すなわち「節制」が必要です。忍耐が必要です。そのような態度、そのような生き方は、一言で言うなら“愛”なのです。
 相手を決めつけずに、まず相手の話をよく聞くことから始めましょう。腹が立つこと、否定したくなることがあったら、一呼吸して、顔を上に向けましょう。それは、目の前の人から一瞬目をそらし、神さまを意識するということです。神さまは、私を愛しているように、この人を愛している。認めている。神様ならどうするか?と考えてみるのです。それはきっと、その人のどう接していくかのヒントになります。お互いに認め合ったり、すり合わせたり、時には自分は譲るという態度も生まれてくるでしょう。それが、信仰のアスリートの走り方、信仰の道の走り方です。

 本日は、〈慶老礼拝〉として守っています。私たちの教会にも、長い人生を歩んで来られた先輩が、その中で長い信仰の道を走って来られた方が何人もいます。キリストに従って歩み、信仰の深さを、愛の香りを感じさせる方が少なからずおられます。これからも、信仰のゴールを目指して走ってください。
 もちろんご高齢の方だけではありません。中年の者も、若い者も、みんな共に、信仰のトラックを走りましょう。置かれた場所で、自分らしく、人と比べず、神さまに愛されるオンリー・ワンとして歩みましょう。その意味で、“賞を受ける一人”になりましょう。神さまに愛され、人を愛するオンリー・ワンの生き方は、きっと周りの人に何かが伝わります。愛が伝わります。


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