坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年10月1日 礼拝説教「喜びで満たされている」

聖書 ヨハネによる福音書3章22〜30節
説教者 山岡 創牧師

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」


    「喜びで満たされている」
 自分はこれでいいのだろうか?このままでいいのだろうか?‥‥そう感じることがあります。ユダヤ人の多くが、そのように感じていたのでしょう。だからこそ、多くの人がヨハネのもとに洗礼を受けに行ったのです。
 自分たちは洗礼を受けなくていい。ユダヤ人の考えは、本来そうでした。なぜなら、元々自分たちは神さまに選ばれているから。選びのしるしとして割礼(かつれい)を受けているから。だから、洗礼を受ける必要がない。必要なのは、神さまに選ばれていない異邦人たちだ。異邦人が異教の神々ではなく、我々の神を信じたいと願うなら、自分の汚れを清めるために洗礼が必要だ。ユダヤ人は本来そのように考えていたのです。
 ところが、ヨハネは、ユダヤ人のこの考え方に、それでいいのか?と疑問を投げかけました。ユダヤ人だから、それでいいのか?ユダヤ人であっても、自分を省みる必要があるのではないか?自分を見つめよ、悔い改めよ。悔い改めて、変わりたい、変わらなければ、と願うなら、洗礼を受けよ。ヨハネは、ユダヤ人にこのように呼びかけて、悔い改めのしるしという意味で洗礼を授けたのです。
 主イエスもヨハネのもとに来て、洗礼をお受けになりました。イエス様もきっと、人間としての自分に苦しみながら、変わりたい、新たに生まれたいと願って、洗礼をお受けになったのではないでしょうか。

 その後、主イエスはヨハネとたもとを分かちます。ヨハネから離れて、独自の宣教活動を始めます。けれども、洗礼運動は受け継ぎました。3章の冒頭で、ご自分のもとにこっそりやって来たニコデモに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と主イエスはお語りになっています。悔い改めに加え、新たに生まれる、という願いと意味を込めて、主イエスは洗礼運動をお続けになったのです。
 ところが、ヨハネの弟子たちにしてみれば、それが気に入らないのでしょう。あんなに目をかけてもらったのに、師匠を裏切るようなマネをしやがって。それだけならまだしも、洗礼運動は我々ヨハネ団の十八番(おはこ)だ。あいつがやっているのは、あれはパクリだ。それなのに、うちの師匠があいつのことをほめて、救世主だ、「世の罪を取り除く神の小羊」(1章29節)だ、などと証しするものだから、かなりの人がうちではなく、あいつの方に流れている。いったいうちの師匠は何を考えているのか?ヨハネの弟子たちの、そんな疑問と苛立ちが26節の言葉に込められていると思われます。
「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(26節)。
 ヨハネの弟子たちにしてみれば、あるユダヤ人たちと、清めのことで論争が起こった時でしたから尚更、その腹立ちを主イエスの方に向けた感じです。おそらく、お前たちの洗礼運動は間違っている、ユダヤ人には清めの意味で洗礼の必要はない、とか何とか言われたのでしょう。そこで論争してカッカしているところに、自分たちから離れていったイエスの方はうまくやっている、たくさんの人がイエスのもとに行っている、ヨハネ団の人間もだいぶイエスの方に鞍替えしている、という噂が聞こえて来たものですから、腹立ちの矛先が主イエスの方に向いたとしても不思議ではありません。
 その心の底にあるのは、一種の妬みでありましょう。自分たちの方はうまく行っていない。けれども、自分たちから離れたイエスの方はうまく行っている。その現状を比べてみた時に、心の底から湧いて来る妬み心が、彼らの内にあったのだと思います。
 私が、自分の妬み心に、醜さを強く感じたのは、教会の子どもの部で奉仕をしていた時でした。まだ青年信徒で、初雁教会で教会学校の奉仕をしていた頃、子どもの人気が、自分以外の青年の方に行くと、ねたみを感じました。一番志向が強かったんですね。もちろん、その感情を表面に出すことはありません。そんなことは恥ずかしいことですし、人と比べてそんなことに妬みを感じるのは心の醜さだと頭では分かっていました。けれども、湧き上がるその妬み心を、自分ではどうすることもできませんでした。
 私たちは、自分と人を比べます。自分はうまく行っていないのに、人がうまく行っているのを見ると、あるいは自分よりも人の方が優れているのを見ると、その人が妬ましくなります。私たちは、比較の罪からなかなか逃れることができません。それは、生涯をかけて取り組まなければならない課題の一つです。主イエスの赦しを祈り、仰ぎながら、取り組んでいくべき人生の素材です。

 けれども、弟子たちの問いかけに応えるヨハネの言葉の中には、そのような妬みが微塵も感じられません。むしろ喜んでいる。自分のもとから巣立っていった主イエスの様子を知って、「喜びで満たされている」(29節)と言い、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)とさえ語っています。どうしてこのように考えることができるのでしょうか?その理由は27節にあります。
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(27節)。
この一言に、ヨハネの思いのすべてが込められています。
 この言葉は、直接には、自分のもとにやって来る、あるいは主イエスのもとに行く人々のことを指しています。ヨハネの弟子たちは、ヨハネのもとに来る人が減り、主イエスの方へ行く人が増えて来たことにいら立って、妬みを感じています。けれども、自分のもとに来る人も、主イエスのもとに行く人も、“天から与えられたもの”だとヨハネは考えているのです。ただ単に、自分の実力とか人気とか、そういった問題ではなく、天が、すなわち神が、これらの人々を自分に与え、主イエスに与えている。つまり、この現実の背後には、神さまの御心(みこころ)、ご計画が働いていると、ヨハネは受け止めているのです。
ヨハネはヨハネで、自分のなすべきことに全力を注いだでしょう。その結果、自分が衰えていくとしても、それは無駄ではない、神のご計画の中で意味のあることだと信じているのです。神さまの目的は、人を救うことである。そのためのご計画の中で、自分は用いられてきた。そして、人を救うという目的のバトンを、主イエスに手渡した。アンカーとして走るのは主イエスであって、自分ではない。そんな思いで、つないだバトンを握って、人の救い、この世界の救いというゴールに向かって走る、勝利のゴールに向かって走る主イエスの姿を見て、喜んでいるのではないでしょうか。
 そういう意味で、神の御心、ご計画を見通す信仰の目が成熟しています。確固としています。だから、苛立たない。妬まない。落ち着いている。そして、主イエスの宣教活動の中に、神さまのご計画が実現したことを受け止めて喜んでいるのです。喜びで満たされているのです。
 とは言え、私たちは、衰えていく自分をそう簡単に受け入れることはできないでしょう。悔しがったり、嘆いたり、苛立ったりするかも知れません。けれども、そのままでは自分の人生を受け入れて、精一杯生きることができなくなるのではないでしょうか?その衰えや失敗が無意味でも無駄でもなく、ポジティブに受け止めるためには、この世の目ではなく、神の視点が必要です。神のご計画を信じる信仰が必要です。
 私はふと、牧師の隠退ということを考えました。私にもその時が来ます。次の牧師に教会の伝道、牧会のバトンを託します。その後で、自分がまだ、第一線に立って活躍しようとしてはならないと思うのです。そんなことをすれば、次の牧師はやりにくいでしょうし、教会員も迷い、混乱します。自分は賢明に身を引く。そして、後の牧師と教会員が相和して教会が栄え、キリストの栄光が輝くことを祈ることが大事でしょう。
 私たちの人生には、きっと神さまのご計画があります。すべてを意味あるものとする、すべてが神の栄光に結びつく計画があります。それを信じて、それを見通す信仰の目を養われたいのです。その目があれば、私たちは落ち込みや苛立ちから解放され、落ち着くことができます。感謝と喜びに復帰することができます。

 さて、そのような神の御心、ご計画において、結婚式にたとえて言うなら、主イエスこそ主役の「花婿」(29節)であり、自分は「花婿の介添え人」(29節)だとヨハネは語っています。花婿が迎える「花嫁」(29節)とは、主イエスのもとにやって来る人々のことです。自分は花婿の介添え人だから、花婿のもとに花嫁がやって来ることを喜び、祝福できるのです。
 ところで、介添え人という言葉を改めて調べてみると、それはアテンダーと言って、花嫁のお世話をする人のことと書かれていました。私たちの教会でも、今年の3月にN.YさんとMさんの結婚式がありましたが、その際、SさんとYさんが、歩いている時のMさんのウェディング・ドレスの裾を調整したり、何かと気を配っていました。そのように、介添え人とは花嫁に対するお世話係であり、花婿に対する者ではないのです。
 では、なぜ「花婿の介添え人」と書かれているのでしょうか?この言葉を、聖書の原典のギリシア語で調べてみると、実は「介添え人」という言葉ではないのです。フィロスと言って、これは“友”と訳される言葉です。愛という意味とも関連があって、さしずめ“愛のある友”というところでしょう。ヨハネは、自分のことを花婿の友人、主イエスの友だと見ているのです。師匠などと上から目線ではない、主イエスを愛する友だと自認しているのです。
 そこで思い出されるのが、同じヨハネ福音書15章で、主イエスが弟子たちに語られた言葉です。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(12〜13節)。
 ここでも、同じフィロスという言葉が使われています。主イエスの「友」とは、主イエスの掟、主イエスの命じることを行う人のことです。主イエスの命じる掟とは、互いに愛し合う、ということです。主イエスに愛されたように、人を愛し、互いに愛し合うことです。
 そして、愛するとは、ある意味で「捨てる」ことです。本物の愛とは、本当の友だちとは、この人と付き合ったら損か得かという計算を捨てられる人です。相手のことを考え、自分の主張やこだわりを捨てて、相手を受け入れられる人です。それとは逆に、時には相手との平穏な関係を捨てて、時には言いづらいことを言える人です。でも、赦(ゆる)し合える人です。その究極が、「友のために自分の命を捨てること」でしょう。ヨハネは、主イエスを生かすために、自分の栄えを捨てる友の覚悟があったのではないでしょうか。
 私たちクリスチャンは、主イエスの御心を尋ね、従う僕です。主イエスの掟を守ろうと志す僕です。けれども、そんな私たちを、主イエスは「友」と呼んでくださいます。神を愛し、人を愛する道を共に歩む「友」と認めてくださいます。主イエスの愛が輝くように、栄えるように、人に伝わるように、私たちも、良き友となって誠実に歩みましょう。



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