坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年9月24日 礼拝説教(大人と子どもの礼拝)「導き、支え、戦う神」

聖書 出エジプト記14章19〜25節
説教者 山岡 創牧師

14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
14:23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
14:25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」


    「導き、支え、戦う神」
アダムとエヴァがエデンの園で罪を犯して以来、世界には人の罪があふれました。その世界で、アブラハムは、神さまから「祝福の源となるように」(創世記12章2節)と命じられ、神さまを信じ、祝福を勝ち取る旅に出発します。そして数百年後、祝福の使命を受け継いだはずのアブラハムの子孫たちは、祝福を受けるどころか、エジプトで奴隷として使われていました。奴隷の労働があまりにつらく、人々は、神さまに向かって“助けてください!”と叫びます。その声を聞いて、神さまは彼らのもとに、一人の人を遣わします。それが、モーセです。
モーセは彼らと同じアブラハムの子孫、イスラエル人の一人で、しかもエジプトの王女の子として育てられました。彼は一度、奴隷にされているイスラエル人を助けようとして事件を起こし、国外へ逃亡したことがあります。しかし、神さまから命じられて、エジプトに舞い戻り、イスラエル人を救うために、エジプトの王様と交渉を始めます。そして、ある夜、遂にモーセは、イスラエルの人々を率いてエジプトの地を脱出するのです。その時、主なる神さまは、「彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」(出エジプト記13章21節)と書かれています。その雲の柱、火の柱を遠くに見て、イスラエルの人々は安心し、その方向へと導かれて進んだことでしょう。

 ところで、この時、エジプトを脱出したイスラエルの人々は何人だったか、皆さん、知っていますか?
 少し話は変わりますが、11月3、4、5日に、お隣りの東松山市で、日本スリーデーマーチというウォーキングの祭典が行われます。10キロから50キロまでのコースがあって、武蔵丘陵森林公園の中も歩きます。私たちの教会では、T.Yさんが、もう少しお若い頃、毎年参加されていたようです。参加者は約8万人、私は見たことがありませんけれど、8万人の人が歩いたら、一体どんなマーチになるのだろう?きっと前も後も見渡す限り、人、人、人という感じなんだろうなぁ、と想像します。
 ちなみに、イスラエルの人々は、スリーデーどころではない、フォーティーイヤーズ・マーチです。この後、彼らは40年、神の約束の地を目指して、荒れ野を旅することになります。
さて、話を戻しますがエジプトを脱出したイスラエルの人々のマーチは、いったい何人だったと思いますか?出エジプト記12章37節には、「壮年男子だけでおよそ60万人であった」と書かれています。女性と子どもを加えたら150〜200万人。「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」(38節)とありますから、ゆうに200万人を超える大行進だったに違いありません。先頭から最後尾まで何キロになるのでしょうか?想像もできないほどの大行進です。それほどの人々が荒れ野を行進するというのは、もうそれだけで神の業としか、奇跡としか言いようがありません。

 さて、イスラエルの人々は、葦(あし)の海と呼ばれる海に向かって荒れ野を進みました。ところが、後ろからエジプト軍が、“逃がすまじ”と戦車で追いかけて来ます。前は海、後はエジプト軍。どこに活路があるのか?人々は、恐れ、後悔し、モーセに文句を言いました。その時モーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(14章13節)と語りかけます。
 3D(スリーディー)という言葉があります。3次元、立体の世界です。これに対して、2Dと言えば、2次元、平面の世界です。信仰者とは、平面の生活をする者ではなく、立体の世界に生きる者である、と榎本保郎牧師は言われました(『旧約聖書一日一章』75頁)。信仰の世界とは2Dではなく、3Dなのです。平面の世界ではなく、立体の世界なのです。
どういうことかと言えば、自分の前には海があって進路をふさぎ、後からはエジプト軍が迫って来る。大ピンチです。しかし、これだけを見て恐れていたら、それは平面の世界に生きる者です。けれども、モーセは、神を見よ、神の救いを見よ、と言います。前でも、後でもなく、平面ではなく言わば“上”を見よ、と言うのです。目に見える出来事や困難だけを見るのではなく、目には見えない神を見上げ、神を仰いで進め、と言うのです。平面しか見ていなかった生き方が、神を見上げることによって立体の生き方になります。3Dの生き方になります。それが、信仰という立体の世界です。

 目には見えない神さまを見上げ、神さまを信じて進む。人生において、神の救いを信じ、神が最善にしてくださることを信じて生きる。それができるように、神さまは、目じるしを備えてくださいました。雲の柱、火の柱です。エジプト軍が追いかけて来た時、この柱は、先頭から移動してイスラエルの人々の後ろに立ち、彼らとエジプト軍の間に、まるで壁のようになってさえぎったとあります。イスラエルの人々は、それを見て、神さまが自分たちと共にいてくださり、導き、また支え、守ってくださると感じたことでしょう。そして、海が割れて、その中を進むイスラエルの人々を追って、エジプトの人々がその中に踏み込んだ時、彼らは、思うように進まない戦車の様子に、「主が彼らのためにエジプトと戦っておられる」(25節)と感じました。聖書の神は、信じる者を導き、支え、そして戦う神です。
 私は、今日の聖書箇所を読み、雲の柱、火の柱とは何だろう?と考えながら、『ラチとらいおん』という絵本の話を連想しました。ラチはとっても弱虫な男の子。犬を見ると逃げ出したり、暗い部屋にも怖くて入れません。「強いライオンがいたらなぁ」と願っていると、ある日ラチのもとに、小さな赤いライオンがやって来ました。ライオンは、「きみも強くなりたいなら、ぼくが強くしてあげよう」と言って、ラチが強くなる訓練を始めます。そして、ラチが出かける時には、ポケットの中に入って、一緒について行くようになります。ラチは怖い犬に出会っても「こわくなんかないぞ。ぼくにはライオンがついているんだから」と言って犬のそばを通ることができました。暗い部屋にクレヨンを取りに行くのも、ライオンが一緒なら入っていくことができました。ライオンはラチのポケットのなかで、いつもラチと一緒にいてくれました。
ある日、友だちが公園で泣いていました。わけを聞くと、いじめっ子ののっぽに買ったばかりのボールを取られたと言います。ラチは「ぼくが取り返してきてあげる」と言って、のっぽを追いかけます。「こわくなんかないぞ。ぼくにはライオンがついているんだから」。そして、ラチはのっぽからボールを取り返します。ラチは嬉しくて、ポケットの中のライオンに話しかけます。ところが、そこにはライオンはいませんでした。家に帰ると、手紙がありました。「きみはライオンとおなじくらい強くなったね。もうぼくがいなくてもだいじょうぶだよ」と言い残して、ライオンはいなくなっていました。
 雲の柱、火の柱がイスラエルと共にあったように、ライオンはラチと共にありました。ラチは、自分のポケットの中にライオンがいて、いざと言う時には一緒に戦ってくれると信じて強くなれたように、私たちも、神さまが自分と共にいて、人生を導き、支え、守り、戦ってくださると信じて生きる時、強くなることができるのではないでしょうか。信仰とは、“こわくなんかないぞ。ぼくには神さまがついているんだから”と信じて生きることです。

 さて、私たちのポケットには何が入っているでしょうか?若い人のポケットやかばんには、常にスマフォが入っていることでしょう。いつもスマフォがあると、ある意味で安心というのが、現代人の心情かも知れません。けれども、スマフォ以上に、もっと大きな安心と導きを私たちに与えてくださる神さまを、心のポケットに入れて、私たちは人生を進みたいと思います。神さまは目には見えません。でも、一緒にいて、導き、支え、戦ってくださると信じれば、私たちは強くなれます。自分の人生をポジティブに見ながら、進むことができます。

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