坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年2月25日 主日礼拝説教(大人と子どもの礼拝)「命をかけて執り成す」

聖書 イザヤ書53章10〜12節

説教者 山岡 創牧師 

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。


           「命をかけて執り成す」
2月14日、今年はちょうどバレンタインデーの日から受難節レントが始まりました。受難節は復活祭イースターを基準に定められます。イースターは毎年、日にちが変わる祝祭日で、春分の日の後の満月の日の次の日曜日と定められています。今年は4月1日の日曜日です。そのイースター前の40日間を受難節レントと定めます。ただし、日曜日はこの40日間に含みません。日曜日は、教会にとって、クリスチャンにとって、キリストの復活を祝う祝祭日であって、受難の苦しみの日ではないからです。
 教会で受難節レントという期間を定めているのは、教会の三大祝祭日の一つであるイースターに向かって備えるためです。キリストの復活を祝うための備えをするのです。けれども、キリストの復活を祝うためには、その前にキリストの死を心に留めることが必要です。普通の死ではありません。キリストは十字架に架けられて処刑されました。その死です。単に罪人が処刑された死ではないことを心に留めなければなりません。
 教会は十字架を掲げます。礼拝堂に十字架を掲げます。屋根の上にも十字架を掲げます。それを見て、道行く人は、キリスト教や聖書のことをほとんど知らない人でも、“あれは教会だ”と認識してくれます。
 けれども、私たちが掲げる十字架は、単なる目印でも飾りでもありません。ペンダントのようなイミテーションでもありません。私たちはキリストの十字架の下に生きる、キリストの恵みの下に生きる、という信仰を表わすシンボルです。
 それならば、どうしてキリストの十字架の死が、私たちを生かす恵みとなるのか?そのことをじっくりと考えるのが、受難節レントという時です。十字架の恵みを、“借り物の信仰”ではなく、自分の心に納得される恵みとし、身に付けるための期間、そういう信仰へと深めていく時です。

 教会は、2千年前の創立の初めから、キリストの十字架の死を「償(つぐない)」いの献げ物」(10節)と、また「多くの人の過ちを担い、背いた人のために執(と)り成しをした」(12節)と受け止め、信じて来ました。イザヤ書53章は〈苦難の僕(しもべ)の預言〉と言われる箇所ですが、ここに預言されている苦難の僕とは、まさに主イエス・キリストのことだと信じたのです。キリストが、自分たちの罪を償うために、ご自分の命を償いの献げ物とされた。ご自分の命をかけて、多くの人の罪過ちを、神さまに執り成してくださったのだ。それが、キリストの十字架の死の意味だと捉えたのです。
 執り成しとは、間に立って仲直りをさせる、ということですが、私はふと、子どもの頃のある出来事を思い出しました。小学校1年生の時だったと思います。近所の同級生の女の子と遊んでいて、自転車に乗っていた時です。それまで開(ひら)けていた視界が、一瞬真っ暗になりました。気がついたら、大柄なおばさんにぶつかっていました。たぶん、一瞬よそ見をして前を向いたら、目の前におばさんの背中があったのでしょう。
 その時、すぐに謝ったと思います。けれども、おばさんは、それでゆるしてはくれませんでした。家まで案内して、お父さんとお母さんのところに連れて行け、と言うのです。私は、ぶつかった瞬間以上に、目の前が真っ暗になった気がしました。“とんでもないことをしてしまった。お父さんとお母さんに叱られる。どうしよう‥‥”途方に暮れました。けれども、仕方がありません。そのおばさんを、家まで連れて行きました。
 そのおばさんと私の両親とで何か話をしたのでしょう。私はその場に呼び出されることなく、外で待っていました。どんなことが話し合われたのかは分かりません。しばらくすると、おばさんが出て来て、そのまま帰って行きました。その後、私は両親に呼ばれることもなく、叱られることもありませんでした。事はおばさんと両親との間で解決されたようです。
 おそらく両親は、私に代わってそのおばさんに謝罪し、何らかの形で責任を取ったのでしょう。つまり、私の過失を執り成してくれたのです。
 そのように、キリストも私たちに代わって、私たちの罪を神さまに謝罪し、命を懸けて責任を取ってくださったのです。それがキリストの十字架刑の意味です。

 けれども、自分の罪がよく分からないし、たとえ聖書が言うところの罪が自分にあるとしても、それがどうして2千年前のユダヤ人であったイエス・キリスト(の十字架刑)と関係があるのか、よく分からないという人もいるでしょう。
 角度を変えてキリストの十字架を考えてみましょう。ユダヤ人には、律法という神の掟がありました。その律法が記されているレビ記という書の中に、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ記11章45節、他)という御(み)言葉があります。神の民として神の庇護を受ける者は、神の清さにふさわしく、自分も清い者でなければならない、と言うのです。罪や汚れによって清さを失ったら、それは神に愛される価値、神の共同体に属する資格を失ったことになります。
 もしそうなったら、清さを取り戻さなければならない。清さを取り戻すためには、価値あるものを、命(血)を献げなければならない、という思想が律法の根底にあります。けれども、自分の命を献げるわけにはいかない。だから、自分の命の代わりに、動物の命を献げたのです。そのような思想と慣習がユダヤ人にはありました。
 けれども、もはやそのような献げ物をささげる必要はなくなった。神の子であるイエス・キリストが私たちの代わりに、神の子の命という最高に価値ある献げ物をしてくださったからである。だから、私たちは無償で、神の民にふさわしい、価値あるものとされた。それを信じるだけでいい。教会とクリスチャンは、そのように信じたのです。
 この考えを現代的に考えて、捉え直してみると、“人間の価値の回復”ということになるのではないでしょうか。失ってしまった価値を、主イエス・キリストが回復してくださったのです。だから、私たちは、償いとか埋め合わせとか、そのような“行い”で自分の価値を取り戻す必要がなくなったのです。
 いや、私たちには、自分の行いではどうしても償うことのできない罪があるのではないでしょうか?代償行為では、もはや取り戻せない現実とそれによって壊してしまった人間関係(信頼関係)というものがあるのではないでしょうか?行いのレベルでは、回復など到底考えられない厳しい現実、背負っていく以外にない罪を、私たちは負うことがあります。
 ならば、そのような私たちには、もはや人間としての価値はないのでしょうか?そうではありません。私たち人間が、自分の行いでは取り戻せない罪を、神が代わりに償い、私たちの価値を回復してくださったのです。
 それは、違う角度から見れば、“行い”による価値ではなく、元々持っている“存在”の価値に、イエス・キリスト(の十字架)が気づかせてくれた、ということなのです。何ができるからとか、できないからとか、何をしたからとか、していないからとか、そういったDoingに関係ないBeingとしての価値、存在しているだけで価値があるという命の価値です。人の命には神さまの愛がいっぱい込められているが故の価値です。
 だから、自分の行いの如何(いかん)にかかわらず、私たちは存在としての価値を失うことはありません。けれども、私たちは、自分の行いによって価値を失ったと勘違いをします。その勘違いに気づかせ、自分は価値あるものなのだ、ということを思い出させる。イエス・キリストの十字架の死は、私たちに、人間が本来持っている存在としての価値に気づかせるための出来事、きっかけなのだと思います。それが、罪の償い(贖い)とか神への執り成しといった宗教的な内容を、人間の価値という角度から見直すことによって教えられる真理だと私は考えます。

私たちは、自分のことを価値のない、ダメ人間だと感じて落ち込み、自信を失い、不安に陥ることがあります。それは多くの場合、自分が何かをできなかったり、結果を出せなかった時、そういう自分を他人と比較している時です。その気持が分からないわけではありません。私もそうでした。けれども、私たちは、社会のそういう価値観に毒されて生きています。いつの間にか、自分が本来持っている価値を忘れます。行いによるDoingの価値ではなく、命を与えられ、存在しているというBeingの価値を忘れてしまいます。私たちが本来持っている命の価値、存在としての価値、それをキリスト教では“神さまに無条件で愛されている”という言葉で表します。
イエス・キリストの十字架は、“あなたは神さまに愛されている、大切な、価値ある存在なんだよ”という恵みと真理を、私たちに語りかけているのです。私は価値あるもの、と自信を持って、安心して、忘れそうになったら思い出して進みましょう。 



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