坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年3月4日 主日礼拝説教(受難節第3主日)「神からの誉れを求めよう」

聖書 ヨハネによる福音書5章41〜47節
説教者 山岡 創 牧師

5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。
5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
5:44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
5:45 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
5:46 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
5:47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」


           「神からの誉れを求めよう」
年度末の3月を迎えました。この時期、様々な組織や団体が1年間の総括をし、新年度へと向かう準備をします。日本基督(キリスト)教団61の教会・伝道所が属している埼玉地区もそうです。今度3月21日・春分の日に埼玉地区総会が開かれ、今年度の活動を総括し、また新年度の地区委員長、地区委員を選び、基本方針を定めます。坂戸いずみ教会からは、私と小笠原役員が出席します。私にとって今回は26回目の埼玉地区総会です。
 もう20年以上前に、29歳の時に初めて埼玉地区委員に選ばれました。2年後、2期続けて選ばれました。2期目は書記を担うことになりました。私の中に、若くして地区委員に選ばれ、書記という三役を担うことに、ちょっと誇らしい気持がありました。そして、それをだれかに認めてほしいと願う気持がありました。そんなことを願うのは恥ずべきことという考えが一方にありましたが、心の片隅に、認められたい、ほめられたいと思う気持があったのでしょう。それが表面に顔を出す時が来ました。
 ある教会で、新しく赴任された牧師の就任式があった時です。就任式を終え、その後、交わりの茶話会になりました。司会進行の方が、周りの教会からお祝いに駆けつけてくれた方々を紹介し、一言スピーチを求めました。私は、“これは私のところにも順番が回ってくる。埼玉地区の書記だし、さて、どんな挨拶(あいさつ)をしようか”と心の中で考えていました。ところが、進行役の方は、私のことを紹介しませんでした。私を飛ばして次の人を紹介し、そのまま会は進みました。たぶんうっかり見落としたのか、時間の都合があったのだろうと思います。けれども、私は恥をかかされたと思いました。腹が立ちました。“この野郎、おれをだれだと思っている。埼玉地区の書記様だぞ!若僧と思って、侮りやがったな!”。そんな思いが頭をよぎりました。
やがて式が終わり、帰りの車の中で、だんだん怒りの熱が冷めて来て、その時、愕然(がくぜん)としました。自分の中に、“私は埼玉地区の書記です”と挨拶をして認められたかったという気持があったのだということにハッと気づきました。思い上がっていました。そういう自分が恥ずかしくなりました。聖書の中に、「人からの誉れ」(41節)ではなく「神からの誉れ」(44節)を求めよ、という教えがあることは知っているつもりでした。自分を誇り、人からの誉れを求める生き方を、信仰的に美しくないと思い、避けているつもりでした。けれども、私の中に人一倍、人からの誉れを求める願望があったのです。それ以来、自分の中に、人から認められたいと願う気持がむくむくと頭をもたげてきた時は、あの就任式のことを思い出し、心の戒めにしています。

「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」(44節)。
 主イエスは、ご自分に敵対し、殺そうとさえ考えているユダヤ人たちに、こう言われました。ユダヤ人は、唯一の神を信じる人々でした。モーセによって与えられた神の言葉、律法、そこに書かれていることを信じ、従う人々でした。神さまを信じ、従うことで、神からの誉れを求める人々でした。ところが、いつの間にか、律法を熱心に守り、行うあまり、“自分はこんなにできる”と誇り、人に認められ、人からの誉れを受けたいと願う気持に変わって来てしまったようです。
 そういうユダヤ人たちの願望を見抜いて、主イエスが戒(いまし)めておられる箇所があります。マタイによる福音書6章です。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(6章1節)。こう言って、主イエスは、人の前で施し、祈り、断食をすることを戒めています。ほめられようとして、人の前で善い行いをするな。それは偽善者のすることだ。そうではなく、人に知られないように、隠れたところで行いなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる神が報いてくださる、と教えています。
 私たちも注意しなければならないでしょう。私たちも人の視線を気にします。人に認められたいと願います。互いに相手からの誉れを受けたいと願い、評価し合います。いつの間にか神さまの視線を、神さまがどのようにご覧になっているかを忘れます。
 ウイミックスという人形の村がありました。そこに住む人形たちは毎日、お互いに金色のお星様シールと灰色のシールを相手の体に貼り付け合っていました。なめらかな木でできていて、絵具もきれいに塗られていたら金色のシールが貼ってもらえる。でも、木がデコボコ、絵具もはがれていたら灰色のダメ印シールが貼られる。力持ちだったり、難しい知識を知っていたり、上手に歌を歌える人形には金色シール、でも何もできない不器用な人形には灰色シールばかりが貼られていました。
 パンチネロという灰色シールだらけの人形がいました。あきらめていました。自分をダメな奴と思っていました。けれども、ある日、彼はルシアという人形と出会います。彼女の体には1枚のシールも貼られていませんでした。金色も灰色もない。だれかが貼り付けても、すぐにはがれ落ちるのです。不思議に思ったパンチネロは、自分もそうなりたいと思い、その訳を聞きます。するとルシアは、丘の上に住んでいるエリという彫刻家と毎日会って、話しているからだと答えました。
 やがてパンチネロは、意を決してエリに会いに出かけます。エリは人形たちを造った彫刻家でした。“周りの人形がきみをどう見るかなんて大したことじゃない。問題は、私がきみのことをどう思っているかだ。そして私はきみをとても大切だと思っている。私がきみを造ったのだから”。エリの言葉を聞いて、パンチネロは嬉しくなります。そして、家に帰る途中、その体から灰色シールが1枚、ポロリとはがれ落ちるのです。
 これは、マックス・ルケードという牧師が書いた『たいせつなきみ』という絵本の話です。まさに、人からの誉れを求めて生きている私たち人間の姿を描いた作品です。私たちをお造りになった神さまが、私たちのことをどのように見ているか、を忘れてしまう。自分と人を見る本来の視点を失っている私たちの姿です。それは、人からの誉れを求めて、神からの誉れを求めようとしない私たちの姿です。

 「唯一の神からの誉れを求めようとしない」。そういうユダヤ人の姿を、主イエスは、「あなたたちの内には神への愛がない」(42節)と言われました。これは、ユダヤ人にとっては、腹立たしい、反論したくなるような、自己弁護したくなるような批判です。なぜなら、ユダヤ人たちは律法を学ぶ際に、「聞け、イスラエルよ」という申命記6章4節の呼びかけに始まり、その直後に、「あなたは心を尽し、魂を尽し、力を尽して、あなたの神、主を愛しなさい」(6章5節)という言葉を聞くからです。律法を学ぶ時、まず「神を愛しなさい」と言われる。それなのに、「神への愛がない」と言われるのは、強烈な批判です。
 けれども、“ユダヤ人たちにはあなたへの愛がありません”などと、主イエスは、父なる神に訴えません。むしろ、「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」(45節)と言われています。「モーセ」というのは、モーセによってユダヤ人に与えられた神の言葉、律法を指しています。律法そのものが、ユダヤ人たちを神さまに訴える証人となる、と言うのです。なぜなら、律法が求めていることを信じず、行っていないからです。律法には何と書いてあるか。律法は何を求めているか。イエスを唯一の神が遣わされた神の子、救い主と信じることです。それが、律法つまり旧約聖書がユダヤ人たちに、読む者に求めていることだ。けれども、あなたたちは信じようとしない、と主イエスは嘆いておられるのです。
 同じことが直前の39節でも言われていました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。主イエスのところに来ない。主イエスを信じない。その信じない姿勢を律法(聖書)が訴えるのだと言われます。そして、信じないこと自体が、前にもお話したように、神の裁きになっている、その裁きを決めるのは、主イエスではなく自分自身なのです(3章18節〜)。自分で信じない側に自分を分けている。それが裁きなのだよとヨハネ福音書は言います。

 話を戻しますが、人からの誉れを求めることは、神を愛していないということです。神を愛することは、神からの誉れを求めることです。神さまが自分をどのように見て、感じているかを大切にするということです。そしてそれは、主イエスの言葉を聞き、主イエスを信じて従うこととイコールです。
 主イエスご自身は、「人からの誉れは受けない」(41節)と言われました。そして、「神からの誉れを求めよう」と語りかけているのです。人からの誉れは受けない。その生き方は、大きな人生の転換だと言ってよいでしょう。
 最近、数年前に流行した『嫌われる勇気』という本を、改めて読み返してみました。この本の中にも、劣等感にさいなまれ、人から認められたいと願う青年が登場します。その青年と対話し、導く哲人は語ります。嫌われる勇気を持て!と。それは次のようなことです。
 自由とは、他者から嫌われることである、と。‥‥‥たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていきたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人に嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。‥‥
 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかも知れないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。‥‥
 嫌われる可能性を恐れることなく、前に進んで行く。‥‥幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ち得た時、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。(『嫌われる勇気』162〜165頁)
 私は、今回の聖書箇所を黙想しながら、では「神からの誉れ」とはいったい何だろうか?と考えていました。目に見える、この世の評価、この世の誉れとは全く違うものです。その時、『嫌われる勇気』の内容をふと思い起こしました。
「神からの誉れ」とは、天国に行ってからいただく「永遠の命」でしょう。パウロは「義の栄冠」(Ⅱテモテ4章8節)とも言っています。けれども、永遠の命とは既に今、信じた時から始まっています。その、今既に与えられている神からの誉れとは“自由”というご褒美ではなかろうか。神さまからどのように見られるかを第一にすることによって、人の視線を良い意味で気にせず、人からの承認、誉れを求めない生き方をする時に得られる“自由”のことかも知れない。そう思いました。
 主イエスも「人からの誉れは受けない」と言って、嫌われる勇気を貫きました。神からの誉れを求めて神の御心(みこころ)に従い、神殿の有様を非難しました。律法を文字通り守ることを求める律法学者らの信仰を批判し、“愛”こそ律法の真髄と汲み取って、安息日の掟を破り、人を癒(いや)し、罪人を愛しました。そのために、ユダヤ人の指導者たちから嫌われ、ついには十字架に架けられることになりました。けれども、唯一の父なる神は、主イエス・キリストに“復活”という「神からの誉れ」を授けてくださいました。
 私たちも、人からの誉れを求めず、神からの誉れを求めて生きていきましょう。信仰という勇気を持って、人を恐れず、自由を、幸せを求めて生きていきましょう。人の本来の生き方に復活しましょう。 



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